冬の花
突如現れた筋肉の神は、物凄い勢いで河童を薙ぎ倒していった。
河童たちも無抵抗だった訳ではない。数匹がかりで相撲仕込みのタックルを行い、筋肉の神を倒そうとした。しかし、齢千年の大樹の如き足筋は、上手を取っても微塵も揺らがなかった。
そして筋肉の神は河童を一匹ずつ丁寧に絞め落としていった。アナコンダの如き上腕二頭筋に襲いかかられては、河童に抵抗する術はなかった。
全ての河童を気絶させた筋肉の神は、工場に置いてあった鉄の鎖を何本か手にすると、悠々と外に出ていった。
後に残されたのは、車内の雁金とメリーさんである。何が何だかわからないけどとりあえず助かった。
「なんだったの……?」
「まっする……?」
どうしてこうなった。2人とも筋肉に呆気にとられている。最初に近付いてきた警官のことを2人ともすっかり忘れていたが、既に警官は恐れをなして逃げ出していたので問題なかった。
しばらくすると、工場に誰かが入ってきた。さっき出ていった筋肉よりは小さいが、それでも大柄な体格だ。血塗れの作業着に身を包み、ヘルメットとマスクで顔を完全にガードしている。何やらケガをしているようで、壁に手を付きよろよろと歩いている。
彼は工場の中ほどまで来ると、マスクとヘルメットを脱ぎ捨てた。
「先輩!?」
マスクの下から出てきたのは、獣のような人相。鼻血に塗れた大鋸翡翠だった。チェーンソーを持っていなかったので、雁金は気付くまで時間がかかった。メリーさんも顔を見るまでわからなかったようだ。
マスクを投げ捨てた翡翠は、ふらふらとした足取りで車の方へ向かってくる。雁金は身を強張らせた。さっきまでの暴れっぷりを考えると、翡翠が何をするのかわからない。もしも、こちらに暴力を振るってくるような事があれば――足を撃てば、止まるだろうか。
考えている間に、翡翠はドアを開けて車の中に入ってきた。雁金にもメリーさんにも一瞥もくれず、ハンドルに寄りかかってぐったりとしている。鼻から流れた血が、ボタボタとマットに垂れる。
「なんなんだ……どうなってんだ、あの筋肉は。チクショウ……」
ハンドルから顔を上げずに、翡翠はブツブツと呟いている。雁金たちに危害を加えるような気配はない。さっきよりは落ち着いているようだった。
「あのう、先輩、大丈夫ですか?」
「大体あいつ、山にいるんじゃなかったのかよ……こんな所に出てきやがって。意味わかんねえ……」
雁金が恐る恐る声をかけるが、翡翠は全く聞いていない。独り言を呟くばかりだ。鼻血は止まらないし、時折痛そうに顔をしかめるので、だんだん心配になってきた。
「先輩、怪我してるんですか、ひょっとして……」
「よおし!」
突然、翡翠がハンドルを叩いた。肩を震わせる雁金とメリーさん。そんな2人を気にも留めず、翡翠はギアをドライブに入れると、車を発進させた。
「コイツをぶつけてやる……!」
歯を剥き出しにして翡翠は嗤った。
「メリーさん、シートベルト!」
「う、うんっ!」
いつも以上に凶悪な顔に嫌な予感を覚えた雁金は、乱暴なハンドルさばきに揺られながらシートベルトを締めた。メリーさんもそれに習う。
車は工場を飛び出した。ハイパワーエンジンの4WDが爆進する。進路上にいた不運な怪異たちがタイヤに押し潰され、あるいはバンパーに弾き飛ばされる。時速60kmオーバーで移動する総重量2.5tの鉄の塊を止められるものなど存在しない。それは筋肉の神とて例外ではない。
「死ねえええっ!」
ポージングを決める筋肉の神を進路上に収めると、翡翠はギアを切り替え、アクセルを踏み込んだ。エンジンが唸りを上げ、雁金たちが座席に押し付けられるほどの加速を生み出す。80,90,ついに車は時速100kmへ到達。その時点で、筋肉の神との距離がゼロになった。
シートベルトに締め付けられながら、雁金は車がバラバラになるのではないかと思った。幸い、そうはならなかった。筋肉の神は車に弾き飛ばされ、上空に吹き飛んでいった。車はその下を走り抜ける。
