第1章:イリス(1)

 シャングリア大陸の中心国、グランディア王国。位置的にも、政治的にも、大陸の中枢たるこの国は、魔王イーガン・マグハルトを倒した『四英雄』の筆頭、聖王ヨシュアが、魔王軍の本拠地であったアガートラムを首都として興し、約三百年間、その地位を保ち続けている。

 国家の分裂、大逆事件、帝政支配による大陸全土への侵攻。歴史の中で、多くの危機的状況はあったものの、その度に、四英雄の子孫達は戦乱を収め、国を治めてきた。

 そして現在は、第二十代国王、エステル・レフィア・フォン・グランディアの治世を迎えている。

 四英雄の内、今は絶滅に瀕する竜族の王ヌァザの血を、母方より濃く受け継いだ彼女は、若くして大きな戦乱を終結させた。その後、人間以外の血を引く者の筆頭として、『優女王』と呼ばれた母ミスティ女王の遺志を継ぎ、大陸全土の国家、民族、種族の差別と争いを無くすべく努めた。

 彼女の真摯な呼びかけに共感した各国の指導者、あるいは魔族や少数民族は多数にのぼり、人々は解放戦争での凜とした盟主の姿を讃え、エステルを母女王の二つ名にあやかって『勇女王』と呼び、シャングリアでの紛争は過去に比べて見違える程減った。


 だが、それはあくまで、数年前までの話になる。


 始まりは辺境、特に『北方諸国』と総称される大陸北部の小国群で、魔物の活動が活発化したという噂からであった。噂はやがて正式な被害報告となって各国に届くようになり、中には、これまでに見た事も無いような形態の魔獣もいると、調査にあたった密偵達も声を震わせた。

「魔王教団の生き残りが人間達への復讐を狙っている」

 不安に駆られた人々は、かつて魔王復活を目指して暗躍した魔族を犯人と目し、厳しい罰を下すようエステル女王に求めた。しかし無論と言うべきか、女王から問いかけの使者を送られた、他種族に友好的な魔族達は、くだんの事態は知能の低い野性魔獣が暴走しているもので、自分達の掌握している範疇ではない、と憤慨の反応すら見せた。それが事実に違い無いのだろうが、特に魔獣によって実害を受けている北方の諸侯は、「エステル女王との友好を隠れ蓑にした、図々しい言い訳だ」と激憤し、魔族に対して反感を露わにした。

 更に、その北方では近年、アースガルズという、辺境の一地方に過ぎなかった小国が、皇国を名乗り、周辺国を併合。年々勢力を拡大させている。既にかなりの軍事力を蓄えているだろう彼らの外交手法は極めて謎で、傍から見れば、あくまで対話によって、誓約書に自国と相手国の代表の名を記したとしか伝わらない。その穏便さが逆に、グランディアやカレドニア、ガルドといった大国にまで、不信感と警戒心を与えるのであった。


 再び募る、種族間、種族内での不穏。高まる大陸全土の緊張。

 それに加えてもう一つ、グランディア女王は、手元に悩みの種を抱え込んでいたのである。


 アガートラム城の女王の執務室には、張り詰めた空気が満ちていた。窓から差し込む太陽光も、女王エステルの冷ややかな表情を溶かす事はできない。

「また、家庭教師を騙して授業を逃げ出したそうですね。一体、幾つの子供がする事ですか」

 細められた翠の瞳が、目の前に立つ少女に厳しい視線を送る。それもどこ吹く風か。少女は肩に流れる艶やかな金髪を揺らし、頬に手を当て小首を傾げた。

「騙したなんて、人聞きの悪い。今日は良い天気だから、室内で本を開くより庭で剣を振るった方が頭もすっきりする、って言っただけでしょう」

「イリス」

 女王が一人娘の名を低い声で呼ぶと、グランディア第一王女イリス・アレサ・フォン・グランディアは、少しだけ肩を縮こませ、しかしすぐに不満げに頬を膨らませた。その様子を目の当たりにして、エステルは深々と溜息をつく。

「いずれ私に代わりこの国を治める立場にある者が、そのようにいい加減な振る舞いをしていては、皆に示しがつきません。貴女ももう十九でしょう。もう少し、王女としての自覚を持ちなさい」

