第11話 深淵は薄氷の下からお前を見ている

「は! は! は! 百舌鳥もずヤマトめ、認識することすらできんとはのう。わらしが怒るのも至極当然、すべて忘れて蓋をしおったか! 憐れなものよの!」


 笑いながら、娑馗しゃき聖者しょうじゃは信者に新しい黒の小袖と袴を着付けさせる。係の者は、笑いの裏に底冷えする怒気を感じ、覆面の下で冷や汗を流した。

 聖者の怒りは聖なるもの、浮かばれぬ死者を想っての憤怒。


 この世でもっとも弱き者とは、死者に他ならない。

 であれば、人は何よりも死者をたっとび、奉仕せねばならないのだ。そして死とは、常に未来が行き着くいやてであり最先いやさきである。

 死こそ究極の未来なれば。

 未来仏みらいぶつである御殪ころしを観世音かんぞん弥釈羅みしゃくら菩薩ぼさつが唯一、真に人間の尊厳を取り戻すのだ。


「あの男の白くなった前髪は、童の現出に命を削られた証左。いつか喰らい尽くされるその日まで、   蜈�シ�に詫び続けるがよいわ」

「それでは、百舌鳥ヤマトは実顕じっけんより解き放たれますか」


 白髪をみずらに結った老婆が、聖者に伺いを立てた。

 キヨイに呪詛を返された徳子オババとは、別の〝トリアゲ婆〟だ。霊力を持つ女・志許売しこめたちを取りまとめる役職を、産婆になぞらえてそう呼ぶ。


「うむ、機をうかがって門を開けよ。ただし羽咋はくい道眞どうまは逃すな、あれには用木としての定めがある。大悟の道を開かれながら俗世の迷妄に返るとは、憐れなものよ」


 まったくでございます、と老婆と信者たちは同調し、中には道眞の「愚かさ」を憐れんで、ひぃひぃとすすり泣く者までいた。


「しかし、迂生うせいとしたことが、とんだしくじりよなあ。〝がね〟が呼びたがるから誘うたが、可愛い童のおもちゃを取り上げてしまいそうになろうとは」


 娑馗聖者の声は、芝居がかったような白々しささえ美しく装飾した。

 あの場で道眞ともども行かせてやったのは、そうしなければ百舌鳥が外へと向かいそうにもなかったからだ。


「連れ戻すには、百舌鳥ヤマトと羽咋道眞を引き離してやらねばなるまい。一柱ひとはしら、迎えを寄越してやろうぞ」


 娑馗聖者が視線を向けた先には、ぼんやりとたたずむ生出おいずるの姿があった。



 沈黙し続けるには、エレベーターの上昇は長すぎる。道眞は女たちから陵辱を受けた後、百舌鳥が儀式場で目を覚ますまでの経緯をざっと説明した。


「生出は……来んかったな」


 腕組みをして壁にもたれていた百舌鳥は、ぽつりとつぶやく。口にするのも苦い事実をどう言葉にしたものか、道眞はしばらく迷ってから告げた。


「あの人は、もう。手遅れなんだ」


 娘思いで、自分の恐怖心を抑えて明るく振る舞おうとしていた、普通の父親だった彼が。完全に、狂気と怪異の世界に逝ってしまった。

 百舌鳥から見れば、流れた血はすべて彼岸花になっていたし、生出は生きてあの場に立っていたことになる。

 彼が正気ではないことは理解してもらえるだろうが、まさか殺されて生き返ったなどと、どう言えばいい?


