第17話 休み、憩い、しかしその間もなく

 灰は草木と生出おいずるの体、どちらのものとも区別がつかないまま吹き散らされていく。かやは父の骨片をハンカチに包み、丁寧にポケットへしまった。

 大切そうと言うよりも、寂しそうな手つきで。


 道眞どうま別天べってんのスマホを確認させてもらうと、今は七月二十八日土曜日の朝だ。昨日、ぶらりと街へくり出したことが遠い昔のように思える。


羽咋はくいさん、今後について、少しいいかしら?」


 スマホをしまいながら問う別天に、「はい」と道眞は返した。


「死んでしまった貴方は、身の振り方についてこれから考えることがたくさんあると思うわ。しばらくは私の家でゆっくりして……できれば、これからも私と一緒に、娑輪しゃりん馗廻きえに作られた神餌かみえ霊餌たまえを解放する手助けをお願いしたいの」

「言われるまでもありません。僕自身、彼らと戦えるなら戦うつもりでしたし」


 自分で言っていて、映画のような台詞だなと道眞は内心苦笑する。

 単なる葬儀屋の自分が、〝戦う〟だって? いや、これは葬儀屋として生きてきた自分にとって、決して避けられない〝闘い〟だ。

 道眞は娑輪しゃりん馗廻きえを不倶戴天の敵と認めた。彼らの犠牲者である神餌や霊餌を助けられるなら、こんなに嬉しいことはない。


「ありがとう、羽咋さん……本当に、ありがとう」


 別天の感謝には、一語一語が地層のように、長い時間かけた思いが込められているかのようだった。それがいくつも重なって、自然と道眞も頭が下がる。

 死体となった自分は、もう家にも職場にも戻れないだろう。一旦実家に連絡をつけて、羽咋葬儀社取締役の引き継ぎを手早く済ませなくてはならない。

 何より、家族を娑輪馗廻に巻きこみたくない。


 道眞は軽く瞑目めいもくした。

 彼らは生出の生年月日から父親の名前、出生地まで知っていた。その気になれば道眞の実家にも、手を出せるかもしれないが……。


「別天のバアさま、俺も一枚噛ましてもらおか。娑輪馗廻には大~事な用があるからな。詳しい理由は、後で説明するわ」


 百舌鳥もずが大きな体でぬうっ、と前へ出てのたまう。

 彼は彼で、死んだはずの恩師が娑輪馗廻に捕らえられたことや、自分に父の仇とおぼしき悪霊が取り憑いている。その事情は、この場で説明するには複雑すぎた。


「百舌鳥さんもそう言ってくれて、嬉しいわ!」


 木漏れ日の中で別天が笑うと、白菊のように優雅だ。ただ、表情に似合わぬ黒い眼帯が、優雅さの中に一点墨を落とす。彼女も相当、複雑な事情がありそうだ。


「じゃ、霊廻たまえしきについて、羽咋さんに一つアドバイス。最初の祝詞は場を整えるため。二つ目はあなたの心を整えるため。でも、故人を送るのにもっとふさわしい言葉があると思えば、そちらを唱えても大丈夫よ」