「持っていない訳じゃあない。帝王学だの、大陸史だの、母様だってやってこなかった、聞いていて眠いだけの話が、国を治める役に立つとは思えないだけよ」

「イリス」

 口答えは許さぬとばかりに、先程より更に低い声が浴びせかけられて、王女は、口が過ぎた、とばかりに少しだけ唇を歪める。

「まったく、貴女はどうしてそう反抗的なのですか。幼い頃はあんなに素直だったのに」

 血の繋がった身内特有の、『自分は小さい時のお前を知っているから、変貌ぶりにがっかりしているぞ』攻撃を喰らい、イリスは深々と溜息をつく。母の事は嫌いではないが、いつまで子供なのだと叱責しつつ、そういう子供扱いをしてくるのが嫌なのだ。不満顔を表せば、女王は娘より更に重々しい長息を吐いた。

「そんなにこの城での生活が不満なら、やはり一度、他所よその地へでも遣るべきですかね」

「やはりって」

 突然の宣告に、イリスは翠の目を真ん丸くして、母の執務机に両手をつき、身を乗り出す。

「貴女にはそういう経験がありませんからね。前々から考えてはいたのです」

 同じ色の瞳で娘を見上げながら、母は淡々と語る。

「聖王教会なら、充分な設備も人材も揃っていますから。先方に使者を送り、段取りをつけておきます。存分に知識と教養を蓄えてきなさい」

 王侯貴族の子女が外国へ留学に出されるのは、大陸各地の交流が盛んになった今では、ごく当たり前の事である。大陸中心国の王女とて、例外にはならないだろう。しかし、それでもあまりに唐突である。

「そんな、急に言われても」

「急でなければ、貴女はまた、あの手この手でのらりくらりと逃げるでしょう」

 戸惑い気味に眉を垂れれば、娘に反駁の余地を与えず、女王はぴしゃりと言い放つ。二十年以上、国主として幾多の外交現場を渡ってきた女傑相手に、その子供が口で敵う道理は到底無い。

 優しさの中に底知れぬ厳しさを包括する母と違い、見た目から強気という印象を与える顔立ちを更に険しくして、イリスは苛立ちを隠さずに爆発させた。

「わかりました。行けば良いんでしょう、行けば!」

「イリス、そういう態度が……お待ちなさい、イリス!」

 そして、母が呼び止めるのも聞かぬまま踵を返し、乱暴に扉を開くと、振り向きもせずに執務室を退出してゆくのだった。


「本当に、困った子」

 開け放たれた扉を見つめながら、エステルは苦笑を洩らして椅子の背もたれに身を預けた。

「元気なものですな、我らが姫君は」

「その行動力を、まつりごとへの関心に向けてくだされば、尚の事よろしいのですけれども」

 女王の背後に控えて、母娘の刃無き闘争を見届けていた者達が、緊張を緩めるように言葉を発する。騎士団長ユウェイン・サヴァーが、髭をたくわえた口元を苦笑に象り、近衛隊長のクラリス・フェイミンが、やれやれとばかりに首を振る。

「まあそれが、あのお姫さんの良さだろ。無鉄砲さも、それでいて民には人気があるところも、まるで父親譲りさ」

 クラリスの隣に立つ、紅い鞘に収まった聖剣を腰に帯びる剣士が、呑気な口調で言い放った。他の二人と違って騎士服を装備していないのは、彼が『聖剣士』と呼ばれる、傭兵身分であるからだ。

 その男、ピュラ・リグリアスの発言に、クラリスが非難がましい視線を送る。藪を突いて蛇を出したと、ピュラは肩をすくめてみせたが、彼らが気を遣った当の女王は、「ふふ」と微笑み、懐かしそうに目を細める。

「そうですね。イリスは本当に、あの人に似てきました。見た目の雰囲気も、気の強さも、内に秘めた優しさも」

「陛下のご息女でもあるからだと思いますよ」

 ユウェインの言葉にクラリスも笑顔で同意し、それから女王を促す。

「エステル様。そろそろ横になられてください。午前中も政務があったのですから、よく休まれないと、明日に差し支えます」

「大丈夫です、もう少し起きていられます」

「春とはいえ、まだ冷えます。気を抜けばまたすぐに体調を崩されますよ」

 女王が、四十路を目前に控えているとは思えぬほど、いまだ美しく、そしてやたらと線細く色白いのは、決して歳不相応の若さのせいだけではない。言われるままに自室に戻ろうと、席を立ち、クラリスの手を借りて上着を羽織ったところで、

「侍女頭から、そうではないか、と聞いただけなのですが」

 女王は思い出したように家臣達を見渡した。

「あの子は、旅に出たがっているようです。あの人を、捜しにゆきたいのだと」

「……父君を」

「クレテス兄様を、ですか」

 旧友として。あるいは従兄妹として。あるいは仕えるべき主君として。その人物と過ごした思い出を共有する者達にとって、彼の名は、苦い思い出を伴って響くのである。

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