ふたつ、ふるまうはなむけの

第一輪 追儺、花の直会(なおらい)

第10話 怙考恃妣(ここうじひ)

「オババさま!?」

「オババさま、大丈夫ですか!」

「徳子のたわけめ、うかつなかやりにやられたか」


 うろたえる信者たちに対し、娑馗しゃき聖者しょうじゃは呆れた様子だ。いつの間にか、脱ぎ捨てたはずの黒い小袖を女形にょけいの裸に羽織り、ざぶざぶと岸辺へ近づく。

 荒唐無稽な出来事の連続を理解しようと、道眞どうまは頭脳をフル回転させた。


(今のは、念力だか呪詛だかを、百舌鳥もずがはね返したってことか?)


 奇妙な呪文で攻撃してきた老婆より、彼の方が強いらしい。そういえば、百舌鳥は霊能力を持つ志挙乎しこおだと、当の徳子オババが言っていた。良い知らせだ。

 問題は、それが果たして自分の味方なのか、正気を持っているのかどうかだが。


「お……っぉ……っ」


 百舌鳥は白木の舞台で膝立ちになりながら、くうを裂く絶叫をほとばしらせた。


「やぁぁめぇ……ぇえ……ろおぉっ! やぁっめええっ……ろおぉぉおお!」


 不気味な叫びが、ハサミのように鋭く肺に切りこんでくる。そして、鬼火を灯す眼窩がんかからは、滝のように真っ赤な涙の奔流が。


「なっ、血涙!?」


 赤黒くどろどろとした涙は彼の頬を割り、胸から白木の舞台へ流れ落ちて広がる。やがてポタポタと地面に滴り落ちていくさまは、涙などという量ではない。

 これが血液だとしたら、命が危ぶまれるほどだ。それでも、百舌鳥の声も血の涙も収まる気配はなく、道眞は頭が割れそうな音の責め苦に膝をついた。

 握りしめていた箸を落とし、百舌鳥の手も離して自分の耳をしっかりと覆う。


「え、あ、なにこれ、なにこれ!」


 不死の〝神餌かみえ〟になったはずの生出おいずるまで、狼狽して耳を塞いだ。ぎぃん、と激しい耳鳴りをともなって、音にならぬ音が洞窟全体を満たす。

 人の耳には捉えられぬ高音域が、脳と鼓膜をしたたかに揺さぶり、激しい頭痛と眩暈で吐き気がしそうだ。

 道眞は初め自分の体が震えていると思ったが、どうやら小さな地震まで始まっているらしい。赤いロウソクが何本も倒れ、吊された提灯がぱつぱつと弾け飛ぶ。


「聖者さま!」

大聖者だいしょうじゃさま!」

「お助け下さい!」


 信者たちが逃げ惑い、倒れたり、傾ぐ石灯籠を支えようとしている中、百舌鳥は叫び続けていた。口の中では、二つに割れた舌が赤い蛇のように身をくねらせる。

 両手の指を鉤のように曲げ、叫び、わめき、叫び、喚き。


、つかまえたな」


 唐突に、叫びが言葉の形を結んだ。地震が止んだようだが、まだ足元がぐらつく感じがして判断がつかない。道眞は耳から手を離しながら、百舌鳥を見た。


「ヤマ、オレの。オレのヤマ。なんで? オマエたち、なんで? なんで?」


 幼稚で舌足らずな言葉遣いで、彼はぐるりとあたりを見回す。鬼火を灯した虚ろな眼には、どす黒い害意しか感じられなかった。

 つ、とそれが下を向き、道眞は自分が射すくめられたと心臓が跳ねる。だがまみれた視線は、道眞を通りこしてトリアゲ婆に向いていた。


「ムカ、つく。きたない。くさい。きらい。オマエた、ち。みんな。コ、ワ、す」


 訥々とつとつとたどたどしい口調。百舌鳥は白木の舞台を飛び降りて、老婆の体に着地する。げぼ、と血の泡がしわくちゃの口からこぼれたが、おかまいなしだ。


「コワれる、ゴミになる。ぜーんぶ、ゴミくず!」


 目鼻口すべてから血泡を吹いたトリアゲ婆の顔は、深いしわが水路となって、奇怪な文様を刻んだおどろおどろしい肉塊になっていた。

 ただでさえ口と鼻の境が曖昧なほど皮がたるんでいたそこに、百舌鳥は拳を叩きこむ。ごぢゅっと音がして、鼻であろう部分が完全に無くなった。


「も、百舌鳥! やめろ!」


 道眞の声を無視して、百舌鳥は何度も何度もトリアゲ婆の顔面を殴る。羽交い締めにしようと背後から近づくと、裏拳がしたたかに道眞の頬を打ち抜いた。

 あえなく吹っ飛ばされ、みじめに石畳の地面を転がる。トリアゲ婆から受けた謎の念力もあって、道眞はくらっと気が遠くなった。


「ゴ~ミ~く~ず」打゙打゙打゙だぢゅっ「ゴミくずゴミくずゴミくず」打゙打゙ずん、打゙打゙どぢゅっ!「きったないゴミくずゴミくず」打゙打゙ごぢぇっ打゙打゙打゙ぎゅっぐん、打゙打゙どづん!「きたないきたないきたない」湿った打擲音ちょうちゃくおんが途切れない。「ゴミくずゴミくずゴミくず」


