みっつ、みたまをえじきにしたまえり
第一輪 美味な卵、魂(たま)の後先
第19話 娑輪馗廻観音経〝冥路歴程〟
「私が何者なのかについて、
いつの間にか、
「長くなるから道中では後にしていたけれど、私は
「……あたしのひいひいおばあちゃんが、おとうちゃんを化け物にしたんだね」
ぎゅ、と膝の黒猫を抱く
「ちゅうことは、やっこさんは二百年は前の人間か。あれも
「普通の人間じゃないとは思っていたけれど、改めて途方もないな……」
百舌鳥と道眞がそれぞれに所見を述べていると、別天は黒い眼帯を外した。
彼女の茶色い左目には、二つの虹彩と二つの瞳が同居している。あの娑馗聖者と同じ特徴。違うのは、右目は虹彩も瞳も一つしか無いということだ。
道眞も半ば予想していたことだが、実際に目の当たりにするとドキリとする。
別天はすぐにその目を眼帯に隠した。その代わり、着物の
「私の目も、娑馗聖者の目も、教典である
「見るだけでそんな風になっちゃうの……? うそ……」
思わず言ってしまったのだろう、茅は慌てて「おばあちゃんのことは、うそつきなんて思ってないよ!」と訂正した。分かっているわ、と別天は微笑む。
「ご開帳の儀では、トリアゲ婆や導師といった教団の幹部と神餌、そして教主しか冥路歴程を見ることは許されないわ。一般の信者は、教主が歴程の内容を害がないよう、翻訳した
そして、と別天は白くなるほど自分の手を強く握る。
「八歳だった私は好奇心に負けて、禁忌を犯したわ」
当時の
(※この時、
冥路歴程ご開帳の儀、末席に連なった現子は当時の信者では最年少だった。白く厚い目隠しをずらして、見えたのは長い巻物を広げた教主の姿。それだけだ。
ただし、冥路歴程もまた、彼女を見つめ返していた。
ぐるりと、教主の周りに何重も円を描いて広げられた巻物は、文字の一つ一つが
何百何千というその
目の前が真っ白になる衝撃は、雷に撃たれながら気絶を許されない罪人のよう。ああ、実際、自分は罪を犯したのだ。決して外してはいけない目隠しを外して。
見てはならないものを見れば、それに見られてしまうから。
見られた者は、逃げられないから。
終わりだ、もう終わりだ。
そんな絶望感とともに気を失った現子を、もっと現実的な地獄が待ち構えていた。
「私は三日三晩、見せしめとしてさんざんに仕置きされたわ。でも教主は、曾祖母の慈悲と言うよりは、『禁忌を破ってなお生きていた』ことを理由に、私の命だけは助けたわ。教団から追放されて、一人生きていくのは苦労したけれど」
ふうーっと、別天の長いため息は疲労と老いの色が濃い。思い出したように切り子の硝子カップを取り、ぐっと赤いハーブティーを半分ほど飲み干す。
別天はそれからふた呼吸ほど置いて、話を続けた。
「冥路歴程を一目見たばかりに、私の左目は瞳が二つに分かれ、髪は真っ白になってしまった。それに、毎日毎日文字を書きたくて書きたくてたまらないようにもね」
別天は縄の横に、袂から出した一枚の写真を添えた。白い髪にちりめんの着物を着た少女が、満開の桜の下で微笑んでいる。十五、六歳というところか。
「『人の毛髪、神あり、樹にかけ
「そんな
この白い
「いやいや」「いえいえ」と二人が謝罪の応酬をしていると、百舌鳥が「結局、その冥路歴程ってのはなんなんや」と割りこんだ。
「聖書やお経と
「またゴリラ的なことをと思ったけど、そうか」道眞は言いかけた発言を修正した。「教団で幹部になれるような霊能者や、神餌の僕なら問題ないのかもしれないな」
常人なら相対することも危険な書でも、不死の体ならば、きっと。
「そうとは限らないわ」別天はバッサリ切り捨てる。「道眞さんが帰依していないのは奇跡のような状態よ。冥路歴程を目にしたら、取りこまれるかもしれないわ」
「なるほど……その可能性もあるんですね」
教団に捕らえられていた間、道眞も実際に洗脳されかけた。別天に反論できる材料は見当たらない。黙っていた茅が、黒猫をわしゃわしゃ撫でながら声を上げる。
