第9話「廃絶すべし、娑輪馗廻」

 がりがり、がりがり、がりがりと、一心不乱にボールペンを走らせる音が、和洋折衷の書斎に響く。赤の緞通だんつうを床に敷き、しっとりとした飴色のつやがある木の内装と家具は、大正レトロモダンのムードで統一されていた。


 部屋の主である老婦人は書き物中で、一見するとこの場にふさわしく思える。

 ふんわりと軽やかな藍色の秦荘はたしょうつむぎで、椅子にもたれず背筋をぴんと伸ばし、美しい和装の所作に隙がない。

 だが、その左目を覆う黒い眼帯が、不協和音をもたらしている。医療用のそれではなく、見られたくない秘密を封じているかのようだ。


 書き物の内容は支離滅裂だった。細かな文字でびっしりと綴られたメモには体裁も何もなく、文字の上にまた文字を重ねられ、隙間が出来ることを許さない。

 同様の文書が束になって部屋全体に散らばり、所々塔のように積み上げられていた。その中では一匹の黒猫が丸くなって寝ており、これが老婦人と猫にとっての日常であることをうかがわせる。老婦人は、書きたい病ハイパーグラフィアなのだ。


「あら?」


 ふと、自分が書いているものを老婦人はいぶかしむ。それまで動かしていた手が、勝手になにか別のものを書きだしたことを悟った。


『お縺翫sば�さ縺ん輔』

『縺た溘すけ縺て代※』

『縺し励に↓縺た溘く¥縺ないェ縺�』


 がたん、と椅子を倒す勢いで老婦人は立ち上がる。寝ていた猫がびくりと起きた。


「敬一郎ちゃん」


 生出おいずるの名をつぶやくなり、眼帯の老婦人はきりりと表情を引き締めた。



「おうひはの、はひふふん? はぁくえほうよ」


 湖から戻ってきた生出は、控えていた信者に真っ白なバスタオルを渡されながら、不思議そうに問う。道眞どうまが中々動かないので、トリアゲ婆もけげんな顔をしていた。


「僕は、葬儀屋なんですよ」


 道眞は、ほどこうとした帯から手を離す。

 何かがもう少しで理解できそうで、分かりたくて、分かってしまった、監禁部屋で味わったあの感覚。そいつとはもう、おさらばだ。

 人は頭で理解しても、肌で理解し、気づかなくては変われない。逆に、間違った気づきを得てしまったら――仏教で言うところのにせ涅槃ねはん

 あれが、人間の狂う決定的瞬間だ。


 見えない壁はもう割れた。

 今度こそ、道眞は眼が覚めた気分だ。


「くちさがない方は〝人の不幸で食う仕事〟などとおっしゃいますが、自分は〝人に残された最後の尊厳に奉仕する仕事〟だと教えられ、そう考えてやってきました」


 亡くなった故人が安らかに旅立ち、遺族が安心してそれを見送れるように働いてきた半生。それが――なんだ、この娑輪しゃりん馗廻きえの連中は!


 子煩悩パパだった生出を見ろ。

 誘拐され、監禁され、頭をおかしくさせられて、殺されたあげくに愛する子供の命をおびやかす化け物にされてしまった。


 なんて、ふざけている――生きとし生ける人を、亡くなった人を、人間という存在すべての尊厳を踏みにじっている!

 体の芯から突き上げる荒々しいものに、道眞は魂の在処ありかを見出した。

 


