バフォメット
テムズ川を擁するロンドンは長い歴史の中で何度も水害に遭ってきた。川の氾濫や洪水などの被害も多いが、最も危険視されたのは高潮だ。ドーバー海峡が荒れれば高波が容赦なくロンドンを浚う。
それを防ぐために、テムズ川の下流域には防潮堤が設置されている。高潮の予報があればゲートが閉じられ、川を遡ってロンドンへ流れ込む海水を防いでくれる。
このゲートは『テムズ・バリア』と呼ばれ、ロンドンの名所の一つになっている。付近には公園もあり、人々の憩いの場としても親しまれていた。
テムズ・バリアは現在閉鎖されている。ロンドンが『赤い竜』の影響を受けて地盤沈下を起こしているためだ。
普段より海抜が低くなったロンドンにとっては、些細な潮の変化も致命傷である。もしもテムズ・バリアが無かったら、今頃ロンドンの中心部に大量の海水が流れ込み、大惨事が起きていただろう。
逆に言えば、この防潮堤を破壊できれば、ロンドンを水没させることができる。
「爆薬セットしました」
「よし。次に行くぞ」
6つに分かれたテムズ・バリアの各ゲートをつなぐ橋の上を、4人の男たちが走っていた。
彼らは聖アンティゴノス教会第二騎士団の一部隊であった。だが、ロンドン塔を巡る攻防には見ての通り参加していない。そもそもここは異界のエルダーロンドンではない。現世の、21世紀の町並みが並ぶロンドンだ。
彼らに課せられた任務は、このテムズ・バリアを破壊することだった。
グリムギルドとMI6はほぼ全戦力を異界のロンドン塔に集結させており、このサブプランに気付くことができなかった。怪異を交えたテロに慣れているからこそ、純然たる破壊行為は却って盲点になってしまう。
そのため聖アンティゴノス教会の破壊工作部隊は誰にも気付かれずにテムズ・バリアに侵入し、爆弾を仕掛けることができた。
5つ目のゲートに爆弾を仕掛けている時、男のうちの1人がポケットからスマートフォンを取り出した。震えている。着信だ。手早くタップし、通話アプリを起動あっせる。
「もしもし? ああ。……なんだと?
……わかった。こちらも急ごう」
手短に通話を終えた後、男は厳かに言った。
「団長が討たれた」
周りの騎士たちが動きを止めた。爆弾を設置するという危険な作業だということすら、一瞬忘れていた。
「それじゃあ、ロンドン塔は……」
「
声にならない呻き声が漏れる。歯を食いしばり、怒声を堪えている者もいる。
「泣くなよ。涙はテムズ川を遡る波で洗い流せ」
リーダー格の男はそう言い聞かせると、一瞬だけ目を閉じた。
「設置、しました」
「行くぞ」
地下通路を潜り、階段を上って橋の上に出る。すぐ目の前にあるのがテムズ・バリアの6番目のゲートだ。
ここに爆弾を仕掛ければ準備完了だ。全ての爆弾を一斉に爆破すれば、川を分断する鋼鉄の水門は破壊され、高潮がロンドンに襲いかかる。
「行ってきます!」
「急げよ」
騎士の一人がプラスチック爆弾を抱えて水門へ駆け寄る。残りの騎士たちは武器を構えて周囲を警戒する。
ここは異界ではなく、現世だ。怪異よりも人間の敵を想定しなければならない。今のところ誰にも会っていないが、巡回の警備員に出くわしたら排除しなければならない。コンテナの影、港の入口に続く道、妨害者はどこから出てくるか。
「ぐあっ!?」
後ろから悲鳴。振り返ると、爆弾を設置しようとしていた騎士が倒れていた。その背中には巨大な刃が突き刺さっていた。
「いやはや、ギリギリ。
刃を手にしているのは、頭からヤギの角を生やした女。
グリムギルドの怪異憑き『オオカミと七匹の子ヤギ』のノーラだった。
「バスティオン!」
「あいつ、どこから!?」
「……上からか! 飛んできたな!?」
ノーラの背中には、ヤギには存在するはずのない巨大なコウモリの翼が生えていた。
「ジョンソン氏が自分ならこうする、とおっしゃっていましたが、まさか本当に防波堤を狙ってくるとは。
これが成功したら何十万人死ぬのかわかっているのですか? 聖職者とは思えぬ所業ですねえ」
騎士の背中から刃を引き抜いたノーラは、反対側の手に持った刃と交差させる。ハサミだ。残りの騎士たちも裁断しようと、一歩踏み出す。
直後、無数の銃弾がノーラの体を穿った。
悲鳴を上げることもできず、全身に穴を空けたノーラの体が、ぐしゃり、と地面に倒れる。
「何の怪異憑きだったか知らないが、ここは現世だ。異界のように自由にはできん」
リーダー格の男が構えているのは
加えて発射した弾丸は、聖句を刻み込み祝福を与え聖水に漬け込んだ特別製の退魔弾だ。並の怪異なら一発で祓われる。異界にしか存在できない、あるいは自ら異界を作り出すほどの強大な怪異なら話は別だが、現世なら関係はない。
「すぐに爆弾を回収して……いや、待て」
男は急いではいたが、焦ってはいなかった。故に、倒れたノーラの死体から血が流れていない事に気付くことができた。
「……幻術か?」
「何がです?」
「血が出ていない」
騎士たちは表情を引き締め、上下左右に警戒を向ける。新手の気配は無いが、異常は目の前にある。
「いやぁ、他には何もありゃしませんとも」
死体が口を開いた。騎士たちは迷いなく引き金を引き、死体に更なる弾痕を空ける。
「わかっちゃいましたが、乱暴な方々だ。主も天上で泣いておられるでしょう」
「聖なるかな、聖なるかな。
騎士の一人が聖句を叫ぶ。光の鎖が死体を絡め取る。幻術だろうと怪異だろうと、身動きが取れなくなるはずだ。
「的外れ」
しかし死体は光の鎖を引きちぎった。
「なっ!?」
「この期に及んで、まだ何と戦っているのかわからないとは……聖アンティゴノス騎士団も堕ちたもの。テンプル騎士団を滅ぼした時の威勢は忘れてきたと見える」
死体が立ち上がる。体に空いた無数の弾痕がひとりでに塞がっていく。頭の山羊角はひとまわり大きくなり、背中の羽は禍々しくはばたく。ヤギの瞳孔を備えた瞳は金色に輝き、口の端からは赤い炎が這い出る。
だが、姿形は問題ではない。その身に纏う気配と比べれば。
格が違う。人間と同じ視座にいるものではない。根本的に上位の存在。歴戦の騎士でなければ、即座に這いつくばって赦しを乞いただろう。
それを呼び表す名は、『神』、あるいは――。
「……まさか、
「
「全兵装の使用を許可する! ありったけの火力を叩き込め!」
騒然とする騎士たちに向かって、山羊の悪魔はハサミを構えて吠えた。
「めええ」
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