第1章:イリス(3)
母と顔を合わせづらい二日が過ぎた夕刻。アガートラム城内には、慌ただしく物々しい空気が漂っていた。メイド達は洗濯物や食材を抱えてひっきりなしに行き来し、兵士達は明らかにぴりぴりした雰囲気を纏って警備に当たっている。
「皆、気が立ってるなあ」
自室の扉を少しだけ開け、こっそりと廊下の様子を窺って、イリスは小さくひとりごち、溜息を吐く。そして扉を閉めると、ベッドの上に身を投げ出した。柔らかい感触が、王女の体重をしっかりと受け止めてくれる。
グランディアにとって、長らく不安要素であった北方のアースガルズ皇国。
これが、カレドニアやムスペルヘイムといった友好国相手ならば、ここまで気を張り詰める必要は無い。イリスも幼い頃、カレドニア国主である叔父アルフォンスや、祖父母や大叔父アルフレッドと懇意にしていたムスペルヘイム駐在騎士長デヴィッド・ルースには、彼らが城を訪れる度に、よく遊んでもらった。そんな安穏とした空気が無いのは、アースガルズという国が、グランディアにとって敵となるか味方となるか、判断がついていない証拠だ。
だが、イリスにとっては、そんな事もさしたる問題ではない。誰もが日夜慌ただしく動き回り、こちらへの注意が逸れる今が、城を抜け出す最大の好機だからだ。
父を捜しにゆきたいと思い始めてはや数年。正面切って母に頼み込んでも、すげなく反対されるのは目に見えている。万が一に許可を得られたとしても、それこそ好都合とばかり留学に放り出され、馬車に乗り、大勢の騎士にがっちりと護衛された隊列で仰々しく街道を進んでゆく行程になるのは、容易に想像がつく。そんな旅は、イリスの望むところではない。
求めるのは、かつて両親が歩んだような、起伏に富んだ、昂揚する戦いと胸躍る冒険の道である。
辺境から始まった百人の解放軍が、やがて万の帝国軍を相手取る大部隊となり、王国を滅ぼした逆臣を討ち取り、悪魔と化した皇子を追い詰め、魔王復活を目論んだ魔族をも滅ぼした。親世代の英雄譚は、吟遊詩人の
だからこそ、じゃじゃ馬姫と呆れられても剣の修行に力を注ぎ、一般兵ごときには負けないくらいの腕前を身につけた。退屈な授業を抜け出していたのも、単に嫌いだったからというわけではない。脱出路を調べておく為だ。
アースガルズの賓客を迎える段階になれば、城の警備は今以上に厳しさを増し、王女の部屋周辺にも不寝番が数を増すだろう。それが終われば、いよいよ自分が聖王教会に送り出される番だ。時間が経つほどに機会は失われてゆく。決行するなら今の内、そして、思い立ったが吉日だ。
イリスはベッドから跳ね起きると、その下へ潜り込み、ごそごそと袋を引っ張り出す。周囲の目を盗んで、旅支度を隠しておいたのだ。路銀が必要な事もわかっているから、王女の厚意の振りをして兵や使用人達の仕事を手伝い、対価にもらったディール硬貨を溜め込んでいた。
胸当てや肩当て、篭手脚絆一式を身に着け、護身用の細身剣と短剣を腰にたばさむ。元々は儀礼用に作られた白銀製だが、高位の魔道士によって硬度を強化する術が施されている。そんじょそこらの無駄に重い鉄の甲冑よりは、よほど用を為すだろう。
それから、ベッドの掛け物とシーツを引っぺがし、短剣で適当な大きさに引き裂いて、長く丈夫に結い合わせる。この日の為に、夜中に冷えるからと侍女に言って、掛け物の数を増やさせていたのだ。
寝具のロープが出来上がると、イリスは窓を開け、注意深く周囲を見渡す。西向きの窓は裏庭に続いており、夜間の見張りも多くない事は、既に調査済みだ。
「ごめんなさいね母様、落ち着きの無い娘で!」
命綱になるシーツを窓辺に括りつけてしっかりと握り締め、口ばかり母に詫びると、イリスは窓枠を越えて部屋の外へ飛び出す。手近な屋根に爪先が届くと、即興ロープを放り出し、大きな音を立てぬよう注意して屋根を駆け抜けた。
脱走には足が要る。適当な馬を一頭見繕ってゆこうと厩舎へ向かい、人気の無い場所を選んで地面に降りようとする。が、地上への高低差は見た目よりも大きかった。足がつかず、屋根の縁にしがみついたままじたばたしていると。
「お手伝いしましょうか、姫様?」
聞き慣れた声が背後から浴びせかけられ、
打ち付けた場所をさすりながら見上げれば、守役の女騎士が、やけに優しい笑みを唇に浮かべて、イリスを見下ろしていた。ただし、目は笑っておらず、悠然と仁王立ちしながら。
「クラリス!」
