リナリアの花を君に捧ぐ

櫻葉月咲

花言葉は──

「俺、結婚するんだ」


 飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。

 今の今まで、くだらない世間話から自分達の近況について話していたはずだ。

 それをどうして「結婚」などという言葉が出るのか。


 いや、わかっている。この状況から逃げだしたいだけで、空耳だと思おうとしたいことくらい。


 目の前にいる青年──壱也かずやに「恋人いるの」とふっかけたのは真結まゆだ。

 言ってしまったことに後悔こそすれ、壱也を責める気にはなれなかった。

 本当はおめでたい事なのにモヤモヤとした感情が心の中で渦巻いて、心から祝いたいのに出来ない──そんな自分が嫌になる。


 自分達は小学校からの幼馴染みで、高校までずっと一緒。所謂いわゆる腐れ縁というやつだ。

 けれど、高校を卒業して少し経ったある日。「上京して夢を叶えたい」と言って、壱也は遠くに行ってしまった。


 そこから十年の間疎遠になってしまったが、つい先日壱也が帰ってきた。帰省という形だが、それでも真結は一目会えて、こうして話せるだけで嬉しかった。


 だから気が緩んでいたのだろう。自分と同じく三十を手前に迎えた壱也は、記憶にある姿よりもずっと格好良くて、つい口をついて出てしまったのだ。


「あ……そうなの? おめでとう、幸せになってね」


 声が喉に張り付く。けれど自分を叱咤して、何とか言葉を絞り出した。在り来りな言葉でしかないが、それでもとびきりの笑顔で言えたはずだ。


「真結に言われると嬉しいよ、ありがとう」


 照れ隠しかのように頭を搔く。けれどにこりと微笑む壱也は、真結の記憶にあるどの笑顔も輝いて見えた。




 壱也の太陽のように温かい笑顔が、真結は好きだった。壱也が笑うとこちらまで嬉しくて、その日あった嫌な事がどうでも良くなったほどだ。


 真結の家は当時母子家庭で、母は生活費を稼ぐために朝から夜まで居ないことがザラだった。勿論、真結も学校が終わるとすぐにバイトという日々が続いた。


 高校を卒業するまで友人と遊ぶ事はほとんど無かったほどで、運良く時間があっても短時間で抜け出すことが多かった。

 影では「付き合いが悪い」と言われていたらしく、心から気を許せる相手は壱也しか居なかった。だからか、気付いた時には壱也を目で追っていたのだろう。


 元々気心が知れた仲だ。素を見せられる相手も弱音を吐ける相手も、真結が思い浮かべる顔はいつだって壱也だったのだ。


 上京すると言われた時、最初はただの「幼馴染み」として、上京する事を心配していた。けれど、段々故郷から離れる時期が近付くにつれて違うのだと気付いた。


 怖かったのだ。壱也のことを好きだと認めてしまうのが。

 それでも片想いに留めていたのは、今までの関係が壊れてしまうかもしれない、という不安が過ぎったから。

 もしも告白してしまえば、優しい幼馴染みは困惑してしまうだろう。


 壱也が真結に向ける感情は、全てが家族の延長だった。

 共通の友人がふざけて「お前ら付き合ってるだろ」と言った時の事だ。即座に違うと否定し、笑い飛ばしたのは他でもない壱也だ。


 その出来事があったからか、自然と真結はこの年まで恋人を作る事もなかった。

 心のどこかでどうしても壱也がちらつき、真結に寄ってくる異性全員が魅力的に見えなくなったのだ。


 自分を変えないと、と思い立った時期もあった。

 けれど、その全てが惨敗した。好きだと思っても、いざ付き合ってみると冷めてしまう。こんなことを何度か繰り返し、もういいやと諦めたのがつい半年前。


 孫の顔を見せろと言う母の期待を裏切ったと思う。ただ、壱也以上に好きになった異性が居なかった──それだけの事なのに。


 (それだけなのに、どうして……)


 頬に一筋の雫が伝う。それはとどまるはずもなく、後から後から溢れてくる。

 堪らずに両手で顔を覆う。幸い幼馴染みは十分前に帰った後だ。

 誰もいない一人きりの自室で、真結はひっそりと声を殺して泣いた。

 テーブルには、まだほんのりと温かい紅茶が湯気をたてている。



 ◆◆◆



 そして結婚式当日の朝。

 壱也は是非にと真結たち家族を招待してくれたが、真結だけは当日になっても行こうか行くまいか決められずにいた。


「真結、早う準備しよし。もうすぐタクシー来るんよ? せっかく壱也君が招待してくれたんに」

 

 行けんでもよろしいの、と続けて母が問う。


「んー……。分かってる」


 返事をしたのはいいが、身体が動かない。結婚すると言われたあの日から、頭にずっともやがかかったままだ。

 幼馴染みの晴れ姿を見てみたいという葛藤と、こんな気持ちで結婚式に参列して後悔しないか、という思いと。これらが真結の中で渦巻いて、どうにかなりそうだった。


 けれど自分を叱咤して立ち上がる。手早く済ませなければ、母の怒声とともにデコピンがお見舞いされるのだ。




「おめでとうー!」

かなで〜! 幸せになってねー!」


 そこかしこから拍手が沸き起こり、たくさんの祝福の言葉がこの結婚式の主役──壱也と奏に向けられる。

 二人とも輝かんばかりの笑顔でそれに応え、バージンロードを歩いて退場していく。


 真結は真結で、うつむきがちに拍手するだけで精一杯だった。

 やはり壱也の顔を見られない。長年片想いした相手が自分以外の異性と結婚する事実を、どうしても受け入れられないでいた。


 (私は……最低だ)


