プロローグ:葬送
アガートラム城の奥、聖王伝説が語られたステンドグラスの天井から、陽光が差し込む聖堂で、幼い少女は泣いていた。目を真っ赤に腫らし、ふたつに結わいた金髪はほつれ、折角の
聖堂の扉は内側から固く閉ざされている。彼女はまだ片手で数えられる年齢であったが、鍵のかけ方はちゃんと知っていた。
向こう側からは、騎士達が必死に扉を叩いて呼びかけているのが聞こえる。
「イリス様、何をなさっているんですか! ここを開けてください!」
耳慣れた女騎士の声もする。少女は、この守役の言う事は、今まできちんと守ってきた。だが今日ばかりは、彼女に従う気はさらさら起きなかったのだ。
「イリス様!」
「やだっ!」
女騎士の声をかき消す勢いで、少女は反駁する。
「やだよ! 開けたら、とうさまをお墓に埋めちゃうんでしょ!?」
少女の背後、聖堂の中には、棺がひとつ、安置されていた。少女が誰よりも好きな、世界で一番好きな、父親が納められたものである。
少女がもっと幼かった頃、一羽の小鳥を拾った事があった。巣立ちに失敗したのを世話しようとしたのだが、野鳥は人の手から餌をもらおうとはしない。水も飲まず、日に日に衰弱して、ある朝、籠の中で動かなくなっていた。それでも、その小さな身体を揺さぶって何とか目を覚まさせようとした少女の手を、父は大きく温かい手で包み込んだ。
『この子はもう、死んだんだ。そんな事をしたら可哀想だろ』
『しんだ、って、なに?』
『この世を離れて、
ばるはら? と少女は小首を傾げて、手の中の冷たい小鳥を見下ろす。
『でも、この子はここにいるよ』
『魂だけ昇るんだよ。身体は置いていくんだ。だから、ちゃんと身体を休ませてあげないといけない』
きょとんと目をみはる娘を膝の上に座らせ、丁寧に、諭すように、語りかけてくれた、優しい父。
その父が、死んだというのだ。
少女はまだ、父親が戻ってくるのではないかと期待していた。もしかしたら、父の魂は天へ昇るのをやめて、戻ってくるかもしれない。
ところが周りの騎士達は、さっさと父の身体を棺に入れて、土に埋めようとしたのである。
地上に帰ってきた時、戻るべき身体が地面の下では、きっと父は困るではないか。思い詰めた少女は、聖堂に入り込み、兵士や司祭達が全員いなくなった隙に、扉にかんぬきをかけて立て籠もったのだ。
「お墓に埋めちゃったりなんてしたら、とうさま、本当にしんじゃうじゃない!」
寄ってたかって扉を叩く者達に向け、再度怒鳴りつけた時。
「イリス、開けなさい」
決して大きくはないが、凜と張った声に、少女はびくりと身をすくませた。それは、少女が父親と同じくらい大好きで、そして決して逆らう事のできない人物だ。
「ここを開けなさい」
騎士達がしんと静まり返る中、もう一度、有無を言わさぬ声がした。その声に引っ張られるように、のろのろとかんぬきに手を伸ばし、ことりと小さな音を立てて外す。やや重たい扉を両手で一生懸命押して開けば、目の前に、少女の母親の姿があった。
いつも綺麗で穏やかで強い、自慢の母が、少しやつれて見える。少女と同じ翠の瞳はちょっと腫れぼったくて、長い銀髪はいつもの艶を無くしている。母が自分以上に父の喪失を嘆いている事は、一目瞭然だった。
それでも、母は平静を装って無言で聖堂の中に入ってくると、少女の手を少し強い力で引き、祭壇の前まで連れてゆく。そして、閉じられた棺の蓋を、勢い良く外した。
少女は思わず息を止めた。あんなに優しくて力強かった父の、必要以上に青白い顔を目にして。
驚きで硬直してしまう少女の肩に、母がそっと手を置き、穏やかな声色で告げる。
「いい、イリス? お父様はね、皆の為に沢山沢山働いて、お疲れになったの」
「とうさま、つかれちゃったの?」
少女は潤んだままの瞳で、ひとつはなをすすり上げて、母の顔を見上げる。
「そう。だから、ゆっくりお休みさせてあげないと、可哀想でしょう?」
母の言う事はもっともだ。少女はうなずき、そして、それでも捨てきれない淡い期待を口にする。
「とうさま、また、起きてくれるかな?」
問いかけに、母親は、笑いそうなのか泣きそうなのか、とにかく顔をくしゃりと歪めた後、しっかりとうなずいてみせた。
「ええ。イリスが良い子にしていれば、いつかきっとね」
少女はまだ濡れた瞳を
「とうさま、おやすみなさい。またね」
その様子に、二人を遠巻きに見守る騎士達の間からも、嗚咽が洩れた。
だが、葬送を待たずに父は消えた。
酷く鮮やかな紅の記憶だけを、人々に遺して。
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