 目玉が片方、地面にこぼれ落ちた。


「ゴミくずゴミくずゴミくずゴミくずゴミ! くず! きったなぁあい!」


 老婆はもはや目鼻立ちの原型が、ない。百舌鳥は血に酔うという言葉をそのまま体現するように、ほの赤く上気した頬に点々と返り血をつける。

 殴り続けるのに飽きたのか、彼は哀れな犠牲者の口に手を入れた。ぐったりと気を失って見えたトリアゲ婆が、切実な苦痛への懇願を表してうめく。

 道眞が石畳から身を起こしていると、不意に娑馗聖者が歌い出した。


「――赤い、御墓おはかの、ヒガンバナ♪」


 ポキュ、と軽くも不気味な音がしたのは、道眞の気のせいだろうか。百舌鳥の手には、抜くか折るかされた歯が二本あった。


「地には七本、血のように♪」

「地には七本、血のように♪」「地には七本、血のように♪」


 聖者に合わせて信者たちが唱和する。


「一つ取ってもヒガンバナ♪」

「一つ取ってもヒガンバナ♪」「一つ取ってもヒガンバナ♪」


 百舌鳥は老婆の歯を割れた舌スプリットタンにぽいっと乗せ、飴玉のようにゴキゴキ、ボリボリと音を立てて噛み砕く。生出もまた、皆に合わせて歌っていた。


(白秋の『曼珠沙華ひがんばな』か?)


 道眞は昔、聞いたことがある。本来なら「ゴンシャン、ゴンシャン…」から始まる明治時代の曲だが、歌詞をかなり省略しているようだ。


こはや赤しや、まだ七つ♪」

「恐や赤しや、まだ七つ♪」「恐や赤しや、まだ七つ♪」


 なんだこのお遊戯会はと道眞が思っていると、百舌鳥が顔をしかめ、ぺっと粉々になった歯を吐き捨てた。ごしごしと、気持ち悪そうに手の甲で口をぬぐう。


「まっずうぃ……」

「それはそうであろうよ。わらしや童、可愛い童。歯は食物じきもつではないぞえ」


 ころころと鈴を転がすように、娑馗聖者は笑った。


「〝閻魔えんま童子どうじ〟のキヨイや、そのへんで許しておやり」


 がしゃん、と娑馗聖者は地面に錫杖を突き立てると、両手を広げる。艶然と白く輝く女体は、その股にち上がる男根まで美しく、気品があった。


「かぞいろさまぁ!」


 初めて聖者の存在に気づいた百舌鳥――キヨイと呼ばれたものは、その胸に勢いよく飛びこんだ。陰茎が下肢に触れるが、気にせず乳房に顔をうずめる。

 娑馗聖者の濡れた体に、キヨイが流した血の涙がつくが、こちらも意に介さない。なんとも仲睦まじい様子で、聖者は幼子にするように大男の頭を撫でた。


「久しいのう。ちょうどあれから二十年はたとせか」

「うん! かぞいろさま、アいたかった!」


 それまで荘厳なたたずまいを見せていた娑馗聖者は、一転して雰囲気を和らげている。実にいとおしげな手つきで、キヨイの厚く広い背を撫でた。


「そちのオモチャを取り上げそうになって、すまなんだ」


 見てはいけないものを眼にした気分で、道眞はいたたまれなくなった。


御供ごくを上げるから、今日はこれでお帰り」

「ゴク? こんぺー? とー?」


 キヨイが顔を離すと、頬を濡らしていた血涙はほとんど聖者の肌に拭い去られている。だが後からまたはらはらと、赤黒くぬめる涙がこぼれ続けた。


「そうそう、そちの好きなお星さまよ」


 娑馗聖者が錫杖を持っていた手には、懐紙の包みがある。全裸に小袖一つで、しかもそれはさっきまで水に浸かっていた服だというのに、紙はよく乾いていた。


(どこからあれを出したんだ?)


