KICK BACK
工場から現れた筋肉の神は、たっぷり10秒のポージングの後、軽くステップを踏んでから走り出した。
直進する
隊列を整えた古代の亡霊たちが、
しかし、突進してきた筋肉の神は、それぞれの手で槍の柄を掴んだ。そして
迫りくる偉丈夫にうろたえる怪異たち。それらを押しのけ、巨大な影が筋肉の神に挑んだ。小型トラックほどの大きさがある、異常巨体の土蜘蛛だった。土蜘蛛は咆哮し、両手を組んで筋肉の神へ振り下ろした。
筋肉の神も両腕を掲げて、隕石のような両拳を正面から受け止めた。衝撃で周りの怪異たちが吹き飛ぶが、筋肉の神と土蜘蛛は微動だにしない。だが、2人の静止の実態は違った。筋肉の神は悠々と立っているが、土蜘蛛は焦っている。筋肉の神に掴まれた腕が動かないのだ。
筋肉の神の上腕二頭筋がパンプアップした。膨れ上がった腕の筋肉が生み出す力は、土蜘蛛を軽々と持ち上げた。土蜘蛛は足をばたつかせるが、地面から離れていては踏ん張りようがない。
そんな土蜘蛛を抱えたまま、筋肉の神は体を横に回転させる。一回転、二回転。回転が重なるごとに、遠心力と慣性によって土蜘蛛の体が加速していく。そして、加速が最高潮になった時、筋肉の神は土蜘蛛を手放した。見事なジャイアントスイングによって、土蜘蛛は砲弾のごとく吹っ飛び、土手にめり込んだ。
土蜘蛛を投げ捨てた筋肉の神は、握り拳を頭上に掲げ、肘を直角に曲げたポーズを取った。
ダブルバイセップス・フロント。世界で最も知られているマッスルポーズだ。
「なんだあれ……」
陶も、刑事も、怪異たちも、皆呆然としていた。混沌とした状況が
視界の端で何かが動き、陶はそちらに目を向けた。そこにいたのはチェーンソーの鬼。たじろいでいる。陶は目を見開いた。驚きだ。無数の怪異に囲まれても平然と戦い続けていた鬼が、筋肉を前にして腰が引けている。
ダブルバイセップス・フロントを終えた筋肉の神は再び走り出した。もう邪魔をする怪異はいない。汗で輝く屈強な体は、魔を払う太陽よりも輝いていた。
走る先にいるのはチェーンソーの鬼だ。彼は恐れをなしたかのように数歩後ろに下がったが、そこで踏み止まった。逃げられないと悟ったのだろう。チェーンソーを操作し、特殊繊維が絡まったソーチェーンを取り外した。
代わりに、作業着のポケットから新しいソーチェーンを取り出した。ソーチェーンは生き物のようにチェーンソーに絡みつき、一瞬で刃の取り替えが完了した。チェーンソーの鬼がスターターを引くと、エンジンが起動し、再び刃を回転させ始めた。
駆け寄ってきた筋肉の神が、片足で跳躍した。空中からチェーンソーの鬼めがけて拳を振り下ろす。鬼は横に飛んで拳を避けた。
チェーンソーの鬼は粉塵を切り裂き、筋肉の神に飛びかかった。分厚い大胸筋めがけチェーンソーを振り下ろす。鋼板のような筋肉でも、しょせんは有機物。刃で斬られれば多大なダメージを負うだろう。
だが、刃が触れた瞬間、チェーンソーの鬼は吹き飛ばされた。筋肉の神は防御も回避もしていない。両手を腰に当て、胸を反らせたラットスプレッド・フロントのポーズをとっていただけだ。何故、チェーンソーの鬼は吹き飛ばされたのか?
「筋肉だ」
元幕下力士の大鯨が答えた。
「何?」
「筋肉だ。チェーンソーが当たる瞬間、大胸筋に力を込めて膨張させて、チェーンソーを弾き返したんだ……!」
荒唐無稽な話を聞いた陶は、自分の腕で力こぶを作る。確かに、筋肉は力を込めれば少し膨らむ。しかしこれだけで人ひとりを吹き飛ばすなど可能だろうか?