翡翠が不安げに後ろを振り返った。雁金も釣られて後ろを見る。リアウィンドウの向こうでは、轢き飛ばされた筋肉の神が、今まさに落下する所だった。
筋肉の神は受け身を取らず、足裏から着地。両膝を折り曲げ、更に片膝を接地する。同時に上体を前屈させ、両手も地面につける。
つまり、クラウチングスタートの姿勢であった。
筋肉の神が顔を上げる。大腿筋と足筋の収縮が解放され、爪先が地面を蹴る。アスファルトが吹き飛び、反作用で筋肉の神が前方に射出される。すぐさま反対側の足が繰り出され、神の肉体を加速させる。
「ウオオオアアア!?」
思いっきり轢き飛ばしたのに平然と走って追いかけてくる筋肉に、翡翠は悲鳴を上げた。
「びゃあああああ!?」
遅れて振り返ったメリーさんが、迫りくるマッスルボディを見つけてこれまた悲鳴を上げた。
翡翠は前に向き直り、アクセルを踏み込んだ。車は唸りを上げて前進、土手を乗り越えた。そのまま土手を駆け下り、風力発電機が並ぶ海岸沿いの道路を激走する。その後ろを筋肉の神が走って追いかける。
直線勝負。車は時速120kmを突破しているが、筋肉の神を引き離せない。それどころか、徐々に距離を詰めてくる。
遂に筋肉の神が4WDの横に並んだ。車に追いつくほどの速さで走っているのに、無表情で運転席の翡翠の顔を覗き込んでくる。それに恐怖した翡翠は、思わずハンドルを切って筋肉の神を轢き飛ばそうとした。
筋肉の神は片手で車を押さえた。悪手であった。タイヤは前進するためのものである。横に曲がるのはタイヤの向きを変えた結果に過ぎない。当然、かかるパワーは正面から轢き飛ばす時と比べると大幅に落ちる。それは神の筋力の範囲内であった。
車体に手を掛けた筋肉の神は、力任せに車を振り回した。
「うおおおっ!?」
「きゃあああっ!?」
車が力任せにスピンさせられ、アスファルトが火花を散らす。3人ともシートベルトを締めていなければ、車内は大惨事になっていただろう。最後には耐えられなかったタイヤがバーストし、4WDは盛大に横転した。
しばらく経ってから、まずメリーさんが、それから雁金が車が這い出してきた。2人は車から数歩離れると、揃って倒れ込んだ。ヘロヘロだ。続いて、運転席にいた翡翠が窓から這い出そうとする。
その腰を、肥大した上腕二頭筋がロックした。
「あっ」
筋肉の神が翡翠を車からぶっこ抜き、肩越しに後方の地面へ叩きつけた。ジャーマン・スープレックス。古代ローマの水道橋が筋肉造りで再現される。
仰向けに倒れた翡翠は起き上がろうとするが、素早く体勢を替えた筋肉の神が、翡翠の上に馬乗りになった。マウントポジションだ。立ち上がれないし、押しのけられない。
「やめ――」
戦慄する翡翠の顔面に、鋼鉄の如く固められた拳が叩きつけられた。頭が爆発したと錯覚するほどの衝撃。しかし、一撃では翡翠は気を失わない。続く2撃目を、腕を掲げて防いだ。その後降り注いだ数発の打撃も防御した。だが筋肉の神は完全に制空権を取っている。防御しているだけでは永遠に殴られ続ける。
「おああああっ!」
足をバタつかせ、腹筋に力を入れるが、そびえ立つ
もはや翡翠の腕は上がっていない。殴られるがままだ。筋肉の神は相変わらずの無表情で、翡翠めがけて殴打の豪雨を降らせ続ける。ゴッ、ゴッ、と人体が立ててはいけない音が響き渡る。
「あ、あの……」
一心不乱に殴打を重ねる筋肉の神に声がかかった。雁金だ。筋肉の神は手を止めて、首だけで雁金の方を振り返った。そんな彼に、雁金は遠慮がちに頼み込む。
「死なない程度に、お願いしますね……?」
果たして聞いているのだろうか。神の表情は微塵も変わらない。しばらく雁金を見ていた筋肉の神だったが、視線を翡翠に戻すと、マウントパンチを再開した。
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