彼を好きだと言えたなら
萱野 耀
彼を好きだと言えたなら
彼を好きだと言えたなら、どんなに簡単だっただろう。
隣の人と肩がぶつかり合うような満員電車に乗って、寝不足でもないはずなのに怠くて仕方ない体を吊革一つで支えて出勤する。駅から会社までの道で同僚に「おはよう」と声をかけて、歩幅を合わせて歩いていく。仕事の邪魔にならないように可愛く結われた髪も、流行りを取り入れた服装も全部が完璧な同僚は皆の憧れで、そんな同僚と同期で気さくに話ができることを男性社員から羨ましがられることもあった。
「昨日何時まで残ってたの?」
「えー、10時くらいだったかな」
「いくら体力に自信があるって言っても、ちゃんと定時に帰りな?」
「効率悪いから仕事終わらないんだよ。自分の力不足だからさ」
「絶対回されてる量が多いんのよ。そっちの班長贔屓するので有名だもん。課長に相談した方がいいよ」
「うーん、相談ねぇ」
はっきりと意見が言えない自分とは反対に、同僚はズバスバと正論を重ねてくる。確かに大学時代陸上部にいたから自分の体力を過信しているところはあるし、業務量は同じ班の人より多い気がするけど、残業をすればこなせるからいつもつい受けてしまう。残業代はちゃんと出るし、早く家に帰っても独り身の自分は動画サイトでも見てだらだらする位しかすることがない。せめてお酒くらい飲めたら楽しいのだろうけど、生憎下戸ときている。
社屋に入る直前までそんな話をして、社内に入ったら口を噤む。ぎゅうぎゅうのエレベーターに乗って、就業開始5分前にタイムカードを打って、自分の席へ向かうと、昨日の夜にはまっさらにして帰ったはずの机上には新しい紙の束が置かれていた。
「おはようございます」
「おはよう。これ、何だか知ってる?」
「さっき班長が持ってきて置いて行きましたよ」
「またか」
折角今日は溜まっていた雑務に手がつけられると思っていたのに、また別の仕事が舞い込んできていた。朝一で吐きたくもない溜め息がつい漏れてしまう。隣の席の後輩はもうこっちのことなんて気にしていない様子で、コーヒーを啜りながら自分のパソコンを立ち上げていた。
「お前毎朝同じことやってない?仕事はちょっと残して帰るのが一番いいんだって、俺みたいにさ」
「ちょっとどころか山積みになってるそれは?」
「優先順位ってやつだろ」
「後で終わらなくなっても手伝わないから」
「そう言ってても必ず助けてくれるからなぁ」
「もう二度と助けない」
「まー、そう言わずに。飯はおごるからさ」
同じ班で前の席にいる同期の三島は、そう言って人懐っこい笑顔を向ける。いつもそれに絆されてしまう自分は、何度彼の尻拭いをしたかわからない。処理速度は遅くないのに、気分が乗らないとなかなかエンジンがかからないのが彼の短所だ。その証拠に好みの案件は誰よりも早く終わらせてしまう。淡々とむらなく仕事を進めたい自分とは真逆の性格だった。
こういう生き方ができたら自分も少しは気が抜けるのかもしれない。でも、神経質に育ってしまった自分を今更恨んでも仕方がない。デスクに投げ置かれた資料にパッと目を通して、まずはいったいどんな仕事を押し付けられたのか確認する。案の定内容は大したことがないのに、やることばかり多い案件で頭が痛くなった。着ていたジャケットを脱いで、椅子の背もたれに無造作にかけると、前から「皺になるぞ」と野次が飛んできた。
「安物だから」
「あれだけ残業してたら良い服が買えるだろ」
「どうせデスクワークで皺になるだけだし、セール品で十分」
