第5話 ここがあなたの偽涅槃

 ギリギリの所で、コインは割れなかったのだと、思う。


 強姦や輪姦といった性犯罪の忌まわしさを道眞どうまは分かっているつもりだったが、我が身で思い知らされようとは。残された三人、誰も口をきこうとはしなかった。

 ひとかけほど残ったプライドが、袴やスラックスやジーパンを拾い、身につける手助けをしてくれたが、それが精いっぱいだ。


 まさしく、死にたくなるような恥辱だった。

 少なくとも道眞に乱交の趣味はない。だがその自尊心が、今は手が届かないどこか遠くにあって、そのまま放っておいてもかまわないという虚無感がある。それが一時的なショックなのか、薬物と香炉のせいなのかは区別が付かなかった。


(……限界、だ……)


 体力的にも、精神的にも、もはや意識を保っていられない。目が覚めた時、自分が自分でいられるのかと震えながら、道眞はゆっくりと眠りに落ちていった。



……誰かが笑っている。初めはくすくすと男の声が、やがてケラケラと大きくなり、一旦止まったと思うと、朗々と歌い始めた。


「しゃきしょうじゃきらいごう、ねがいかなえたまえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、ころしをかんぞん、みしゃくらぼさつ」


 それは生出おいずるの声だった。スピーカーに合わせて、道眞が眠っている間も続いていた謎の唱え言にならっている。


「ねがいかなえたまえ、おお、ころしをかんぞんさま。おお、しゃきしょうじゃさま。あはっあはははっ、しゃりんきえ! しゃりんきえ! しゃりんきえ!」

「生出さん!?」


 道眞はベッドから跳ね起きて、部屋の臭いに顔をしかめた。残された香炉ともろもろの体液が混ざって、香水を振りかけた歯槽しそう膿漏のうろうの息を吐きかけられたようだ。

 だがそれに構っている場合ではない。生出はタガがはずれたような顔で、幸せそうに放送に合わせて歌い、また笑っていた。その細い肩をつかんで揺さぶる。


「生出さん、しっかりしてください! どうしたんですか!」

「しゃりん……あー、羽咋はくいくん、起きたんだあ。また、おはようだね」


 こちらを向いた生出の表情は、一瞬正気のように見えた。

 だが、その瞳が決定的に違ってしまっている。からん、と。石を投げこめば乾いた音が返るれ井戸のように、さきほどまでの彼にあった何かが抜け落ちていた。

 ちらりと横を見ると、百舌鳥もずはまだ眠っている。顔が赤く、どこか苦しげな呼吸の様子から熱が出ているのかもしれない。そちらも気になるが、今は生出だ。


「彼らは僕たちを生け贄にして殺す気なんですよ。脱出するんじゃないんですか?」

「あはは、どうせ逃げられないよお。こんな丈夫な鎖、無理でしょ」


 これまで青ざめてばかりだった生出は、今や活き活きとした顔で笑った。

 洗い立ての洗濯物のようにさっぱりと、輝かんばかりの表情。自分の方がおかしなことを言ったのではないか、と道眞が戸惑うほどだ。


「私らは用木ヨウボクなんだ、どう抵抗しても無駄なんだよ。じゃあ殺されても死なないって思った方が、もう怖くないでしょ? だからお祈りしているんだ」


 過去のしがらみや悩みを吹っ切り、意気揚々とこれからを語る声音。こんな状況でなければ喜ばしいことなのだろうが、その先にあるのは間違いなく死だ。


「それに、死を超えた存在になれれば、死んだ娘の瑞穂にも会えると思うんだ」

「生出さん」

「羽咋くんもいっしょにお祈りしよう。ここの作法はまだよく分からないけどさ」

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 道眞は生出の両肩をつかみ、力いっぱい前後に揺さぶった。


「しっかりしてください! ここを出て、かやちゃんに会うんじゃないんですか? あなたが死んだら、まだ生きている娘さんはどうなるんだ!」

「あ」


 井戸に投げ入れられた石が、水面に落ちたような手応えがある。涸れ井戸のようだった生出の瞳に、感情のみずみずしさがふっ、とよみがえった。


「ああ、そうだなあ……あの子を置いていっちゃうのは、いやだ……」


 ほっと道眞は息をもらす。人間、呼吸が上手く行かない時というのは、ちゃんと息を吐けていないものだ。呼吸困難の時は吸うより、まず吐くことが大事なのである。

 ため息はまさに心底からの安堵だった。


「儀式が済んだら、私が茅を殺してあげよう! 聖者しょうじゃさまに聖痕しょうこんを授かれば、親子三人でずっとずっと不死身になれるんだ。あはははっ、なんて素晴らしいんだろう? あはっあはははははっ! しあわせだ、私はしあわせものだ、あははははははっ」


 生出は笑いながら合掌し、とうとうと祈り始める。道眞はもはや、それを止めるすべを持たなかった。後ずさってベッドにすねをぶつけ、そのまま座りこむ。

 祈りの声が、途切れない。


「生出、さん」


 七歳の時から、道眞は家の仕事を手伝ってきた。明治初期、葬具貸し出し業から始まった羽咋葬儀社は、父で四代目になる。

 十歳のころには、首吊りの死体も、腐乱死体も「ああ、死んでいるなあ」としか思わない子どもになっていた。後で振り返って「その態度は故人さまに敬意が足りない」と考えるようになったのは、中学か高校のころだ。


