敗走

「あれは死んだな……」


 天を貫く光に飲み込まれ、白い竜が消滅したのを見届けたヴァンピールは、そそくさとテムズ川の堤防を降りた。川にはボートが浮かんでいる。迷うことなく乗り込んだ。


 敵前逃亡である。最後の大隊の怪異憑きとはいえ、そもそもヴァンピールはドイツ本土決戦で徴兵された一般兵である。死ぬまで付き合うような義理は持ち合わせていなかった。

 嫌々軍隊に連れてこられたと思ったらよくわからない新兵器を持たされ、命令通りに戦っていたらオカルト部隊に組み込まれ、戦争は終わったのにあの子供と女博士の徹底抗戦に巻き込まれ、恐ろしく退屈な70年を過ごす羽目になった。


 しかも、いざ本番と外に出て、グリムギルドと戦ってみたら、相手はファンタジーに出てくるような超人ばかりだ。クマ人間、悪魔、怪力バカ人間。夜目が利いて銃を持っているヴァンピールでは荷が重いどころの騒ぎではない。ヴァンピールの忠誠心はどん底であった。

 そこにイギリスの対怪異組織MI6までやってきた。あと、チェーンソーのプロとかいう変なのもいるらしい。ロンドン塔に敵が攻め込み、聖アンティゴノスの第二騎士団が壊滅したのを見て、ヴァンピールは遂に退職を決意した。


 ボートに乗り込み、エンジンを掛け、マニュアルを読みながら出発の手順を進めていると、頭上から声が掛かった。


「おーい! おーい、ちょっと待ってくれ!」

「うわあっ!?」


 敵か。ヴァンピールは慌ててマニュアルを置き、銃を手に取る。


「待て! 待て待て落ち着け!」


 現れたのは、パーカーを羽織ったドルイドの男、メルヴィンであった。

 ホッとしかけたヴァンピールだったが、脱走中だったことを思い出し、気を引き締める。


「何の用だ!?」

「脱走するんだろ!? 乗せてくれねえか!?」

「はぁ!? 敵前逃亡は銃殺刑だぞ!」

「鏡見ろ鏡」

「……吸血鬼は鏡に写らん!」


 確かにそうだが、ヴァンピールはただの兵士のため、鏡には普通に写る。


「いくら金があったって、命あっての物種だ! っていうか無茶な戦いには付き合えねえ!

 乗車賃なら払うからさ、乗せてってくれ!」


 メルヴィンは背負っていたリュックに手を突っ込んだ。出てきたのは大粒の宝石がついたネックレス、指輪、ペンダントなどの豪奢な装飾品だ。


「おっ、わ、わぁ……」


 ヴァンピールは思わず変な声を上げてしまった。


「えっ、どっ、どこにあった?」

「ロンドン塔の中にあったんだよ。イギリス王室の宝石がさぁ。見ろよ、このドでかいダイヤモンド。億いくぜ億」


 更にメルヴィンはリュックの中から大粒のダイヤモンドを取り出した。精緻なカットが施され、陽光を浴びて輝いている。宝石とはここまできらびやかになるものなのか、とヴァンピールは感嘆した。