衣服にも無頓着で、服装の規定がない会社に勤めたにも関わらず、コーディネートを考えるのも面倒で毎朝クローゼットから手にとるのは面白味のないスーツばかりだ。毎日スーツで出勤している社員は正直少ない。皆お洒落を楽しみたいのだろう。でも自分は、毎日のコーディネートに時間をかけるくらいなら、その分少しでも寝ていたい。しかもそのスーツですら店員さんにお願いして似合いそうなものを見繕ってもらっているのだから、お洒落をするなんて自分には考えられなかった。
方や三島は白のカットソーにネイビーのジャケット、チェックのパンツを合わせている。別に特段お洒落というわけではないけど、清潔感があって大衆受けは良さそうだった。実際大学ではバスケ部のエースだったという三島はイケメンというわけではないけど、仕事に集中しているときのキリッとした顔と高い身長が格好いいと、そこそこ女子社員に人気らしい。特に最近彼女と別れたらしいと噂が流れてからは、飲み会だ合コンだとよく声が掛かっている。ただ、本人は元カノに未練があるようで、この前の課の飲み会では酔っぱらって元カノの名前を連呼していて、隣にいる自分の方が気を使ってしまった。
「そう言えば、今日のミーティング16時からだけど、定時までに終わるのかね?」
「班長の気分次第じゃないですか?」
「あの人無駄話が多いんだよな」
「その言葉、ブーメランだから」
隣ではもうキーボードをカタカタと鳴らす音が聞こえているのに、まだ何もしていない三島に作業を進めるよう促すと、唇を突き出して不満そうな顔をされた。今日何か早く帰りたい予定があるのかもしれない。自分には無縁なことなので、飲み会や合コン以外に思い付くことはないけど、どうやらそういう感じでもなさそうだった。
「早く帰りたければ手を動かす」
「はいはい」
三島は面倒そうに返事をすると、今度こそ真剣な表情でパソコン画面に目を向けた。今手をつけている案件はきっと早く終わるだろう。自分も押し付けられた仕事をさっさと終わらせて、何とか溜まった雑務に手をつけたかった。「よし」と気合いを入れ直し、まずは受け取った資料にしっかりと目を通すことにした。
夕方のミーティングは予想通り定時に終わることはなかった。それでも、少しでも早く終わるように班長の言葉を遮ってみたり、下らない雑談を終わらせたりと、早く終えられるようアシストはしてみた。三島もそれには気づいていたようで、パソコンのシャットアウトの時間さえもどかしそうだったにもかかわらず、帰り際に「ありがとな」と言って、慌ててタイムカードを切って、走ってフロアを出ていった。自分はと言えば、押し付けられた仕事は終えたものの定時内に雑務にまでは手がつけられず、結局その日も9時近くまで残業をするはめになった。
次の日の朝、ほぼ同じルーティーンで出社すると、いつも自分より早く出社している三島の姿が見えなかった。後輩に「三島は?」と尋ねると、「欠勤の連絡が入ったそうです」と言われた。三島も体は丈夫だから、休むときは大抵プライベートの予定が入っているとき位で、急な欠勤は珍しい。しかも昨日あんなに元気そうだったのに、体調でも崩したのだろうかと心配になった。
勤務中ではあるもののスマホのメッセージアプリで『大丈夫?』とメッセージを送ろうとして、先にむこうからメッセージが来ていたことに漸く気が付いた。そこには『軽い胃腸炎にかかったっぽい。悪いんだけど、昨日仕上げた案件の確認と提出お願いしたい』とあって、安心したのも束の間、また余計な仕事が降って湧いてきたことに溜め息が漏れた。でも、今日はその溜め息を茶化す人間もいない。仕方なくデータの保存場所と確認項目をメッセージでやり取りして、最後に『お大事に』と送ってスマホを閉じた。