「故人を送る……呪縛された魂を解き放つにふさわしい言葉、ですか」


 思案すると、道眞の胸に浮かび上がるものがあった。


「……〝中臣なかとみふと祝詞のりごと言い祓え、あがなう命もが為になれ〟」

「あら、万葉集ね。いいじゃない」


 さすがに別天は詳しい。万葉集・巻の十七、大伴おおともの家持やかもち作だ。茅が興味深そうに、自分の顎を指でつつく。


「万葉集って、和歌だよね。なんて意味?」

中臣なかとみうじの立派な祝詞を唱え、神さまにお祈りして、穢れを祓い願う命は、ひとえにあなただけのため。……って意味さ」


 言ってから、道眞はしまったという顔をした。


「いや、これは最後に恋人への思いを歌っているから、ちょっと変になるな」

「ふふ、でも気持ちがこもっていていいわよ」

「ともあれ、しばらくは別天さんから教わった祝詞を使わせていただきます」


 こうして道眞と百舌鳥は、別天の自宅まで同行することとなった。

 かたや京都伏見、かたや兵庫尼崎と、それぞれ離れた位置で娑輪馗廻に拉致されており、送ってもらえるのはありがたい話だ。

 おまけに、二人そろって血塗れの泥まみれに無一文。家についたらシャワーも貸してくれるとのことで、再三感謝の念に堪えない。


 別天の愛車は、シックな赤のスズキ・ハスラー。レトロモダンな雰囲気が彼女とよく似合っている。道眞は近くの道路標識に『比叡ひえいざん』とあるのを見て驚いた。


「嘘だろ……比叡山の中まるごとくり抜いたって言うのか?」


 居並ぶ鳥居と、青い目玉の彼岸花。今思い返すと悪い夢のような光景だ。まったくだと百舌鳥が同意するが、別天が「それは違うわ」とエンジンをかけつつ言った。


娑輪しゃりん馗廻きえは現実とは少しズレた世界、いわば異界に本拠を構えているの。とか実顕じっけんと言ったかしら……だからまた比叡山に来ても、教団の所には行けないわ」

「バケモンの次は異次元か。とことん何でもアリやな」百舌鳥が毒づいた。


 ふと道眞は気がつく。

 日本人の髪は、ただ老いただけの白髪しらがだと黄みがかった色になる。だが百舌鳥の前髪も、別天の白髪はくはつも、漂白したように不自然な白さが似ていた。


「……そんな場所に、別天さんはどうやって来たんですか? 確か自動書記で、生出さんが助けを求めていたと言っておられたと思いますけれど」


 茅が助手席に座り、全員がシートベルトを締める。車を発進させながら、別天は道眞の疑問に答えた。


「心霊治療家の別天現子あきこと言えば、少しは知られたものよ。いつものように書き物をしていたら、私の手が勝手に動き出して、甥の言葉を書いたの。大急ぎで占いをして、この時間この場所なら、あちらと接点ができて会えると踏んだわ。大当たりね」