「で、どうする? 早く逃げないと追手に見つかるかもしれないぞ?」

「わ、わかった! 早く乗れ!」


 宝石に圧倒されていたヴァンピールは、思わずメルヴィンを船に乗せてしまった。ヴァンピールがスロットルを入れると、ボートはテムズ川の河口を目指して進み始めた。


「い、いいのか……? そんなにたくさん、宝石を持ってきて」

「いいんだよ。退職金だ、退職金」


 手にしているのはナチスドイツの資金ではなくイギリス王室の財産なので、退職金には当てはまらないのだが、メルヴィンは些細なことを気にしない。

 それにツッコむべきヴァンピールもまた、別の事に気を取られていた。


「退職金……」

「おう」

「俺、給料もらってない」

「おう?」

「70年間、一度も!」

「なんだってぇ……?」


 最後の大隊は怪異の軍団だ。この70年間、外との折衝を行う部門は別として、基本的に配給制でやっている。給料なんて文化的なものは忘れ去られていた。

 脱走したヴァンピールは、自分が受け取るべき労働の対価の存在を、ようやく思い出した。


「ふざけるなあいつら! タダ働きさせやがって! こっちは命懸けだったんだぞ! ふざけるな!」

「いや本当に最悪だな!」

「給料だ! 給料をよこせ! 一括で!」

「退職金も忘れるな!」

「そうだ! 退職金だ! 退職金も一括だ!」


 喚き散らしていたヴァンピールだったが、不意に静かになった。


「どうした?」

「今思い出したんだけどさ。ポーランドにさ、あるんだよ」

「何が?」

「カネ!」

「ほう! いくらくらいだ?」


 するとヴァンピールは真剣な顔で考え込んだ。少し経ってから、メルヴィンに問い掛ける。


「列車いっぱいの金銀財宝って、いくらくらいになるんだ?」

「……列車の大きさにもよるが、一生遊んで暮らせるのは間違いないな」

「10両編成でも?」

「一生どころか十生遊んで暮らせるな」


 またしても真剣な顔で考え込むヴァンピール。気になったメルヴィンは質問した。


「心当たりが?」

「ポーランドに黄金列車が埋まってる。ヨーロッパ中から略奪してきた金銀財宝を詰め込んだ列車だ。ナチスドイツの都市伝説の一つで、俺たちの資金源なんだ」

「おいおい……」

「普段は厳重に守ってるんだけど、今回の作戦は総力戦だから、ほとんど誰もいないはずなんだ」

「おいおいおい……!」

「自主的に貰ってっていいかなぁ、退職金!?」

「俺が許す! 何なら給料と年金も取りに行け!」

「うおおおおっ! 待ってろよ退職金! いざ、ポーランドへ!」


 男2人の野望を乗せて、ボートはテムズ川の河口を経てドーバー海峡へと飛び出していった。



――



「ダグラスが討たれただと!?」


 ロンドン塔中枢、ホワイトタワー内部、聖ヨハネ礼拝堂。

 ここで指揮を取る『腕章の少年』ウェルフンドは、部下から報告を聞いて顔を青くした。


「ふざけんなよ……! あれだけ自信満々に言っておいて、あっさりやられたのか!?」


 ダグラスと第二騎士団が討たれたとなれば、もう侵入者を止められるものはいない。このままでは敵が雪崩を打って礼拝堂に駆け込んでくるだろう。


「フランケンシュタインに通信を繋げ!」


 ウェルフンドはすぐに、フランケンシュタインが操るミドガルドシュランゲを呼び戻すことに決めた。トレビュシェットに構っている場合ではない。とにかく身を守らないといけない。

 すぐにゾンボットが通信機を持ってきた。受話器を取ってしばらく待つと、回線がつながった。


《もしもし》

「フランケンシュタインか!? すぐに戻ってこい! ダグラスがやられた、守りを……」

《わたし、メリーさん。今、ロンドン塔の門の前にいるの》

「……え?」


 ウェルフンドが聞き返す前に通信が切れた。

 しばらく凍りついていたウェルフンドだったが、近くをゾンボットが通り過ぎたのをきっかけに我に返った。慌てて通信機を操作し、フランケンシュタインの周波数であることを確認して、もう一度回線をつなげる。


「もしもし、フランケンシュタインか!? すぐに戻ってこい!」

《わたし、メリーさん。今、ホワイトタワーの前にいるの》

「何故だ!?」


 ウェルフンドに悲鳴には答えず、無情にも通信は切れた。異様な状況にガタガタと震えながら、それでもウェルフンドは考える。

 恐らく通信妨害だ。何らかの手段でこちらの通信に割り込んで、救援を遅らせないようにしている。

 相手はメリーさんと名乗っていた。日本でウェルフンドに屈辱を味わわせた、あの忌々しい『屠殺ごっこ』で間違いないだろう。

 そして、最初はロンドン塔の城門前に、二度目はホワイトタワーの前にいる。徐々に近付いてきている。

 何故? 決まっている。


「お前たち! この場所を死守しろ! 絶対に、誰も通すんじゃないぞ!」


 残る僅かなイヌモドキとゾンボットに厳命すると、ウェルフンドは席を立ち上がった。義足を引きずり、礼拝堂の奥へ向かう。

 そこには地下に続く通路が隠されていた。外につながる緊急用の脱出路だ。恐らくこのロンドン塔が城塞として建設されたころ、国王の要望で作られたものだろう。


「こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったんだ……」


 真っ暗な地下道を懐中電灯で照らしながら、ウェルフンドは一人進む。口からは知らずのうちにうめき声が漏れていた。


「ダグラスも、ヴァンピールも、フランケンシュタインも、どいつもこいつも使えなかった! ちゃんと仕事を振って任せたのに、どいつもこいつも口先ばかりの無能だったんだ! こんなので勝てるわけがないじゃないか!」


 部下の能力を把握することは指揮官の第一の仕事なのだが、ウェルフンドはそんな事に思い当たりもしなかった。彼はイヌモドキを操る怪異であり、能力を完璧に把握して、自分の命令通りに動く部下しか持ったことが無かったため、本当の指揮というものを取ったことがなかった。


 暗闇を進むウェルフンドだったが、自分の胸ポケットが不意に震えて飛び上がった。それから、懐に忍ばせておいた秘密の通信機の存在を思い出し、ホッと胸を撫で下ろす。

 この通信機は作戦を始める前に最後の大隊の大隊長から直々に預かったものだ。そこに通信が来たということは、何かを察知した大隊長が連絡してきたのだろう。


 周囲を闇に囲まれたウェルフンドだが、急に光明が差し込んできたように思えた。大隊長が援軍を率いて駆けつけているのかもしれない。敵がどれだけ強かろうと、大隊長の手にかかればゴミクズ同然だ。ロンドンも間もなく灰燼に帰すだろう。

 期待を胸に、ウェルフンドは通信機を取り出す。


「こちらウェルフンド! 閣下、お聞きください、ロンドン塔は今――」

《わたし、メリーさん》


 さっきと同じ少女の声が聞こえた。


《今、ヨハネ礼拝堂にいるの》

「ひっ、ひぃぃっ!?」


 ウェルフンドは通信機を投げ捨てて走り出した。訳がわからない。自分と大隊長しか知らない通信回線に、どうしてメリーさんが? 礼拝堂にいるということは、もうすぐそこまで迫っている! 守備隊は何をしていた!? 死守しろといったのに、その程度もできないのかアイツらは!

 恐怖、混乱、憤怒、様々な感情を悲鳴として吐き出しながら、ウェルフンドは地下通路を走る。しかし、義足が地面のへこみに引っかかり、盛大に転んでしまった。その拍子に懐中電灯を手放してしまう。懐中電灯は地面を転がった拍子に光を消してしまった。


 途端に、ウェルフンドの視界が闇に包まれる。


「やっ、待って! ちょっと、待ってそんな!?」


 見えない何かに許しを乞いながら、ウェルフンドは手探りで懐中電灯を探す。何度か壁に手をぶつけながらも、どうにか懐中電灯を探り当てた。

 よかった、と胸を撫で下ろすウェルフンド。だが、悲鳴を上げるのを終えた彼の耳に、別の異音が届いた。


 チェーンソーのエンジン音だ。


「わたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」

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