大鯨の見立ては厳密には間違っている。筋肉の神は筋力で鬼を吹き飛ばしたのではなく、チェーンソーの回転を膨張した大胸筋で食い止めただけであった。だが、刃を止めたことは、チェーンソーに思わぬ作用をもたらした。
キックバック。チェーンソーの刃が物を切れなかった場合に起こる現象である。回転刃が止められた場合、物を切ろうとした力はすべてチェーンソーに跳ね返る。
その力はガソリンエンジンで生み出されたものであり、普通の人間が手で支えられるようなものではない。結果、チェーンソーは手元から吹き飛び、思わぬ事故に繋がる。最悪、跳ね返ったチェーンソーが首に突き刺さり死に至る。
もちろん、チェーンソーのプロはそんな無様な真似はしない。キックバックを押さえつけ、さらなる斬撃力へ添加する術を身に着けている。チェーンソーの鬼も同様だ。
しかし相手は
立ち上がったチェーンソーの鬼は、やや戸惑っていたものの、再び斬りかかった。またしても筋肉に弾き返される。だが、今度はその勢いを利用して回転し、次なる斬撃を放った。狙いは膝。ここは
筋肉の神が飛んだ。膝を狙ったチェーンソーを避けつつ、鬼の顔面に飛び蹴りを食らわせた。強烈なカウンターを受け、鬼が後方に吹き飛んだ。鬼は立ち上がるが、足元がおぼつかない。
筋肉の神が右腕を掲げた。太陽の光を受け、うっすらと汗をかいた筋肉が、今日一番の輝きを見せた。
筋肉が走り出す。
怯んでいた鬼は突進を避けられない。代わりに手にしたチェーンソーで筋の斧を迎え撃った。
衝突の瞬間、全力で大地を踏みしめる。地面を陥没させるほどの衝撃が、足から膝、腰、肩、肘、手首、そしてチェーンソーへ伝わる。叩き込まれたのはチェーンソー柳生の奥義、チェーンソー発勁!
二つの極大暴力が正面衝突、工場の窓ガラスが全て吹き飛ぶほどの衝撃が辺りに放たれた。アスファルトの破片、そして砂埃が二者の姿を覆い尽くした。
砂煙の中、立っているのはどっちだ。陶は目を凝らす。
やがて粉塵が晴れてきた。立っている影が1体。両腕を直角に曲げ、モンゴル遊牧民が駆ける大草原のように広い背中をこちらに見せつけている。
ラットスプレッド・バック。立っていたのは筋肉の神だった。
一方、力負けしたチェーンソーの鬼は吹き飛ばされ、地面に転がっていた。暴力と筋力の衝突に耐えられなかったのか、チェーンソーはバラバラに砕け散っていた。
勝った。鬼が止まった。筋肉の勝利だ。陶が歓声をあげようとした、その時だった。
「ちょっとおおお!? 何やってんのさあああ!?」
ポージングをキメる筋肉の神の頭上から、甲高い声が降ってきた。見上げれば、狐耳と尻尾を生やした着物の少女が、工場の屋根からこちらを見下ろしていた。九曜院が連れている怪異の少女、ヤコだ。
なぜここに、と陶が思う前に、ヤコは屋根の上から飛び降りた。狙いは筋肉の神。空中でくるくると回り、勢いを乗せて踵落としを放つ。筋肉の神は頭上で両腕を交差させて防御。筋肉の神が立つ地面にヒビが入る。小柄な体からは想像もつかないほどの重い一撃だ。
腕を蹴って着地したヤコは、両手に生やした鋭い爪で筋肉の神に襲いかかった。ヤコが腕を振るう度に、空気が斬り裂かれ、地面が抉られ、建物が削り取られる。
「せっかく! おいしそうな! レアもの! だったのに! 台無しだよっ!」
筋肉の神は両腕を掲げて防御に徹する。チェーンソーでも傷つけられなかった肉体に、数条の赤い筋がついた。己の筋肉を傷つけられ、筋肉の神はかすかに眉をひそめた。
筋肉の神は確かに驚異的である。人間はもちろん、そこらの怪異でも、チェーンソーの鬼でも相手にならない。神だからだ。だが、それを言うならヤコは三国喰らいの魔獣である。神に対して格が劣るということはない。
更に爪撃を重ねるヤコに対し、筋肉の神は不意に前進した。ガード体勢のまま放ったタックル。
「ぐうっ……!」
吹き飛びながら大地を蹴り、地面を殴り、回転して勢いを殺したヤコは、建物の壁を蹴り反転射出。向かってきていた筋肉の神の顔めがけて飛び膝蹴りを放った。突進中の筋肉の神は避けられず、顔面に膝を受けた。
だが、筋肉の神は立ち止まりこそしたものの、吹き飛ばなかった。首筋、背筋、大腿筋が、彼の体を支えていた。腕を掲げた彼の後ろ姿は、奇しくもダブルバイセップス・バックであった。
筋肉の神の両腕が、ヤコの足を掴む。
「あっ」
止める間もなく、ヤコは背中から地面に叩きつけられた。
「がはっ……!?」
アスファルトが陥没するほどの衝撃を受け、ヤコは久方ぶりの苦悶の声を上げた。歯を食いしばり、憤怒の形相で筋肉の神の目を抉ろうとする。いかに筋肉の神といえども、眼球は鍛えられまい。筋肉ではなく、水晶体だからだ。
しかし爪が目に突き刺さる前に、ヤコの体がふわりと浮いた。更に筋肉の神の体も浮いている。ヤコの足を抱えたまま跳躍したのだ。
重力加速度も加え、再びヤコの体が地面に叩きつけられた。
二度目の苦悶の声は上がらなかった。ヤコの体は完全に地面に埋まっていた。
魔獣を
勝利のポーズを取る筋肉の神を、横から突っ込んできた車が天高く弾き飛ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます