第5話 ここがあなたの偽涅槃
ギリギリの所で、コインは割れなかったのだと、思う。
強姦や輪姦といった性犯罪の忌まわしさを
ひとかけほど残ったプライドが、袴やスラックスやジーパンを拾い、身につける手助けをしてくれたが、それが精いっぱいだ。
まさしく、死にたくなるような恥辱だった。
少なくとも道眞に乱交の趣味はない。だがその自尊心が、今は手が届かないどこか遠くにあって、そのまま放っておいてもかまわないという虚無感がある。それが一時的なショックなのか、薬物と香炉のせいなのかは区別が付かなかった。
(……限界、だ……)
体力的にも、精神的にも、もはや意識を保っていられない。目が覚めた時、自分が自分でいられるのかと震えながら、道眞はゆっくりと眠りに落ちていった。
◆
……誰かが笑っている。初めはくすくすと男の声が、やがてケラケラと大きくなり、一旦止まったと思うと、朗々と歌い始めた。
「しゃきしょうじゃきらいごう、ねがいかなえたまえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、ころしをかんぞん、みしゃくらぼさつ」
それは
「ねがいかなえたまえ、おお、ころしをかんぞんさま。おお、しゃきしょうじゃさま。あはっあはははっ、しゃりんきえ! しゃりんきえ! しゃりんきえ!」
「生出さん!?」
道眞はベッドから跳ね起きて、部屋の臭いに顔をしかめた。残された香炉ともろもろの体液が混ざって、香水を振りかけた
だがそれに構っている場合ではない。生出はタガがはずれたような顔で、幸せそうに放送に合わせて歌い、また笑っていた。その細い肩をつかんで揺さぶる。
「生出さん、しっかりしてください! どうしたんですか!」
「しゃりん……あー、
こちらを向いた生出の表情は、一瞬正気のように見えた。
だが、その瞳が決定的に違ってしまっている。からん、と。石を投げこめば乾いた音が返る
ちらりと横を見ると、
「彼らは僕たちを生け贄にして殺す気なんですよ。脱出するんじゃないんですか?」
「あはは、どうせ逃げられないよお。こんな丈夫な鎖、無理でしょ」
これまで青ざめてばかりだった生出は、今や活き活きとした顔で笑った。
洗い立ての洗濯物のようにさっぱりと、輝かんばかりの表情。自分の方がおかしなことを言ったのではないか、と道眞が戸惑うほどだ。
「私らは
過去のしがらみや悩みを吹っ切り、意気揚々とこれからを語る声音。こんな状況でなければ喜ばしいことなのだろうが、その先にあるのは間違いなく死だ。
「それに、死を超えた存在になれれば、死んだ娘の瑞穂にも会えると思うんだ」
「生出さん」
「羽咋くんもいっしょにお祈りしよう。ここの作法はまだよく分からないけどさ」
『
道眞は生出の両肩をつかみ、力いっぱい前後に揺さぶった。
「しっかりしてください! ここを出て、
「あ」
井戸に投げ入れられた石が、水面に落ちたような手応えがある。涸れ井戸のようだった生出の瞳に、感情のみずみずしさがふっ、とよみがえった。
「ああ、そうだなあ……あの子を置いていっちゃうのは、いやだ……」
ほっと道眞は息をもらす。人間、呼吸が上手く行かない時というのは、ちゃんと息を吐けていないものだ。呼吸困難の時は吸うより、まず吐くことが大事なのである。
ため息はまさに心底からの安堵だった。
「儀式が済んだら、私が茅を殺してあげよう!
