美術館
大学生になってから、街で声をかけられたのをきっかけに、モデルを始めた。やってみると、私が今、大学で学んでいることよりも、モデルの仕事の方がはるかに香南の側にいられるような気がした。
モデルの仕事にヘアメイクは不可欠で、その手の職業のひとたちと接する機会はとにかく多い。彼らから私は様々なことを教わり、教わったあれこれを全て香南の髪でもって再現する。人に見られたり撮られたりすることに全く興味はないけれど、この手で香南の髪に触れるための技術や知識、そして口実を持てるなら、モデルという仕事も悪くはなかった。
思ったより私にはモデルとしての適性があったらしい。いつの間にか売れっ子扱いされていた。おかげで他のバイトはしなくて済んだ。その分、付き合いたくもない人間が近寄ってくることも多い。例えば、あたかも友人や仕事仲間のように振る舞ってくる、メイやモモみたいなひとたち。面倒で何も言わないのをいいことに、近頃ではうんざりするほど馴れ馴れしくなっている。
そう言えば、と唐突に思い出した。さっき、そのメイが、日向さんの名前、出してたっけ。
なんでそんなことを思い出したかと言えば、今、ミュージアムショップの前でうつむき加減に何かを見ている男性が、日向さんにそっくりだからだ。まだ展示室から出てこない香南を待つ間、目に止まった。他人の空似だろうけれど、本当によく似ている。そう思っていたら、
「あれ? もしかして結妃ちゃん?」
顔をあげたそのひとが、驚いたように声をかけてきた。
「え? なんで日向さん、こんなところに?」
「それは僕のセリフ。これでも仕事だからね」
横に置いてあるカメラバッグを指差して、日向さんが笑顔を見せた。四十前の独身だと聞いているけれど、三十そこそこにしか見えない若々しさとイケメンぶり、それこそ超がつく売れっ子なのに気さくで話しやすいひとだ。
「仕事、って何ですか?」
「今度の『MELSSIA』の特集とイベントの下見と打ち合わせ。ここ、会場のひとつだよ?」
「ああ、そう言えばそんな話、ちらっと聞いたような気が」
「結妃ちゃんってそういうことにちっとも興味見せないよねえ。そういう子、ほんと珍しい」
「そうですか? そんなに珍しいですかね?」
私の言葉に日向さんは目を細めた。
「だって、僕のところにまで売り込みに来る子、ざらにいるよ? そう言えばこの前、結妃ちゃんと友だちだって言ってきた子がいたなあ」
「……それ、鮎川メイ、って名前じゃありませんでしたか?」
「ごめん。名前まではさすがに覚えてられない」
あ、でもそんなこと言ったら、それこそ結妃ちゃんと変わらなくなっちゃうね。そう言って日向さんはおかしそうに笑った。
後ろから服の裾がわずかに引っ張られた。振り返ると香南が上目遣いで立っている。
「だぁれ?」
口の形だけで問うてきた。
「あ、日向さん。高校からの友人です」
そう言って香南の手を取り、有無を言わさず横に並ばせる。
「香南、このひとは日向さんって言って、ファッションの世界ではかなり有名なカメラマンさんなの」
「かなり、は余計だよ」
茶化すように言いながら日向さんは私たちの前に立つと、
「はじめまして。結妃ちゃんの専属カメラマンに雇ってもらいたい、日向、です。よろしくね」
カメラマン特有の人たらしな笑顔を浮かべて香南に名刺を手渡した。
「あ。日向さん、私にも名刺ください」
「ええ? だって結妃ちゃん、持ってるでしょ?」
「持ってないです、多分。それにダブったっていいでしょう?」
「いいけどさ。絶対持ってると思うよ。僕、渡した記憶あるもの」
「そういうのはいちいち覚えてるんですか?」
「だって可愛い女の子にはこんな風に全員に渡してるから」
「それって覚えてるとは言わないでしょう」
ははは。日向さんが乾いた声で笑う。香南は黙って手元の名刺を見つめている。
「それにしても、私の専属カメラマンって。どこからそんな言葉、出てくるんですか? そんなのじゃ到底食べてなんかいけませんけど?」
「そりゃあ、今はね。でもさ、結妃ちゃんなら本気になればいい線行くと思うんだけどな」
僕の見立てってこれで結構、当たるんだよ? そう言うと、日向さんは香南に目を向け、言った。
「そんな結妃ちゃんのお友達だもの、良かったら一枚でいいから写真、撮らせてもらえないかな?」
口調は変わらないのに、嫌とは言わせないような押しの強さを急に感じて、思わず日向さんを見つめ直した。
笑顔はそのままに、目だけがさっきまでと違って見えた。餌を見つけた猛禽類のようで、香南の描く線にどこか似て見えて、私は慌てて瞬きする。
香南はミュージアムショップに現れた時からずっと黙ったままだ。黙ったまま日向さんのことを凝視している。手の中の名刺はいつの間にかどこかに消えている。
「せっかくだから、一枚だけでも撮ってもらったら? 日向さんに撮ってもらえるひとってモデルでも多くないんだよ? お金払って撮ってもらうコンポジットだって、滅多に受けてもらえないくらいだし」
妙な居心地の悪さについ余計なことを口走ってしまった。まあまあ、と日向さんが苦笑いを浮かべる。
「そんな野暮な話はしないでよ。今は仕事で口説いてるんじゃなくって、ただ純粋に撮りたいってだけなんだから」
「……分かりました」
すぐ横で、小さいけれど、きっぱりとした声が聞こえた。
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