 位置的に、聖者に物を手渡せる所に信者はいなかったし、誰も近づいていないはずだ。白魚のような指が包みを開くと、色とりどりの金平糖がひとつかみ出てくる。


「コンペートー!」


 キヨイは娑馗聖者から包みを受け取ると、紙ごと口に放りこんだ。頬をふくらませながら咀嚼するさまは、いかにも上機嫌の子どものよう。

 二人――人、と呼ぶには怪しい――がそんなやり取りをする横で、信者たちがかすかに痙攣けいれんしているトリアゲ婆を担架で運んでいく。

 誰も道眞には注意を払っていない。

 逃げるなら今かもしれないが、ああなった百舌鳥から目が離せなかった。道眞が迷っていると、キヨイが「うま~い」と声を上げる。


「赤いお花のヒガンバナ♪ 一つ摘んでもまだ真昼♪ まだ真昼♪ また逢ふあう日まで、およらさせおねむりたまへ」


 柔らかな聖者の声に、キヨイは「うん」と答えると、その場に膝から崩れ落ちた。かくん、とうなだれて、頬を濡らしていた血の涙がじゅわっと蒸発する。

 かすかな白煙の中、前髪がひと房、小指一本ほど白く変わっていった。


「あぁ……?」


 間を置かず、百舌鳥ヤマトが目を覚ます。奈落のように虚ろな眼ではなく、ギラつく瞳が、獰猛な獣のように光った。数度瞬き、あたりを見回す。


「なんやこら……羽咋はくい、どういうことか説明せんかい」


 道眞の存在に気づいた百舌鳥が、いつもの調子で口を開いた。あいかわらずの横柄ゴリラめ――道眞は安心半分、呆れ半分で言葉をまとめた。


「生出さんが洗脳されて、僕たちは監禁部屋から出されて、ここは儀式場だ」


 道眞は鳥居型のギロチン〝人柱じんちゅう無苦むく〟と娑馗聖者を指さす。


「えげつない美人やな。さて、」百舌鳥は唐突に大声を出した。「出口はどこや!」


 耳を塞ぐのが間に合わず、道眞は耳がきいんと痛む。キヨイの絶叫ほどではないとはいえ、立て続けに鼓膜を痛めつけるのは勘弁して欲しい。

 百舌鳥は二つに裂けた舌スプリットタンをべろんと出した。さっと身を回して、自分の周りを二舐めする。味蕾みらいに触れるのは、空気と塵ぐらいのはずだ。

 だが、当人は「よし」と何かをつかんだらしい。


「羽咋、逃げるぞ!」

「賛成!」


 詳細を問いただすのは後だ。二人が走り出すと、信者たちは戸惑ったようだった。


「そのまま行かせるがよい!」


 背後から、娑馗聖者の声が命じる。これ幸いと、道眞は百舌鳥を先導するつもりで走ったが、彼は来た道が分かっているようだった。



『――逋セ闊碁ウ・繝溘リ繝��繝リ溘繝・ウ碁闊セ逋――を知っておるか』



 エレベーターに飛びこむと、百舌鳥は即座に扉を閉じる。拳を叩きつけるように最上階へのボタンを押し、「出口は地上一階を出て真っ直ぐや」と説明した。



『――逋セ闊碁ウ・繝溘リ繝��繝リ溘繝・ウ碁闊セ逋――……其の方の――蜿悟ュ舌蠑蠑舌ュ悟蜿――の、――逋セ闊碁ウ・繝溘リ繝��繝リ溘繝・ウ碁闊セ逋――よ』



「なんで道が分かるんだ?」


 これが志挙乎しこおと呼ばれる霊能者の実力だろうか。道眞は半信半疑で訊ねた。


「出口と言われたら、つい考えてまうやろ。舌を出して空気をねぶるなめると、離れた連中や複数人の〝味〟が分かる。できるだけ大勢が、濃い味で考えとる方向が出口、のはずや。まあだいたいは当たる」

「便利だな……」

「くだるも、くだらないも、使い方次第やからな」


 それが事実なら、百舌鳥の舌は共感覚や独自表現ではなく、本物の読心術だということになる。捜査にはさぞ役立つだろうが、職場の同僚にはどう思われていたやら。


「で、羽咋。さっきのべっぴんさんがなんなに言いよったか分かるか?」

「裸の教祖か。そのまま行かせるがよいって、どういうことだろうな」

ちゃう違う。あのオトコオンナが行かせろ言うた後、なんべんか話しかけてきたやろ? なん言いよるか分からん、気味の悪い言葉でな」

「……そんなもの、僕は聞いていないぞ」


 二人の間に、腹の内を探り合うような気まずい沈黙が降りた。


「何の話だか、よく分からないんだが……君は何を聞いたんだ?」

「そらこっちの台詞や。声帯模写だかなんか知らんが、妙にいがんだ歪んだけったいな声で、日本語ちゅう感じですらなかった。人間の口からあんなんが出るとはな」


 娑馗聖者の声は、人を惹きつける明朗で鮮烈なものだ。何か話しかけてきたならば、それを聞き逃すとは考えにくかった。だが、道眞にはまったく覚えがない。

 百舌鳥は腹の立つことに、「耳の遠いヤツやな」と舌打ちした。

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