イリスは痛みをこらえて立ち上がり、臨戦態勢を取る。
「止めるなら力尽くで通るからね。貴女にも負けないくらいの剣は、身につけたつもりなんだから!」
しかし言いながら、王女は女騎士がしっかりと旅装束を身に纏っている事に気づいて、瞬きをしてしまった。
「あら。イリス様は、何か勘違いをしておりませんか?」
ころころと。玉を転がすようにクラリスが笑う。
「私は女王陛下のご命令を受けて、聖王教会へ任務に旅立つだけですよ」
「へ?」
痛みも忘れてきょとんと立ち尽くす王女に向け、守役は意味深な笑みを浮かべる。
「ですが、姫様が『どうしても』とおっしゃるのであれば、ご勉学の一環として、『共にお連れしてもよろしい』のですが?」
嫌味のように強調する守役に向け、王女は苦い物を呑み込んだかのように、顔をしかめた。クラリスはこういう女性なのだ。いつもこちらの手の内を見透かし、人の一枚上手を行く。流石は名軍師の孫。二十二年前の帝国と解放軍の戦いで、母の頭脳を務めただけの事はある。
「クラリスも母様も、意地が悪い」
「さあ、私には何の事やら、さっぱり」
イリスが吐いた毒も飄々と受け流し、クラリスは青毛と栗毛の二頭の手綱を引いてくる。
「では、まいりましょうか」
「どこへ?」
「人の話を聞いてらっしゃいました?」
イリスがぽかんと口を開けると、クラリスは深々と長息を吐く。
「北へ。聖王教会へ向かいましょう」
「結局、私を勉学に行かせたい訳」
「話は最後まで聞く。申しましたよね、陛下のご命令を受けたと」
膨れっ面になる王女をぴしゃりと黙らせ、女騎士は王女に黒馬の手綱を渡す。
「聖王教会には、クレテス将軍の死に関する真相を追っている、協力者がいらっしゃいます。その方に会いに行く、と言っても、否やをおっしゃいますか、姫様?」
イリスは先程屋根から落ちた時以上の驚愕で目を見開く。騎士は相変わらず、口元に不敵な笑みを浮かべていたが、やはり目は、真剣そのものであった。
宵闇に紛れ、二騎の人馬がアガートラムの北へと駆け去ってゆく。
「よろしかったのですか」
「イリスはあの人と同じで、これと決めたら曲げない子ですもの。いつかは、こんな日が来ると思っていました」
自室のバルコニーからそれを見送っていた女王は、騎士団長に問いかけられて、寒さ除けのケープを羽織り直し、微笑を返した。
「どちらかというと、貴女のお若い頃にそっくりかと」
過去を思い出しているのか、宙を仰ぐユウェインにそう言われては、混ぜっ返す事もできない。エステルは苦笑いを浮かべ、それから、遠くへ消えゆく娘とその守役を見送る。
「あの子に外の世界を教える、良い機会でしょう。クラリスがついていますから、とんだ無茶をする事も無いでしょうし」
ただ、と女王は瞳を物憂げに伏せ、沈思する。
今は大陸情勢が大きく揺らぎかねない、危うい時期である。アースガルズとの会談がつつがなく終わり、少しでも不穏の種が取り除けるまでは、危険の漂う事態から我が子を遠ざけておきたい。そう思うのは、親として当然の心情であろう。
そしてもう一つ、エステルが娘に関して憂うる事項が存在するのだ。
それはイリスが生まれた時。王国の慣例で、新たな命の行く末を王宮占術師に
不名誉な肩書きを背負って欲しくはないと、厳しくも愛情をもって育ててきた我が子は、生憎やんちゃが過ぎてしまったが、根本の頭脳と性格は健やかだ。城内では料理を失敗して調理人達と共に笑いながら騎士達に成果物を配って、「流石は女王陛下のご息女」と親しみを込めた
その娘が外界へ出ていった時に何が起きるのか。過去の予言が成就に向けて動き出すのか。誰にも知り得ない。
それでも、我が子を笑って送り出してやりたい。世界に何があろうとも、母である自分だけは、最後まで娘の味方でありたい。
「まず親である私が、あの子の選ぶ道を認めてあげないといけませんから」
母としての決意は、呟きとして風に乗り、木々のさざめきに吸い込まれた。そして、夫の死後も胸に秘め続けた、王女に関する予言を思い出す。
「この姫は、シャングリア最後の王となる。そして、神が創り上げし世界の
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アルファズル戦記 たつみ暁 @tatsumi
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