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 そうして死体だけではなく、親しい者を失った人々とも幾度となく出会ってきた。棺を火葬炉に入れる時、「行かないで!」と取りすがるひと。悲しみのあまり泣き叫ぶことも、崩れ落ちることもできず、呆然とするひと。

 様々に傷つき苦しむ人々に、葬儀屋が寄りそえるのは一時だけだ。そのたびに歯がゆさや無力を覚え、何度思い悩んだかなど数えてはいない。

 けれど、これは違う。


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「おお、しゃきしょうじゃさま、おすくいください、きらいごう。ねがいかなえたまえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、ころしをかんぞんさま」


 こんなに前向きな自殺志願者に、自死と殺人を思いとどまらせるのは葬儀屋の仕事ではない。人として止めたくとも、その手がかりが何もない。


「やめてくれ……」


 耳を押さえ、うつむきながら、道眞はついに泣き言を吐く。


「やめてください、生出さん……」


 足踏み式の空き缶潰し器に、全身を挟まれた気分だ。円筒形の缶と同じく手も足も出ず、ゆっくりグシャグシャの平べったいゴミになっていく。

 あと少しで、自分もきっと生出のように――


(――狂うかも、だって?)


 己が正気だという保証はどこにあるのだ。

 奇怪な教義を説く紙だらけの部屋に閉じこめられ、香と体液が混ざった異臭に満ちた空間で、陵辱され、祈りを聞かされ。

 そんな目に遭って怒らない方がおかしい、と、今までは、思っていた。だが。だがそうだっただろうか? 自分はとんでもない思い違いをしていたのではないか。


(ここで起きたことには、すべて、意味があるんだ)


 それが分かりかけてきた気がした。あと二歩か、三歩かでパズルが完成しそうだという確信が胸を満たし、早く全容を見たいと心がはずむ。


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「わかる……わかってきたぞ……」


 完成した絵が見たい、それは好奇心だろうか、達成感だろうか。いずれにせよ、答えが分かった時、今の悩み苦しみから解放されることは確かだ。

 道眞はじっと目を閉じて、スピーカーの放送に耳を傾けた。ずっと鬱陶うっとうしく感じていたそれは、受け容れてみると心地よい響きをしている。


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「しゃりん、きえ」


 口にしてみると、するすると胸の中でもつれていた紐が解ける気がした。自分を繋ぐ鎖の音さえ、今は楽器の一つのようだ。


「羽咋くんも、やっとお祈りしてくれるんだね!」


 目を開けると、間近に生出の笑顔がある。

 自分がいくら怖くても、辛くても、人を不安にさせないよう朗らかにしていた時とは違う。心からの幸福がにじみ出た生出の笑みが、温かく胸に沁みた。


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 彼がさし出した手を取り、道眞はベッドから立ち上がる。体が嘘のように軽く、清々しい気分だ。そう、生まれ変わったような。


「生出さん、僕も分かってきました」

「良かった、本当に良かったよ! じゃ、いっしょに祈ろうか」

「いえ、待って下さい」


 道眞は、一人ベッドに横たわりっぱなしの百舌鳥もずを指さした。相変わらず具合が悪そうだ。ずっとうなされていたらしく、大きな体にびっしょりと寝汗をかいている。


「ちょっと百舌鳥さんが心配です」

「ああ、そうだねえ。体が悪くちゃ、お祈りできないもんね」


 生出は百舌鳥の額に手を当て、自分の体温と比べた。


「うーん、すごい熱だ。可哀想に」

「頼めば水でももらえないかな。たぶん、僕らの会話は筒抜けでしょうし」


 などと話していると。

 かちゃん、かちゃん、と軽い音がして三人の首枷が外れた。切れ目がないように見えた鉄の輪が開き、引っぱると二つに分離して簡単に取れてしまう。

 これ幸いと、道眞も生出も首輪をベッドに置いた。鉄扉の向こうが騒がしくなり、ガチャリとノブが回る。


「用木のお三方さま、お迎えに上がりました!」


 白い作務衣さむえの集団を率いた老婆が、やけに張りのある声で言い放った。


「このような扱いをして申し訳ございません。わたくしめはトリアゲばばと申します」


 老婆はひどく小柄で、鼻と唇の境が不明なほどしわくちゃの顔をしていた。教団の役職持ちなのか、控えめに飾りがついた白の小袖と袴を着ている。

 特徴的なのは、古代日本のようなみずらの髪型だ。真ん中から分けた白髪を左右それぞれ結った後、くるりと折り返して輪のように結んでいる。


僭越せんえつながら、我らが教主〝太蝕天たいしょくてん娑馗しゃき聖者しょうじゃ〟さまの補佐をしております。皆さまのご準備が済まれたようなので、儀式の場へご案内いたしましょう」

「それって、聖痕しょうこん之儀のぎ?」


 生出がはずんだ声でたずねた。


「いかにも。我らが教主、大聖者だいしょうじゃさまもお待ちです。つつがなく儀式が成りましたら、宴席をもうけますので。これまでの非礼をご容赦くださいませ」

「非礼なんてそんなそんな!」ぶんぶんと手のひらを振り、生出はしきりに頭の後ろをかいた。「私ら、なーんにも分かってなかったからねえ、あれでいいんだよお」


 生出が「ね、羽咋くん!」と同意を求めてくる。

 道眞は「はい!」と朗らかにうなずいた。

 百舌鳥だけが、黙ってベッドに横たわっている。

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