三島は軽い胃腸炎と言っていたけど、回復までに時間がかかっているのか、結局3日連続で休みを取り、そのまま土日になってしまった。独り暮らしで胃腸炎が続いたら食事も辛いだろうと思い『食べられてる?』とメッセージを送ると、すぐに既読がついて『あんまり。でも、食料が底を尽きた』と返ってきた。この土日は家で映画を見ようと思っていたこと以外自分に予定はない。酔った三島を自宅までタクシーで送ったこともあるから住んでいる場所も知っていた。週明けには元気に出勤してもらって、また下らないやり取りをしたい。そんな思いで『よければ食料届けるけど』と送ると、既読から暫く時間をおいて『それじゃぁ、お言葉に甘えて。何でもいいから食べられそうなものをお願いします』と返信があった。それを見てすぐに家を出られなかったのは、外に出る予定がなければ着替えないという自分の自堕落な生活のせいだった。
三島の住むアパートの最寄りの駅まで電車で移動し、駅前のスーパーで胃に優しそうなお粥やヨーグルトやフルーツの缶詰と、元気になったとき用にカップ麺をいくつか買った。アパートまで歩いている途中、普段の三島の話を聞く限り友達は多い方だろうに、プライベートで会うこともない同僚の自分がこんなことをしていることに可笑しくなって苦笑が漏れた。とんだ老婆心で、逆に迷惑でなければいいとすら思えた。
駅から歩いて15分以上するアパートは、駅から遠い分築浅なのに家賃が安いのだと以前三島が自慢していた。自分はなるべくキリギリまで家にいたいし、電車を降りたらすぐに家に帰りたいから家賃よりも駅近の物件を選んでいたから、全く真逆の考えだなと思ったのを覚えている。アパートに着いて、そう言えば何号室なのかは知らなかったと気付き、慌ててメッセージを送ったら、すぐに303号室で鍵も空いてると返ってきた。一瞬無用心だなと思ったけど、もしかしたらインターフォンに出るのも辛い状況なのかも知れないと思い直した。
念のためマスクをして、303号室のドアの前で一応インターフォンを押したけど、予想通り反応はなく、「お邪魔します」と言いながらそろそろとドアを開けて中に入った。玄関には脱ぎ捨てられた靴がバラバラに置かれていて、それを揃えて横に置いた後自分の靴を脱いだ。身長の高い三島の靴は大きくて、自分の靴がえらく小さく見えた。
恐らくワンルームの部屋は入ってすぐにドアが二つあって、トイレと洗面所だろうと推測できた。部屋のドアは閉まっていて、手前に小さな冷蔵庫とギリギリ料理ができる程度のコンロとシンクが備え付けられていた。中には使ったままの皿やコップがそのまま入れられていて、マスク越しにも不快な臭いが漂っていた。今すぐ洗ってしまいたい衝動に駆られながら、部屋のドアを開けると、ベッドの上で何もかけずにうつ伏せに寝ている三島が目に入った。テーブルの上にはカップ麺の容器がスープの入ったまま置いてあったり、空のペットボトルや缶ビールが床に転がったりしていた。
「胃腸炎じゃなかったわけだ?」
「あぁ」
「珍しいとは思ってたんだ」
「ちょっと色々あって」
「理由は聞かないけどさ。食事はとらないと」
「悪い。でも、家から出たくなくて、ちょっと友達にも連絡しづらくて」
「まぁ、食事ができるならいいけど。これ」
ベッドの上に持ってきたビニール袋を置くと、三島は手だけ伸ばしてそれを自分の元に引き寄せていた。枕に顔を埋めたまま話をする位だから酷い顔をしているのかもしれない。着替えた服が散らばっていないところを見ると、ろくにお風呂も入っていない様子だし、髭もかなり伸びてるのかもしれない。きっと顔を合わせたくないのだろうと思い、「ゴミ片付けて、お皿洗ったら帰るからさ」と伝え、目につくゴミを適当なビニール袋にザカザカと突っ込み、テーブルの上を綺麗に片付けて、シンクにカップ麺のスープを流して捨てた。大量の食器類は洗ったはいいものの置場所がわからなくて、仕方なくティッシュで拭いて狭い調理スペースに重ねて置いておいた。
「それじゃぁ、帰るから」
「ごめん。マジありがとう」
「何かよくわからないけど、気分切り替えて月曜には顔出して」
