デッサン
初めて部活で香南と会った時の印象はほとんど残ってない。だけど、あの日。クラスの雑用を頼まれたせいで、ずいぶんと遅れて美術室に顔を出した、5月もまだ半ばを過ぎたばかりの、あの夕方。
窓側に置いたイーゼルに向かって、鉛筆を握った香南が立っていた。窓から差し込む西日が辺りを柔らかく染めていた。
西日が当たった香南の髪は柔らかくきれいな栗色をしていて、そのまま光に溶け込んで緩やかに流れ出していく。せせらぎのような髪が流れ流れて、そうして香南の手を通して紙の上に溢れて渦巻いていた。
それはもう、びっくりしたなんてもんじゃなかった。あんなにも穏やかで優しい流れが、流れ込んだ紙の上でそれはそれは激しい交情を見せていたのだから。
あんな絵、生まれて初めて見た。それまでの私が知っていた絵は、もっときれいだったり優しかったり強かったり正しかったりした。香南の描く絵は、それのどれとも全く似ていなかった。
香南の絵は、激しくて、切なくて、脆くて、何よりざわざわするくらい艶めかしかった。艶めかしい線がぐちゃぐちゃに絡まってもつれて喘いでべたべたと汗を流していた。
なんで、って思った。なんでこんなにも柔らかく優しい髪から流れて生まれてくる線が、どうして? どうしてこんなふうになるんだろう。見ていても全然分からなくて、あまりの不思議さに思わず近寄って、右手は香南の髪を、左手は絵の上を、しらずしらずのうちに同時に撫で回していた。
触られた香南の、あの時の顔といったらなかった。口をぽうっと開けながら、くりくりとした目が下に落ちるんじゃないかって思うくらい瞬きを繰り返して、そうして小さい声で言ったのだ。
「どうして?」
どうして? って私も思ってたから、
「どうしてだろう?」
ってそのまま言葉にした。ねえ、ほんとにどうしてだと思う? そう囁いたら、
「ねえ?」
困ったような、でも、不思議と嬉しそうにも見える顔をして、首を傾げた。
それまで私たちは、どこの中学出身かとか、中学も美術部だったかとか、何組かとか、部活の先輩のこととか、そういう話しかしてなかった。
悪いけどそんな話、ろくに覚えてない。覚える気もなかった。香南に無関心だった訳じゃない。そういう話に興味がないだけで、香南のことは数少ない同級生部員のひとりとしてちゃんと覚えてたし、気にかけてもいた。
それもこれも全部、一発で吹っ飛ばされた。
香南の描く、線と絵に。
あんな絵を描くひとがよく美大に受かったと思う。
これはふざけて言ってるんじゃない。バカにしてる訳でもない。本心からそう思ってるだけだ。
試験に受かる絵、っていうのがある。上手い下手じゃない。優等生というのか、八方美人というのか。なんというか、まあ、いわゆるそつのない絵だ。
香南の絵はそういうのとは全然違う。どころか、何を描きたいんだか分からない、とまで予備校で言われたこともある。
その言葉を聞いた時、「何、それ」と憤慨してしまった。当の香南はいつもの困ったような顔をして首を傾げているだけだった。
「ちょっと文句言ってくる」
香南のそんな顔を見ていたら余計、熱くなって、つい口をついて出た私の言葉に
「いいよ。そんなことしなくって。だって何、言われたって、私、こういう絵しか描けないんだもん」
怒るでもなく悲しむでもなく、ちょっとばかり可笑しい話でもするみたいに香南は言った。
「言われた通りに描かなきゃ受からないんだったら、それはそれで仕方ないよ。そういう絵を描けたとしても、それはきっともう私じゃなくてそう描けって言ったひとの絵になるから、やっぱり私にはそういう絵は描けないし」
私が受けたのは、美大の中では数少ない筆記試験重視の学科だった。デッサンが得意でない私でも、筆記試験で手堅く点を稼ぎ、努力してそういう絵を描いたおかげか、無事受かった。
対して香南の希望学科は、倍率はそれほど高くないけれど実技重視、正統派の絵が好まれると言われていた。そういうところを受けるにあたって香南の絵に不安を覚えていたのは、部活の顧問も予備校の講師たちも同じだったはずだ。もちろん私も。
それでも香南の絵は変わらなかった。私たちにとってのデッサンは部活動だけでなく受験勉強のひとつでもあったから、入部当初から意識してかなりの数を描いてきていた。その分だけ確実にうまくなった自覚はあるし、それは香南も同じだろう。実際、初めて見た時の衝撃はそのままに、香南の絵は枚数を重ねる毎に洗練され、美しくなった。それでもあの線だけは変わらなかったし、今も変わらない。汗を滴らせながら耳元で吐息を漏らし、もつれ、ねっとりとどこまでも絡みついてくる、あの線だけは。
容姿も性格も可憐なすずらんのような彼女のどこに、こんな線を生み出す場所が隠されているのだろうといつも不思議に思う。そうして私の考えは決まって最後にここに行き着く。もしも香南の線が生まれる特別な場所があるとするなら、それはきっと彼女の髪に違いない、と。
我ながら全くバカげた考えだと思う。だって、なんで髪からあの線が生まれるのか、問われたとしても自分でも分からない。答えられない。それでもあの日、あの絵を見た時の香南の髪、それが私の心を縛って、そうしてそれからの私はずっと香南にきつく結びつけられたまま離れられない。このまま一生、香南の髪を触り続けていられたらと思うほどに強く。触れてさえいれば、いつかきっとあの線に届く気がするから。うっとりと心狂わせる、あの線に。
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