第1章:イリス(2)
普段誰にでも気さくに話しかける人物の機嫌が悪い時、無闇に手出し口出しをしてはいけないというのは、世間の暗黙の了解である。それ以上損ねては、相手にも自分にも、為にならないからだ。
だから、アガートラム城内の騎士や侍女達は、肩をいからせ早足で歩く王女には、無難な会釈を送るだけで、そそくさと通り過ぎるか、無言で見送るばかりである。
ただ、一人を除いては。
廊下の途中で、待ち構えるように腕組みして柱に寄りかかっている青年の姿が視界に入って、イリスは小さな溜息を零す。青年はこちらの気配に気づくと、ゆっくりと顔を上げ、ロイヤルブルーの双眸を親しげに細めた。元々は薄く緑がかった髪が、窓から差し込む陽光を受けて、黄金色を帯びている。
「また伯母上に叱られてたのか、イリス?」
「……ユリシス」
揶揄を込めた笑みに対し、イリスはさも迷惑そうな半眼で、相手の名を呼んだ。
ユリシスは、隣国カレドニア国評議会の首座に就いている叔父、アルフォンスの長男だ。幼い頃からよく父親の幻鳥(ガルーダ)に乗せられて、グランディアに遊びにきていた。共に駆け回って転び、木に登って落ち、中庭の噴水に飛び込んでびしょ濡れになり、一緒に怒られた回数は、両手で数え切れない。
そんな彼が、将来父親の跡を継ぐ為の留学という形でグランディアに滞在して、そろそろ二年が過ぎようとしている。だが、子供の頃は一緒に風呂にも入る仲だったこの従兄には、少々苦手意識が芽生え始めていた。
挨拶もおざなりに脇を通り抜けようとするイリスを、「待てよ」とユリシスは行く手を塞ぎ気味に呼び止める。
「別に急ぐ用事も無いだろ。どうせ憂さ晴らしに、外へ出ようと思っているんじゃあないのか」
「わかっているなら
「俺が退いたって、門番が退いてくれないさ。お前一人じゃ、な」
ややつり目がちな、母親と同じ色の目を更につり上げて、むっすりと睨み返す王女に怯む様子も見せず、ユリシスは朗らかに笑いかける。
「生憎良い天気だし、しばらく空中散歩と行こうじゃありませんか、お姫様?」
騎士のように胸を当て低頭し、視線だけこちらに向けて片目を瞑ってみせる従兄に、イリスはまた嘆息したものの。
「……わかった」
そっけないながらも、肯定の応えを返すのであった。
二人は城内でも広めのテラスに向かった。ユリシスがテラスの真ん中に進み出て、特定の波長を流す笛を力強く吹くと、春先の晴れ渡った空に、羽ばたきの音が横切り、影が落ちる。飛行戦士であるカレドニア騎士なら、誰もが会得している、相棒を呼ぶ符丁だ。
蒼穹を駆け、緋色の翼がテラスに降り立つ。それこそ、かつてカレドニアが王国だった頃、
「よし、ヴィスナ。今日も絶好調だな」
ユリシスは相棒の鼻先を撫でると、ひらりと背に飛び乗り、イリスに手を差し出す。王女はその手を取り、魔獣の背に引き上げてもらうと、従兄の背後に位置を確保した。
「そんな乗り方じゃあ落ちるだろ。何なら腰にでもつかまってろよ」
「馬鹿な事を言っていないで、さっさと行きなさい!」
イリスの怒声とユリシスの笑声が大空に吸い込まれ、グリフォンが大きく羽ばたき飛び立った。
イリスがユリシスを苦手にしているのは、決して、彼のやや過剰な距離感の詰め具合や遠慮の無さのせいだけではない。
ユリシスは、幼少時からイリスを知っている故に、彼女が何かを求めていると、瞬時に把握して対応してくれる。イリスが事ある毎に城の外へ飛び出す癖を持っているのと、その正しい理由を知っているのはユリシスだけだし、実際イリスがそうしたい時、真っ先に現れるのも彼だ。それは得難く有難いものだと思っている。だが時に、酷く鬱陶しく感じる事があるのもたしかだ。
更に癪に障る事に、イリス一人では、守役のクラリスをはじめとする家臣達は、決して外出を許してくれないのに、ユリシスが隣にいると、小言も言わずに道を開くのだ。それは、誰もが二人を『
母や叔父が、自分とこの従兄を結婚させたがっているのは、薄々わかっている。
イリスの両親、ユリシスの両親、その友人達、そして先代のグランディア女王と当時の騎士団長であった祖父母まで。二人の周囲には、幼い頃から時を共にした末に結ばれた夫婦が、やたらと多い。そんな前例が多々あるので、大人達が、「グランディアとカレドニアという二大国家が統合し、大陸全土への影響力が強化される」という、そんな政略上の計算を抜きにした感情論で、自分達に期待をかけている事も、当然承知済みだ。
しかし、イリスにとってユリシスは、「いなくなったら悲しむだろう大事な従兄」でこそあれ、「特別な感情を抱ける唯一人」には、決してなり得ない。幼い頃から互いを知りすぎているが為、幼馴染で従兄妹、それ以上の想いをユリシスには感じないし、これから先も感じる事は無いと思っている。
それらの事と、そこから起因する彼への申し訳なさは、苛立ちをより高め、より邪険に扱う原因になってしまっているのだ。
従兄の広い背中を見つめながら、イリスは相手に気づかれぬ程度に、本日三度目の溜息をついた。