「信じがたいことだろうけれど、百舌鳥。やっぱり話しておくよ」


……ありのまま言うしかない、と道眞は結論づけた。


「情報があるなら、とっとと話さんかい」


 まあそうだけど、と道眞は口をへの字に曲げる。このゴリラ刑事はもう少し、言い方というものを考えられないのだろうか。


「教団の連中は人を殺して、本当に黄泉帰らせることができる。生出さんは僕の目の前で首を落とされて、その後、体の方が起き上がって首をくっつけたんだ」

「そうか。……信じるわ」


 意外にも、百舌鳥は何の躊躇ためらいもなく返した。思わず道眞は目を丸くする。


「驚いたな、ただでさえ荒唐無稽な話なのに」


 直接あの黄泉帰りを目撃した道眞自身、いまだに信じられない気持ちでいっぱいなのだ。わけは分からないが、事実は事実として起こっている。


 現状を切り抜けるために、ひとまず受け容れているにすぎない。そうやって物事を進めるために行動していけば、何事もどこかへ落ち着いてくるものだ。

 例えば、親しい人を亡くした時だろうとも。


「そういえば」人さし指を立て。「君、オカルトは関係ないって、あんなに言っていたじゃないか。自分は超能力のある舌を持っているくせに」


 道眞の突っこみが相当不服なようで、百舌鳥は犬が吠えるように威嚇した。


「俺の舌は切られた時からこうなんや! 幽霊といっしょにするなや!」

「微妙に相槌しづらいな」


 まあ一つ幽霊を見たからといって、宇宙人や妖怪や異世界が実在することまで信じられるかというと、また別の話だろう。

 などと道眞が飲みこんでいると、百舌鳥が思いがけないことを言い出した。


「四月に、俺のせんせから電話が来たって言ったやろ。その雁金かりがねせんせはな、もう三年も前に死んどるんよ。そやけど、あれは間違いなく本人やった」

「なんだって……!?」


 監禁部屋で恩師の話をする時、百舌鳥に不自然な間があったのを思い出す。あんな異常な状況でなければ、彼は決してその話を明かさなかっただろう。

 だが、既に「死者が帰ってくる」事例を知っていたから生出の件も受け止められるとは、道眞には予想外のことだ。そして恩師にも娑輪しゃりん馗廻きえが関わっている。


 不意に、道眞は足元に無限の闇が広がるのを意識した。ここは長い長い竪穴を昇るエレベーターの中だ、床板一枚の下には文字どおりの奈落が広がる。

 それと同じように、目には見えていないだけで〝娑輪馗廻〟という脅威の闇は、日常のすぐ足元にあったのではないだろうか。ずっと、ずっと以前から。


 道眞の動揺など知らぬ顔で百舌鳥は続ける。


「俺はされとったが、せんせの葬儀には出た。おどれの話が確かなら、ダボどもはせんせの遺体をすり替えか何かで盗んで、ゾンビにでもしたっちゅうことやな」

「遺体の盗難なんて大問題だよ!!」


 今度は違う意味で、道眞は頭を抱えた。

 葬儀屋としてはあまりに聞き捨てならない。もし自分の会社でそんなことをされたらと思うと、これまでの怪奇体験とは別種の戦慄が背筋を貫いた。

 エレベーターの階数表示が地階を抜け、地上階へ入る。道眞は気を取り直した。


「でも、彼らの教義は〝正しい方法で殺されれば死なない〟で、その方法は首斬りだ。立ち入ったことを訊くが、君の先生は首を落とされて、亡くなったのかい?」

「いんや。……割腹かっぷく自殺や」


 ひりっ、と静かに怒りをはらんだ声音。

 思わず聞き返したくなる単語があったが、これ以上深入りすることは許さないと言わんばかりに、牙を剥き出しにした語調だ。


 道眞はお望み通り、何食わぬ顔をして経緯の説明に立ち返った。

 百舌鳥から〝閻魔童子のキヨイ〟と呼ばれる人格が現れ、老婆を撲殺しかけたこと。歯を抜いて噛んだことを話していると、百舌鳥はますます不機嫌な顔になる。


「百舌鳥、キヨイの名前や相手に、心当たりはないか?」

「知らん」そっぽを向いた百舌鳥の首筋は、血管が浮き上がって断崖絶壁のようだ。「……そやけど、一つだけなら、ある」


 歯切れの悪い調子で、百舌鳥は切り出した。


「俺は刑事言うたけど、実は時々記憶が途切れる病気びょーきがあってな。そのせいで停職処分を喰ろうとる最中や」

「は!?」思わず道眞は頓狂とんきょうな声を出す。

「文句言うなよ? 嘘はついとらんからな」


 いけしゃあしゃあとはこのことだ。

 監禁中に刑事です、ただし停職中のと言われるよりは、それを隠された方がこちらも安心するし、信用もしてしまうだろう。しかし、それはズルくないか?