「腐り果てても、悪臭を撒き散らしても、骨だけになっても、灰になっても、人は人だ。それを踏みにじる者を、僕はゆるさない」


 少しでも武器になるものを探して、膳に置かれた箸を握りこむ。これを使って人肉の燻製まで食べさせられたが、今は嫌悪よりも怒りの方が勝っていた。

 たとえ人肉食でも、それが故人と遺族の間で納得する形であれば、立派な葬儀だ。


「だというのに、死者を化け物に作り変える? ははっ! ははははっ! この世には、僕が思いもよらぬほど、おぞましいものがいるんですね!」


 握りしめた手は爪の先まで青白くなり、抑えがたい震えが後から後から湧いてくる。心臓が誤作動しそうなほど胸が痛み、自分自身の感情に眩暈がした。


「おや、おや、おや」


 堂々とさらす裸身と同じく、娑馗しゃき聖者しょうじゃの美しさも余裕も一つとして曇らない。気分を害した様子もなく、聖者は落ち着いて道眞に声をかけてきた。


「其の方に不安があるは、迂生うせいの不徳がなすところよな。だが」


 迂生とは元来、男性が書面で使う一人称である。しかし両性具有の聖者が使うと、なんとも様になっていた。


「生出敬一郎大人うしのみこと聖痕しょうこんを授かった瞬間をよくよく思い返すがよい。まだ遅くはない、其の方には不死なる栄光への道が開かれているのだ」


 脳の内、恐怖を司る箇所を扁桃体へんとうたいと言う。矮小なアーモンド状の器官から生まれる情動には恐怖が、そして憎悪と憎しみがあった。

 前頭葉よりも素早く判断を下す脳の作用、すなわち〝逃走Fightか、 or 闘争Flightか〟。


「聖者だかなんだか知らないが、あんたが化け物の親玉だってのはもう分かった。僕なんてお前にはちっぽけな存在だろうが、黙って仲間にされるものか!」


 すべての血液が逆流して、脳の毛細血管がばちばちと破裂するようだ。さかんに燃え狂っている激怒と憤怒は、しかし真空のような虚無がある。


 人が心から動かされた時の、力強く外へ向かう怒りとは異なった火焔。中核がぽっかりと空いたその虚ろは、人間に対する癒やしがたい絶望だ。

 人が、同じ人にここまで無惨な仕打ちをすることが出来るという――その事実が道眞を絶望させ、結果を激怒として出力していた。だからこそ。


「僕がこの世でもっとも憎むとしたら、お前たち娑輪馗廻だ!!」


 彼らを決して赦さない。同じ世界にヤツらが存在することを受け容れることもできない、まさに不倶戴天の敵。その思いが道眞に告げる。


――廃絶すべし、娑輪馗廻――


 と。自らの憤怒と絶望を、彼はそう名づけた。


「救いの御手みてをはね除けて、迷妄にふけるか、愚か者!」


 トリアゲ婆は道眞の前に出ると、両手を使って宙に文字を描くような仕草をした。何らかの術を使うために印を切り、それをこちらに向けている。


「えばあまき・我邪がじゃ吾棺あひつ咒刕じゅりえ・発十はそうずき・ぐぢ清晴さはさ」


 日本語のようなのにまるで意味が分からない早口が終わると、ずん、と道眞は体が重くなった。視界にぱっと赤い霧が広がり、遅れて割れるような頭痛が走る。


「が!? ……はっ」


 赤い霧は、目鼻口の粘膜と耳からしぶいた道眞の血液だ。わけの分からない呪文とジェスチャーで、直接人に打撃を与えられるとは、もう無茶苦茶だ。


(死人が黄泉よみがえるなら、なんでもアリってことか)