「おばあちゃん、そんな危ない本、誰が書いたの?」
「それは教団の歴史にまつわる話ね。せっかくだから話しましょう」
別天が言うには、娑輪馗廻の教団――彼らが自称するところの『
「
百舌鳥はそれを聞いて、すぐピンと来たようだった。
「なるほど、人の皮をなめして、つなぎ合わして、それに書きつけたものが冥路歴程ちゅうことか? 悪趣味なこっちゃ」
「何故かは知らないけれど、人間の皮でなくていけない理由があったんでしょうね。冥路歴程というのも仮の名前で、本当の名前は教主と幹部以外知らないわ」
「どこかの連続殺人鬼みたいだ……」
故人が生前にそれを望み、遺族が了承した上でならまだしも。人体をただの物として加工する行為は、道眞にとっては吐き気をもよおす邪悪だ。
一方の茅は、人の皮を使った巻物というものが、今ひとつ実感がないようだった。
「冥路歴程は全巻。
仮にも死者蘇生の要になる薬だ、道眞に言わせれば億万年でも早すぎる。
「ところで、茅ちゃん。猫の寿命っていくつだか知ってる?」
唐突に別天は話を変えた。とまどいながら、茅はうーんと考えこむ。
「百歳ぐらい? リリンコはあたしが幼稚園のころから、ずっといるもんね」
リリンコが猫の名前らしい。
そう思って注視して初めて、道眞はその黒猫が赤い眼をしていることに気がついた。胸騒ぎがするほど美しい、彼岸花のような瞳で、黒い猫がにゃんと鳴く。
「猫の寿命は長くても、二十年から二十五年よ。出会った時に死にかけていたリリンコちゃんを、私がサスラヒメで治療してしまったから、もう六十歳以上なの」
え、と茅は目と声を膝上の黒猫に落とした。全員の視線を浴びながら、リリンコは茅の膝でとぷん、と溜まり水のように丸くなっている。
「だからこの子はとても賢いし、なんなら少し霊的な力もあるわ。数少ない戦友のひとり……リリンコちゃんが私を好いているかどうかは、自信がないけれども」
まあ、食事係り程度には思ってもらっているのでしょうね。と眼帯の老婦人は、頬に手を当てて笑った。
「私の話はこれで終わり。次は道眞さん、ヤマトさん、あなたたちの話を聞かせてちょうだい」
「僕たちの、と言うよりは〝キヨイ〟の話ですね?」
道眞と百舌鳥は
彼は二人を追って道眞を殺害後、瀕死の重傷を負った百舌鳥から現れたキヨイによって破壊された。そして百舌鳥を生かしたいキヨイは、自分の力で道眞を神餌に変えて、命を繋げ――その後は、別天と茅も知っての通り。
「あいつは、自分は百舌鳥だけど百舌鳥じゃない、娑馗聖者の子になったから、と言っていた。逆に言うと、もとは百舌鳥家だったのかもしれない」
「つまり、君の兄弟か親戚だと思うんだが。君の親族で誰か、小さな子供が亡くなっていないか?」
「あいにくと天涯孤独の身でな。そういうアテはまったくあらへん」
百舌鳥は腕組みしてソファに背をあずけると、んべっと二股の舌を出した。別天が「あら」と小さく声を出して口を覆い、茅がぎょっと目を瞬かせる。
「えっ……もずもず、なにそれ、二枚舌!?」
「ボケか天然か突っこみづらいラインやな。今度スプリットタンで調べてみぃ」
身を乗り出して茅がもっとよく見ようとする前に、百舌鳥は舌をしまった。
キヨイの出現で色が抜けた前髪はメッシュブリーチのようで、舌と合わせてパンクファッション愛好者にしか見えない。公務員を名乗るには不審すぎる。
そこまで考えてから、道眞はふと顔中にピアスをつけ、モヒカンヘアの百舌鳥を想像した。中々似合う。
「葬儀屋。おどれ、今なんか妙な想像をしたやろ」ドスの利いた殺気。
「大人げない言いがかりはやめたまえ、ゴリポリス」眼鏡バリアでガード。
「ら抜き言葉にすれば通ると思うなや!」ローテーブルは哀れ八つ当たりされた。
勘の良さはやはり腐っても刑事と言うことか、油断しないようにしようと道眞は固く心に誓った。……
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