 おめでたい場なのに。祝福しなければいけないのに。当日になるまで考えて考えて、それでも答えは「壱也が好き」という事実だけで。


 早く忘れなければ、気持ちを切り替えなければ。式が進行していくにつれてその焦りは酷くなっていった。現に今もチャペルから抜け出せない。

 母が「早く出なさい」と呼んでも、腕を引っ張られても、だ。

 脚が動かないとはこういう事を言うのだろう、と上の空で思う。


 グイグイと母に半ば強制的に引っ張られて、立食パーティーをしている広場に入る。

 母が取り分けてくれた料理はどれもが食欲を刺激するもので、気付けば料理を口に運んでいた。

 しばらく舌鼓を打っていると、こちらに向かって歩いてくる人物が見える。


「真結!」


 唐突な自分に向けられる声に、ビクリと肩が跳ねる。今飲み込もうとしていた料理が喉に詰まりそうになった。

 声を掛けたその人は、真結が好きで好きでたまらない──壱也だったのだ。

 白を基調としたフロックコートに身を包み、いつも下ろしている前髪はオールバックにしている。


「どうした、辛気臭い顔して。んな顔してたらおばさんに怒られるぞ〜」


 ややあって真結の真正面に来ると、ふにふにと両頬をつままれて軽く伸ばされる。弾力を楽しむかのような手つきは、出会った頃から変わらず優しかった。


「そうね……ごめん」

「おいおい、本当にどうした? 真結さーん?」


 そっと頬に触れられて、強制的に目線を合わせられる。

 切れ長の瞳は、今この時ばかりは真結だけを映していた。その事になぜだか涙が出るほど嬉しくて、堪らず瞼を閉じた。


 (私は最低で、でも壱也に罪は無くて。すべては私が弱かった、ただそれだけ)


 もしもあの時勇気を出して告白していれば、なにかが変わっただろうか。

 もしもあの日、私も連れて行ってと言っていたら、この未来も変わっていただろうか。


 思いつく限りの仮定が浮かんでは、やがて消えた。

 過去の事に執着していても何にもならない。とっくに分かっていたはずだ。

 なのにまだ自分の気持ちから目を背けるとは。


「壱也」

「うん?」


 瞼を持ち上げ、目の前にいる幼馴染みを見つめる。ゆっくりと瞬きをした真結の瞳には、先程までの迷いや恐れすら無かった。


「私ね、貴方が好きだったの。ずっと前から」


 紡いた声は淡々としていたが、真結が何を言いたいか悟ったのだろう。一瞬目を丸くしたが、壱也は黙って耳を傾けてくれた。


「私の好きって言葉をどんな意味でも受け取ってくれて構わない。幼馴染みとしても、家族としても。──でも、これだけは覚えてて」


 そうして今度は真結が壱也の頬──ではなく、両手を握る。


「私はどんな事があっても壱也の味方だから。何かあれば頼ってほしい」


 まっすぐに壱也の黒くて綺麗な瞳を見つめて、ありったけの想いを言葉に乗せる。


 (私は壱也、貴方が好き。貴方が選んだ人よりも、ずっと)


 心の内で落とした言葉を、本人に言う気はない。言ってしまえば想いが溢れ出して、止まらなくなってしまうから。

 もし言うことがあるのならば、数十年後の話になるだろう。

 その頃には真結の隣りに誰かが居るのだろうか。誰かと一緒に手を取り合って生きているのだろうか。

 どちらにしろ、その時が来るまで分からない。


「それからこれ」


 そう言って近くに置いていたミニバッグの中から、真結の手の平に収まる “何か” を差し出す。


「これね、少し前から作ってたの。壱也、読書好きでしょ? ……幸せになってね」


 真結が差し出したものはしおりだった。

 白い花弁が可愛らしい、一輪の花──自宅の庭に咲いていたリナリアを切ってきたのだ。


 壱也が結婚すると言った日、勿論落ち込んだ。けれど、壱也が喜ぶものをあげられないか、ということで真結手ずから作った栞。

 昔から読書が好きだという壱也にとっては、これ以上ない贈り物だろう。


「……あぁ、ありがとう。幸せになるよ」


 壱也はしばらく何も言わずに固まっていたが、やがて破顔した。

 太陽のように眩しい笑顔でそれを受け取り、栞を貰ったことへのお返しにかポンポンと頭を撫でてくる。

 それをくすぐったく思いつつも、真結の頬には笑みが広がっていた。


 (どうか壱也のこれからが、幸多からんものになりますように)


 心の中でそっと祈る。

 料理と共に置いていたシャンパングラスが、太陽の光に当たってキラキラと輝いていた。

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リナリアの花を君に捧ぐ 櫻葉月咲 @takaryou

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