「まだ暗いのにおばあちゃんに起こされて、びっくりしちゃった」


 やはり別天は霊能者だったのか。道眞は納得しつつも、「茅ちゃん、そんなこと突然言われて、よくついてきたね」と苦笑した。

 世間は夏休み、ラジオ体操というものが今もやっているかは知らないが、ゴロゴロ惰眠を貪っていたくなってもおかしくはない。


「んー……胸騒ぎがしたって言うのかな。なんか、自然と行かなきゃって思ったの。あたしにもついに、おばあちゃんみたいな霊感が芽生えたのかも?」


 ぎゅ、と。茅は生出の骨を入れたポケットを押さえた。


「こんなことになるなんて思わなかったけど、来て良かった。ありがと、羽咋おじさん、百舌鳥おじさん」


 おじさん。

 三十前の道眞は、女子中学生の彼女には倍の年齢である。確かにそのような年齢と判定されるのは道理だが、それでも、少し胸がチクリとする言葉だった。

 ぼそりと、後部座席で隣り合う百舌鳥が抗議する。


「俺はまだ二十六や」

「え? ハタチになったらみんなおじさんでしょ?」


 ああ、若さよ、君の凶器は灼熱の太陽のごとくすべてを焼け野原にす。


「なんだ、君、僕の二つ下か」

「やったらなんや、葬儀屋のおじさん。仲間を見つけたみたいに赤苦う嬉しそうにしくさって」


 茅の無邪気さから必死で意識をそらすと、百舌鳥が八つ当たりめいて毒づいた。おとなげなくも、彼は茅に再度抗議する。


「とにかく、茅やったな。俺をおじさん呼ばわりするんはやめんかい。他の呼び方ならなんでもええ」

「なんでも? 本当になんでも?」

「ああ。俺に二言はあらへん」


 ふぅん、という茅の感嘆詞に道眞は不穏なものを覚えた。


「じゃあ、百舌鳥さんだから、もずもずって呼ぶね!」

「なんやそらぁ!?」


 ズボッと音を立てて、百舌鳥が墓穴にはまるさまを道眞は幻視する。


「二言はないんだよね~?」

「うん。こればっかりは君の負けだぞ、もずもず」


 スパァン! とハリセンもないのに、異様にいい音を立てて道眞は頭をはたかれた。痛みはないあたり、死体であることが役立つのが少し悲しい。

 運転席で別天がくすくすと笑っている。自分の甥が無惨なことになったとはいえ、一番悲しいのは娘である茅だろう。


 多少無理はしているかもしれないが、あの〝霊廻式たまえしき〟で何か吹っ切れたものもあるのかもしれない。だからこそ、今笑っているこの時間が道眞にはまぶしく思えた。


「ほったら葬儀屋はなんや!? こいつもなんかあだ名があらへんと不公平やろ!」

「羽咋さん? うーん、ハクハクだと変だし、パクパクは……なんか不謹慎」


 茅は真面目に困ったのか、しばしうなった。


「あ、下の名前でもいいかな? 道眞さんだから、ドードー!」

「ドードー鳥か、なかなか似合におうとるな、葬儀屋」

「別にそれでいいよ」


 自分が女子中学生にドードー呼ばわりされる困惑より、あの百舌鳥が「もずもず」呼ばわりされる面白さが圧倒的に勝った。


「そういえば別天さんが心霊治療家なら、別天先生とお呼びした方がいいですね」

「あら、羽咋さん。先生だなんて照れるわね」


 会話が一段落したところで、別天が思い出したように食事が勧めた。荷室ラゲッジに積まれた二人の荷物から、携帯栄養調整食品ショートブレッド風ブロックと未開封のペットボトルをもらう。


「……神餌って、霊魂以外で食事するのかな」


 とっくに夜は明けているはずなのに、なんだか外が暗い。不思議に思いながら、道眞は自分の体について改めて悩んだ。別天が「心配しないで」と声をかける。


「人体の六割以上は水分って言うでしょう? 固形物は胃腸に溜まるだけでしょうから危ないけれど、水分はった方が良いわ。それに、嗅覚がきくなら味だって分かるはずよ。あなたはコーヒー党? 紅茶党?」

「日本茶党です」


 チャーミングな笑顔がバックミラーに映っていた。長らく娑輪馗廻と戦い、そして敗北したという別天はまだ謎が多い。

 けれど、別天は信じられる人間だと道眞は感じていた。ルイボス茶のペットボトルを開けてみると、なるほど味覚はまだ生きている。それにしても……。


「変ですね、なんでこんなに暗いんだろう」


 蝉の鳴き声はうるさいほどなのに。

 肌には重たく日差しを感じるのに。

 なぜか、周りは真っ暗闇だ。別天がヘッドライトをつける様子もない。


「別天先生、運転、大丈夫ですか」

「……どうしたの? 羽咋さん。今は朝で、とってもいい天気よ」

「はん」


 ぐい、と百舌鳥の大きな手が自分の顔をつかむ感触がする。いつの間にか、車内の様子すら分からなくなっていた。「瞳孔反射なし」と無機質に百舌鳥がつぶやく。


「しょせんは死体やな、瞳孔が開きっぱなしやで。目ぇ見えんくなるわけや」

「なんだって!?」


 道眞が狼狽しかけると、「あらあら、困ったわね」と別天がのんびりした声を上げた。どうやらこの程度のことは、彼女には織り込み済みらしい。


「神餌の中には、視力がない人も多かったわ。臭いや音で生きた人間を探しあてたり、力が強くて視力を取り戻したり、色々。甥はなり立てだったから見えたのね」


 励まそうとするように、別天は下の名前で呼びかけた。


「道眞さん、あなたの眼のことは私がなんとかするわ。見えないのは不安でしょうがないでしょうけれど、うちにつくまで、しばらくの辛抱よ」

「ありがとうございます」


 葬儀社では、損傷した死体の見た目を整えるサービスを行っている。だが別天の言うような、動く死体に視力を取り戻させる方法は、まったく未知の技術体系だろう。

 仙人のように底知れない女性だ。そもそも、なぜ娑輪馗廻と戦っていたのか。負けた、と言ったのも気になるが、考えることが多すぎた。


 どうせ目は見えないのだ、この体に睡眠が必要かは知らないが、少し休もう。

 道眞がそう考え、背もたれに身をあずけた矢先だった。


――しゃりん、と。


 金属が涼やかに跳ねるその鈴音すずねは、こちらの勘違いを告げる神の声。お前たちの安堵は間違っている、安心できる所などどこにもないと、悪意を持った錫杖の音。

 道眞の眼には真っ暗闇の中、ひときわ深く大きな虚無の闇がそびえて見える。


 別天が運転する車の前に、小袖も緋袴も千早もすべて黒い、巫女姿の女が立っていた。長い黒髪に丸眼鏡、琥珀の目に四つの虹彩と瞳を持つ異形。


 娑輪馗廻教主・太蝕天たいしょくてん娑馗しゃき聖者しょうじゃが。

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