生出は笑いながら合掌し、とうとうと祈り始める。道眞はもはや、それを止めるすべを持たなかった。後ずさってベッドにすねをぶつけ、そのまま座りこむ。
祈りの声が、途切れない。
「生出、さん」
七歳の時から、道眞は家の仕事を手伝ってきた。明治初期、葬具貸し出し業から始まった羽咋葬儀社は、父で四代目になる。
十歳のころには、首吊りの死体も、腐乱死体も「ああ、死んでいるなあ」としか思わない子どもになっていた。後で振り返って「その態度は故人さまに敬意が足りない」と考えるようになったのは、中学か高校のころだ。
『
そうして死体だけではなく、親しい者を失った人々とも幾度となく出会ってきた。棺を火葬炉に入れる時、「行かないで!」と取りすがるひと。悲しみのあまり泣き叫ぶことも、崩れ落ちることもできず、呆然とするひと。
様々に傷つき苦しむ人々に、葬儀屋が寄りそえるのは一時だけだ。そのたびに歯がゆさや無力を覚え、何度思い悩んだかなど数えてはいない。
けれど、これは違う。
『
「おお、しゃきしょうじゃさま、おすくいください、きらいごう。ねがいかなえたまえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、しゃりんきえ、ころしをかんぞんさま」
こんなに前向きな自殺志願者に、自死と殺人を思いとどまらせるのは葬儀屋の仕事ではない。人として止めたくとも、その手がかりが何もない。
「やめてくれ……」
耳を押さえ、うつむきながら、道眞はついに泣き言を吐く。
「やめてください、生出さん……」
足踏み式の空き缶潰し器に、全身を挟まれた気分だ。円筒形の缶と同じく手も足も出ず、ゆっくりグシャグシャの平べったいゴミになっていく。
あと少しで、自分もきっと生出のように――
(――狂うかも、だって?)
己が正気だという保証はどこにあるのだ。
奇怪な教義を説く紙だらけの部屋に閉じこめられ、香と体液が混ざった異臭に満ちた空間で、陵辱され、祈りを聞かされ。
そんな目に遭って怒らない方がおかしい、と、今までは、思っていた。だが。だがそうだっただろうか? 自分はとんでもない思い違いをしていたのではないか。
(ここで起きたことには、すべて、意味があるんだ)
それが分かりかけてきた気がした。あと二歩か、三歩かでパズルが完成しそうだという確信が胸を満たし、早く全容を見たいと心がはずむ。
『
「わかる……わかってきたぞ……」
完成した絵が見たい、それは好奇心だろうか、達成感だろうか。いずれにせよ、答えが分かった時、今の悩み苦しみから解放されることは確かだ。
道眞はじっと目を閉じて、スピーカーの放送に耳を傾けた。ずっと
『
「しゃりん、きえ」
口にしてみると、するすると胸の中でもつれていた紐が解ける気がした。自分を繋ぐ鎖の音さえ、今は楽器の一つのようだ。
「羽咋くんも、やっとお祈りしてくれるんだね!」
目を開けると、間近に生出の笑顔がある。
自分がいくら怖くても、辛くても、人を不安にさせないよう朗らかにしていた時とは違う。心からの幸福がにじみ出た生出の笑みが、温かく胸に沁みた。
『
彼がさし出した手を取り、道眞はベッドから立ち上がる。体が嘘のように軽く、清々しい気分だ。そう、生まれ変わったような。
「生出さん、僕も分かってきました」
「良かった、本当に良かったよ! じゃ、いっしょに祈ろうか」
「いえ、待って下さい」
道眞は、一人ベッドに横たわりっぱなしの
「ちょっと百舌鳥さんが心配です」
「ああ、そうだねえ。体が悪くちゃ、お祈りできないもんね」
生出は百舌鳥の額に手を当て、自分の体温と比べた。
「うーん、すごい熱だ。可哀想に」
「頼めば水でももらえないかな。たぶん、僕らの会話は筒抜けでしょうし」
などと話していると。
かちゃん、かちゃん、と軽い音がして三人の首枷が外れた。切れ目がないように見えた鉄の輪が開き、引っぱると二つに分離して簡単に取れてしまう。
これ幸いと、道眞も生出も首輪をベッドに置いた。鉄扉の向こうが騒がしくなり、ガチャリとノブが回る。
「用木のお三方さま、お迎えに上がりました!」
白い
「このような扱いをして申し訳ございません。わたくしめはトリアゲ
老婆はひどく小柄で、鼻と唇の境が不明なほどしわくちゃの顔をしていた。教団の役職持ちなのか、控えめに飾りがついた白の小袖と袴を着ている。
特徴的なのは、古代日本のようなみずらの髪型だ。真ん中から分けた白髪を左右それぞれ結った後、くるりと折り返して輪のように結んでいる。
「
「それって、
生出がはずんだ声で
「いかにも。我らが教主、
「非礼なんてそんなそんな!」ぶんぶんと手のひらを振り、生出はしきりに頭の後ろをかいた。「私ら、なーんにも分かってなかったからねえ、あれでいいんだよお」
生出が「ね、羽咋くん!」と同意を求めてくる。
道眞は「はい!」と朗らかにうなずいた。
百舌鳥だけが、黙ってベッドに横たわっている。
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