「お前ってやつは……!」


 釈然としない思いで道眞は横柄な雄ゴリラを睨んだが、当の本猿ほんにんは涼しい顔だ。道眞はやり場のない気分を拳に握りしめた。


「そう青酸っぱくなるなや。雁金かりがね古都久ことひさ、享年六十六歳。生きとったら七十前。幽霊から電話をかけられて以来、たまに記憶が飛ぶようになってもたど」


 つらつらと語られた百舌鳥の話をまとめると、気がつくと知らない場所にいたり、身に覚えのない怨みを買っていたり、判読不明のメモがあったりしたそうだ。いくつかの病名がついたが、処方薬はまったくの効果無し。

 そしてある日、気がつくと血まみれになった同僚の胸ぐらをつかんでいた。心神喪失が認められて不起訴になったが、停職処分を受けたのが六月の末。


「そのキヨイとやらが、勝手に俺の体をつことった使ったとしたら、辻褄が合う」

「二重人格じゃなくて、悪霊か何かに取り憑かれた状態ってわけか。……そういえば、キヨイに反撃されたオババは、舌が真っ二つに裂かれていたな」


 百舌鳥の鬼のような形相が視界いっぱいに迫った。


「なんでもっとはよう言わなんだ?」


 どん、と道眞は背中をエレベーターの壁に打ちつけられる。胸ぐらを太い腕につかみ上げられ、息がつまりそうだ。

 だがそれも一時のことで、百舌鳥はこちらを解放して距離を取った。


「色々ありすぎて、どこから説明するかで手いっぱいだったからだ。分かるだろう」

「……ああ」


 上の空で返事しながら、百舌鳥はしばしポケットを探って舌打ちした。


「せめてヤニがあればな。けったくそ悪いわい」


 どうやら愛煙家らしいが、タバコやライターは教団に奪われたままだろう。

 百舌鳥はポケットに手を突っこんでエレベーター内をぐるりと回ると、道眞から離れた所で、力いっぱい壁を蹴飛ばした。ごん、と重たげな音が響く。


「まさか悪霊になって、俺につきまとったとはな……! ダボが!!」


 百舌鳥が人の舌を裂く悪霊に取り憑かれているとしたら、やはりその因縁は過去にあるのか。トリアゲ婆の舌は百舌鳥よりも深く、根本まで切り裂かれていた。


「殺しそこねた獲物に、死んだあとまで執着する殺人鬼、か」


 男を殺してバラバラにし、幼い子供の舌をハサミで切断する異常者。その殺人鬼によって百舌鳥は奇妙な能力を背負い、さらに悪霊に取り憑かれている。

 彼の人生は、父の仇によってすべてが狂わされているのだ。

 道眞は先ほど、娑輪馗廻の強大な闇の上に、自分のもろい日常があった錯覚におののいた。だが百舌鳥は、彼自身がとてつもない闇を負わされている。


「羽咋、いらんこと考えて黒しょっぱなるな! その味は好かん。白辛いのもや」

「それ、喜怒哀楽で言うとどのへんだい」


 気がつけば、エレベーターの階数表示は一階へ近づいていた。


じゃまくさい面倒くさいのう。お涙頂戴はいらん、っちゅうこっちゃ!」

「……すまないね」


 百舌鳥に対する気持ちが同情なのか、憐憫なのかは道眞自身にも判然としない。ただ、それは自分が仕事をしていて出会う遺族たちを前にした気持ちと似ている。

 人は誰でも一人では生きていけない、それは綺麗事でもなんでもなく、客観的な事実だ。一人ではないから、人は葬儀のような場でもその辛さを受け止められる。


 さっきまで、道眞は百舌鳥を困難を同じくする戦友のようなものだと思っていた。だが、彼がいる場所は自分よりさらに深い闇、深淵の中なのだ。

 なるほど確かに同情は不要だろう。だが、生きて抗おうとするならば、その気持ちだけは道眞も負ける気がしない。


「百舌鳥」


 沈黙を破る声をかけると、亭々たる体格の青年は「あぁ?」と不機嫌そうに返した。その二つに裂けた舌には、どんな味が広がっているのか。


「相手がキヨイでも娑輪馗廻でも、戦うなら僕もいっしょだ」

「アホウ。逃げる時に言う台詞か? 足を引っぱるなや」


 鼻で笑われたが、言うべきことは言ったと道眞は思う。

 チン、と音を立てて、エレベーターの扉が開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る