グリフォンが降り立つ風圧で、萌え始めた春の草が吹かれて横倒しになる。それが止むと、また力強くしゃんと背を張った。アガートラム郊外に広がる草原は、かつて帝国と解放軍が決戦を繰り広げた場所だ。天気が良い日は南西に、カレドニアのアイシア山脈を臨める。
ユリシスはそこにイリスを降ろすと、「近くを回ってくる」と言い残して、再度魔獣を飛び立たせた。羽ばたきで巻き起こった風に金髪をなびかせながら、イリスはその背を見送る。そして、従兄の普段は過剰とも思える気遣いに、今だけは感謝するのだ。
草原の外れにひっそりと佇む、王族の墓地。そこが、イリスが城を抜け出しては訪れる場所。天上へ昇った生命達の抜け殻が眠る地。その一角へと、王女は迷わず向かった。
大分古びてきた墓石の前にしゃがみ込み、翠の瞳を少しだけ切なげに細めて、イリスはここにいない人に呼びかける。
「また、母様を怒らせちゃったよ、父様」
墓石には、彼女の父親の名前が刻まれている。
『クレテス・シュタイナー』と。
だが、この土の下に、その亡骸は、無い。
父をよく知る者達が彼を語る時、皆が口を揃えて「立派な騎士だった」と言う。
ラヴィアナ王族の座を捨て、母と共に人生を歩む事を選び、グランディア騎士団長まで務め上げた。そんな父の、騎士としての記憶は、しかしイリスにはほとんど残っていない。
憶えているのは、不定期に城を留守にしていた事と、帰ってきた時、駆け寄る自分を抱き上げてくれた逞しい腕と、微笑みかける深い蒼の瞳。
そして、棺の中の、やたらと青白い顔。
父は十四年前の秋、旧ラヴィアナ王国領への遠征中に死んだ。率いる部隊が魔物に襲われ、致命傷を受けたのだという。
当時のイリスは相当な父親っ子だった。死というものを満足に理解できない歳のくせに、父の身体が土の下に埋められてしまう事だけは把握して、阻止しようと、遺体が遠征先から帰った直後、棺が納められている聖堂に立て籠もり、守役のクラリスをはじめとする城中の人間を大いに困らせた。
その出来事も、幼少時のほろ苦さを伴う思い出として、いつかは時と共に薄れてゆく……はずだったのだが。
シャングリアの作法に則って葬儀が執り行われるはずであった当日の朝、人々が目にしたものは、蓋が開きもぬけの殻になっていた棺と、それを夜通し見守っていた兵士達の、無惨な死体であった。
その光景があまりにも惨すぎて、「姫様はご覧にならないように」と大人達に遮られてしまったのだが、クラリスの腕越しに垣間見えた聖堂内は、壁から天井、調度品まで何もかもが、鮮血で染まっていた。その色だけは、強烈に記憶に焼き付いている。
内外の混乱を避ける為、空の棺のまま葬儀は行われ、墓に納められた。そして水面下ではすぐさま、兵を惨殺し女王騎士の遺体を持ち去った大罪人を追跡すべく、多くの密偵が大陸全土へと放たれた。ところが、優秀な手練ればかりだった彼らのことごとくが、任務の途中で消息を絶ち、今日に至るまで、一人たりとも帰還していないのである。
そんな不穏な事態があったので、騎士団長の死は事故などではなく暗殺だ、エステル女王に反発する勢力の陰謀だ、などという噂が、まことしやかに囁かれたりもした。
夫という片翼を亡くして尚、気丈に国政に打ち込んでいた母も、心身の疲労が重なって、すっかり身体を壊した。若い頃は解放軍を率いて帝国を破り、魔王にも立ち向かった勇者だという。しかし今やその姿は見る影も無い。特に三年前、風邪をこじらせ肺を患ってからというもの、次はどんな大病に倒れるかと、周囲の気を揉ませているのだ。
偉大な女王の命を少しでも永らえさせるには、まず日々の激務から解き放たねばならない。母の延命の為、一日も早く王座を継いで欲しいと、或いはしかるべき相手を伴侶に迎えてもらいたいと、家臣達が自分に望んでいるのは、イリス本人も重々承知している。母が聖王教会への留学を口に出したのも、立派な女王になってくれればという、周囲の懸念を受け取っての事だろう。
しかし、自分は決して母のような立派な為政者にはなれないのではないか、という不安は、常にイリスにつきまとうのだ。
外見的にも性格的にも、自分が母より父に似ているのは、残された肖像画や記憶と照らし合わせれば明らかだ。周りの人間も、自分の言動を見るにつけ、父を思い出すと語る。亡き夫に年々似てゆく娘を見て、母はどう思っているのだろう。
過去に万一は禁物だが、もし父が健在であったなら、自分がここまで過度の期待を受ける事も無かっただろうか。少なくとも、父の遺体が消える事無く、きちんとこの墓石の下にあれば、母は割り切って今より穏やかな心情であったに違い無いのに。
空の墓碑を前にする度それを思い、イリスの心にはひとつの決意が浮かぶ。
父を、捜したい。
父の行方を捜し当て、たとえその身が既に残っていなかったとしても、形見の一つくらいは母の元へ還してやりたい。
最早城からも満足に出られない病弱な女王の代わりに、不出来な娘ができる事といえば、それくらいしか無いと、イリスは常々考えるのであった。
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