「うん」
同僚というより母親みたいだと感じたけど、それでも月曜日に三島が少しでも元気に出勤してくれればいいと思いながら部屋を後にした。滞在時間は1時間。帰りの道程は行きよりも何故だか足取りが重くなった。今日見ようと思っていた映画は明日に持ち越して、帰ったら今日はもうただダラダラして過ごそうと決め、コンビニでちょっと高いアイスを買って帰った。家についてスマホを見たら三島から『風呂に入った。マスクするほど臭かったならごめん』とメッセージが入っていて、つい誰もいない部屋で「そうじゃない!」と突っ込みを入れてしまった。『胃腸炎だって言ってたから着けただけ』と返し、その少し食い違ったやり取りがいつも通りな気がして、自然と笑みが漏れていた。
月曜日の朝、ドキドキしながら出勤すると、前の席には少しやつれた感じの三島が座っていた。こっちを見ると気まずそうな顔をして「おはよう」と言われ、自分は何事もなかったように「おはよう」と笑顔で答えた。
「頼まれてた案件はちゃんと確認して提出したけど、新しい仕事がドカドカ来てたからしっかりよろしく」
「俺病み上がりなんだけど」
「どの口が言ってるんだか」
「いや、この前は本当に助かったから、今度何か奢らせて」
「それなら回らないお寿司で手をうとうかな」
「旨くて安いとこ探しとく」
「高くて美味しいとこでいいけど?」
「給料前に無理」
三島が眉を下げて困った顔をするから「冗談だよ」と言って、自分もパソコンの電源を入れた。流石に3日も休めば仕事はたまっているし、三島はすでに真面目な顔でパソコンに向かっていた。もしかしたら本調子ではないのかもしれないけど、土曜日の姿を知っていると、こうして出て来られただけで十分な気がした。大抵の悩みは時間が解決してくれる。とはいえ自分はあまり物事で深く悩んだことはないのだけど。
その週の金曜日に、三島に「回らない寿司を奢ってやる」と夕飯に誘われた。会社から少し離れた場所にある寿司屋は、カウンターが5席、座敷に二人用と4人用のテーブルが置かれたこじんまりとした店だった。予約をしていたのかテーブル席に案内され、メニューを見ると確かに丁度いい価格帯だった。一貫ずつの注文もできるけど、話をしながらそれをすると忙しない気がして、店で一番高い一人前のセットを注文したら、三島に渋い顔をされた。わざと「メニューかぶった?」と聞けば、三島は「うるせーな」と言ってそれより少し安いセットを注文していた。
自分はお酒が飲めないから烏龍茶を、三島は店主お勧めの日本酒を頼んだ。注文した寿司もすぐに運ばれて来て、軽く乾杯の声を掛ける。食べる順番や作法なんてものは知らないから、取りあえず一番端にあったイカから口をつけた。三島も真似をするようにイカから食べていて、それが何だか可笑しくてふっと鼻息が漏れた。
「旨いだろ?」
「うん。こんな店知ってるなんて意外だわ」
「まぁ、先輩に聞いたんだけどさ」
「いつも質より量重視みたいなお店しか入らないのに、おかしいと思った」
「お前が回らない寿司とか言うからだろ」
「人命救助したんだけど?」
「いや、その節は大変ご迷惑をお掛けしました」
体の前で掌を合わせて深々と頭を下げられる。その間にもう一貫、今度は海老を口の中に放り込んだ。
「ちょっと前に彼女と別れたって話しただろ」
「してたね」
「でも俺は寄りを戻したくて、直接連絡したり、元カノの親友に探りをいれたりしてたんだよ。そうしたら先々週だったかな?元カノから急に、話したいことがあるって連絡が来てさ」
「それで?」
「いや、もうこれは俺の気持ちが通じたかと思って意気揚々と会いに行ったわけよ」
「あぁ、それがミーティングの日だったんだ」