 下腹に力を入れ、ぐらつく体をなんとか両足で支えるが、もう一度同じものを受けて耐えられるか。勝算が見つからないが、だからといって道眞は負けられない。

 闘ってやる、最後の最期まで戦い抜いてやると、自分のはらいかりを打ちこんだ。


「ほう、今ので落ちなんだか。わしの念が通りきらぬとは、とんだ頑固者よ!」

「うぅうう、るぅ……、さぁぁ、いいぃぃ……」


 食いしばった歯の間から、噛み鳴らすように言葉を吐く。背にした白木舞台で体を支えながら、道眞は百舌鳥もずの腕を握った。


「も、百舌鳥、起きろ! ここ、から、逃げ、るんっだ!」


 彼は監禁部屋で凌辱されてからずっと意識朦朧で、洗脳されているのかどうかもはっきりしない。だが、生出に比べれば、まだ一縷いちるの望みがある。

 完全にあっち側の存在になった彼は諦めるしかないが、せめて百舌鳥だけは正気でいてほしかった。信者たちが包囲網を作り、にじり寄ろうとする。

 百舌鳥に声をかけようと息を吸うと、道眞は首筋に金属の冷たさを覚えた。


「!? う」


 自分の体と空間がぎりっと縮まり、巨大な刃物が左右から道眞の首を挟んでいる。肌に触れた刃はこちらの脈拍を感じていて、血の温かさを吸い取った。

 同じものを感じているのか、トリアゲ婆も、信者たちも凍りついている。


 目の前の景色は何も変わらないが、ゾッとする、などという生やさしいものではない気配。つかんだ百舌鳥の手を離しそうになったが、指が貼りついて動かない。


 ぺたん、とバスタオルに身をくるんだ生出が尻もちをついた。ああ、そんなところは、元の彼のままなのか。感傷的な涙の匂いが、道眞の鼻をよぎった。


 ず、ず、ず、ず、ず、ず、ず、と自分たちの頭上を、クジラのように大きな気配が覆っていくのを感じる…………しんっ、とあたりの空気が重くなった。

 気が遠くなるほど巨大な何か、おそらくは刃物のような冷気の持ち主がこちらを見ている。睥睨へいげいしている。一言でも口を開けば、ちょきんと首が落ちるのだ。


「も」


 それでも。


「ず」


 それでも、道眞は強いて口を開く。

 屈したくはないからだ、この異様な空気にも、娑輪馗廻の教団にも!


「百舌鳥。起きているか?」

「は、はくいくん」


 呂律が良くなってきた生出が腕を伸ばし、やめるよう手を振った。黄泉帰った死人が恐れるこいつは、いったい何なのだ?

 気を取り直したトリアゲ婆がうなる。


「ぬう……もしや、霊餌たまえ御座おわすのか?」

「〝それ〟、おこさないほうが、いいんじゃ、ない、の」


 よろめきつつ立ち上がった生出が、乞うように言った。

 ハイ、とうなずければどれほど良いかと道眞も思う。二人が話している間に、百舌鳥がゆっくり上体を起こし、全身が泣くようにどっと冷や汗が吹き出した。

 見たくない、と反射的に思うが、恐ろしいからこそ確かめずにはいられない。覚悟も何もあったものではなく、道眞は百舌鳥の顔を注視した。


 目をくりぬかれた悪鬼の面が、ことりと持ち上がる。


 百舌鳥が恐ろしい形相であることはハッキリと分かるのに、目の部分に開いた穴には何も見えない。否、底知れぬ虚ろの奥に、黒々と鬼火が灯っている。

 それは、彼が〝生きる者の足を引っぱるヤツは全員ぶち殺す〟と言った時の、透明な炎とはまるで別種の火だった。ならば憤怒か? 怨念か? 妄執か?


 いずれにせよ、あまりにも深く濃密なその感情に、人が名付け分類することなど不可能だと思い知らされる業火がある。

 この世には、敵か味方などという問いが無駄なほど、出会うだけで危険なものがあるのだ。それを毛穴の一つ一つまで思い知らされ、懺悔ざんげするように汗が止まらない。


「ええい、雑鬼ざこめ。調伏ちょうぶくしてくれる!」


 トリアゲ婆が再び印を切って、百舌鳥に指を向けた。


「やめよ、徳子!」娑馗聖者の制止は一歩遅い。

ろおごもり・異獄いごくじゃだ・いひず・気練きねおごぞきませ・加持かじじゅ比古ひこ! ……ッ……ッッ!?」


 徳子と呼ばれた老婆は棒を呑んだように硬直すると、息ができなくなったようにブルブルと震え、顔を真っ赤にする。自重で潰れそうなほど熟したトマトのように。

 次の瞬間、顔面の穴という穴から血の噴水を出した。


「ぎほいぁぅらおがおぃぅあぉいがおいううあぉぃうがあああああッッッ!!」


 どちゃっと湿っぽく重たい音を立てて、トリアゲ婆は自ら血の池に転がる。だらしなく口からまろび出たいた。

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