「そう。それで待ち合わせした店に入ったら、元カノの横に大学時代の同期が座ってるわけ。もうこの時点で、おかしいなって感じはしてたんだけど、話があるって呼ばれたわけだし席に着いたんだよ」
よく回る口に相槌だけうっていると寿司を食べ損ねそうで、顔を正面に向けたまま一貫ずつ寿司を口に運んでいたら、いつの間にか皿の上は半分ほどになっていた。一方の三島はまだ最初に食べた1貫しか口にしていなくて、酒ばかりが減っていた。これは不味い流れだなと思いながらも、止まらない三島の話を仕方なく聞き続ける。
「そうしたら、開口一番子供ができて結婚するからもう連絡はしてこないでほしいって言うわけよ。まだ別れて2ヶ月なのにおかしくね?って話になるだろ」
「あー、そういうこと。かぶってたわけだ」
「もう何にショック受けてるのかわからなくなっちゃってさ。浮気で妊娠で連絡するなってどういうことだよってキレて店を出たんどけど、家に帰ったら頭も体も動かなくて」
「大ダメージだったと」
「誰かに相談しようにも元カノも相手も同じ部活の同期だしで友達にも連絡しづらくて、気付いたら翌朝でさ」
「そのまま引きずってたわけだ」
話し終えた三島は掌で目を覆い、涙を堪えているようだった。泣くくらいなら無理に話さなくてもよかったのに、三島もどこかで吐き出したかったのかもしれない。「取りあえず食べたら」と声を掛けると、鼻を啜ってお絞りで拭いた後、バクバクと寿司を食べ始めた。一緒に出された海老で出汁をとった味噌汁をグッと飲み干し、大きく息を吐く。
「でも、お前が来てくれてなんか吹っ切れたと言うか、仕事はやっぱり行かなきゃいけないよなと思って。そこから少し動けるようになった」
「仕事行かなきゃって、なんでそこ?」
「仕事とプライベートってコミュニティ違うから、仕事に行けばプライベートなんて関係ない、職場での俺でいられるみたいな感じがしたんだよ。お前の帰る背中見てたら、俺には違うコミュニティの仲間もいるしって思えたのも大きかったな」
「それは光栄だわ」
「当面彼女を作る気にはなれないからバリバリ働くよ」
「そうしたら残業代でいい服買えるよ」
「それはお前に必要なことだからな」
これを言ったら失礼かもとか、傷つけるかもというラインをうまくおさえてくる三島との掛け合いは面白いし楽しかった。寿司に加えて刺身まで注文して、帰る頃には予想通り三島はべろんべろんの状態になっていた。何とか会計したものの、店から出る足元は覚束ず、電車に乗せるのは心配で、仕方なくタクシーを拾った。店から三島のアパートまで行き、その後自分のアパートまで乗ったらタクシー代だけで今日の会計と同じ位になりそうで、結局こうなるのかと溜め息が出た。ただ、自分には特段お金を使うような趣味もないし、奢ってもらったことより、誘ってもらったことが嬉しかったから良しとすることにした。
二人でタクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げると、短い返事の後すぐに車は動き出した。三島はドアに寄りかかりながら、「お前って良い奴だよな」「何でモテないんでろうな」なんて余計なことをぶつぶつ言っていた。
大学4年のときに2年付き合った彼氏と別れてから、深い付き合いになった相手はいない。元彼は違う大学に通うバイト先の同僚で、別れたきっかけは将来についての考え方の違いだった。兎に角長く一緒にいられればいいと思っていた自分と、形に拘っていた元彼とでズレが大きくなっていって、就職を期に別れを告げられた。今は一生を独身で過ごす人も増えているし、結婚をするか否かとか、子どもを作るか否かとか、昔から聞かれてきた選択肢以上に、最近は多種多様な生き方が許されるようになってきている。そんな考えが滲み出ているのか、入社以降良い感じの雰囲気になった相手もいなかった。もちろん、好きな人がいない生活というのも味気ない気はしていて、誰かを好きになれたらいいのにとは思っていた。ただ、体を動かすことは好きだけど、誰かとつるんで遊ぶことは不得意な自分に、新しい出会いはなかなかなかった。
「俺のこと好きになってくれる人なんているのかなぁ」
「社内では評判いい方だと思うけど」
「それは知ってる」
「なんかムカつくなぁ」
「でも、俺のことよく知らない子の評判が良くてもさ。俺って二股かけられちゃうような男だし」
「自虐過ぎだから。もう少し自信もったら?」
少しだけ窓を開けて外の空気を入れたら酔いも覚めてきたのか、少しだけ会話が成立するようになった。でも、この様子だと明日どこまで記憶に残っているかは怪しい。しかも、タクシーのメーターは予想よりもどんどん上がっていて、最終的に寿司屋の会計より高くなりそうだった。
「タクシー代請求するから」
「そんなにかからないだろ?」
「自分のアパートに着いたらはい終わりって?こっちも終電終わっちゃったんだけど」
「なら、うちに泊まれば?」
「こう見えて綺麗好きなんで、あんな部屋では寝られないわ」
「はは、お前が女だったら彼女候補になったのになぁ」
「こっちにも選ぶ権利があるから。俺が女だったら元カノのことでうだうだしてる男なんて選ばないよ」
「きっついこというなぁ」
三島はそう言って笑うと、目を閉じて「でも、それもそうか」と呟いた。会話が途切れて、窓の外に意識を向ければもう少しで三島のアパートに着くところまで来ていた。
「早く吹っ切って新しい彼女作って見返してやれば?」
「できるかな」
「三島は良い奴だと思うよ」
「それ、イイ人止まりで本命にならない奴だろ?」
「そんなことないって」
励ますように肩を叩くと、三島はこちらを見て「へへっ」と照れたように笑った。タクシーがアパートに着いて、運転手にその場で待っててもらい、自分よりも大きな三島を抱えて部屋まで送り届ける。鍵を出させて上がった2回目の303号室は、一週間前よりも大分綺麗になっていた。シンクに洗い物が溜まっていることもなく、出しっ放しだった食器もどこかにしまわれていた。三島をベッドに放り投げ、「じゃぁ、また来週」と声を掛けると、「うーす」と手だけ上げて送り出された。デジャブだなと思いながら、一応「鍵かけてから寝な」と忠告してから部屋を出た。
タクシーに戻って自分のアパートの住所を運転手に伝えると、またも短い返事の後に車はゆっくりと走り出した。三島は大雑把なところはあるけど、気が合って話も合う。もし自分が女だったら本当に彼女候補になっていたかもしれない。でも、自分は男で、三島はストレートで、そこに恋愛感情が生まれることは決してない。
「俺が好きだって言えたら、こんな簡単なことないのにな······」
少し広くなった座席に深く座り、シャツの第一ボタンを外して体の力を抜く。スーツのジャケットは三島を抱えたせいで皺だらけになっていた。安物だと思うとどうしても扱いが雑になってしまう。三島の言うように、たまには高いスーツを買って、会社に着て行ってもいいかもしれない。もしそれがまた話の種になるなら安いものだし、好きな人のためにお洒落をすると考えれば、毎朝の服選びも少しは億劫ではなくなるかもしれない。そうしたら、ジャケットを掛けるために会社に置いておくハンガーも買ってしまおう。そう思って、アパートに着くまでの間、俺は通販サイトで型崩れしないハンガーの検索をしていた。
恋はこうして簡単に人を変えてしまうから恐ろしい。そして、好きだと言えないこの恋は、この先も大分扱いが難しそうだった。
彼を好きだと言えたなら 萱野 耀 @kayanoyou
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