お願いマッスル

 アケミが撃たれたかと思ったら、翡翠が凄まじい勢いで暴れ始めた。止める間もなく翡翠は外に出ていってしまい、警察もそれを追いかけて工場から離れてしまった。しばらくすると、倒れていたアケミも立ち上がり、翡翠を追いかけていった。


 雁金は展開にまったくついていけず、車の中に取り残されていた。

 本当なら後を追いかけるべきだったのだろう。だが彼女は動けなかった。

 驚きと混乱に支配されていた。刑事たちを薙ぎ倒し、車を蹴り飛ばし、怪異の群れを切り崩しす翡翠。その力はどう考えても人間のものではない。

 人の枠を半分踏み越える怪異憑きとは違う。怪異の手を借りたわけでもない。人の範疇から逸脱した、怪異そのものだった。


「ど、どうしよう……」


 声に出してみるが、何か思いつく訳でもない。人間が怪異になるなんて思ってもいなかったし、翡翠がそうなるとも思っていなかった。

 アケミの話を信じていなかった訳ではない。だが、翡翠に限ってまさかそんなことにはならないだろうと甘く見ていた。


 後悔が雁金の体を縛り付ける。それ以上に、翡翠に対する恐怖が雁金の心を押し潰していた。

 翡翠の見た目は何も変わっていない。ただ、存在そのものが変わってしまっていた。あれは大鋸翡翠という人間ではない。チェーンソーを振り回し、何もかもを皆殺しにする鬼だ。

 そんなものを、どうやって止めろというのか。声をかけるか。聞く耳があるとは思えない。抱き止めるか。間合いに入れば斬られるだろう。銃で撃つか。効くとは思えない。

 なら、神に祈るか。神には散々な目に遭わされてきた雁金でも、それくらいしか思いつかなかった。


 コン、コン、と硬い音が耳朶を打った。雁金が顔を上げると、白いヘルメットを被った男が車の窓を叩いていた。制服を見るに、警官らしい。

 雁金が車の窓を下ろすと、警官は声をかけてきた。


「大丈夫ですか?」

「は、はい……」

「ここは危険です。すぐに外に出てください」


 言われるがままにドアの鍵を開けようとして、雁金は彼に見覚えがあることに気付いた。眉毛が太く、パーツが真ん中に寄った古臭い顔。誰で、どこで見たか。思い出せない。

 顔を見ていると、彼の視線が雁金ではなく後部座席を向いているのに気付いた。その先にあるのはレッドマーキュリー。

 雁金は思い出した。そもそもこれを狙っていたのは警察だったということを。


 窓のスイッチを押す。パワーウインドウが閉まり始める。


「あっ、おい!」


 警官は雁金に手を伸ばすが、雁金は身を引いて抵抗する。その間にも窓はせり上がる。

 警官は窓に挟まれることを嫌って、すぐに手を引っ込めた。代わりに、腰のホルスターから拳銃を抜き、警告もなく撃った。しかし、防弾ガラスが銃弾を弾き返した。


 警告も威嚇も無しに撃ってくるなんて普通じゃない。慌てた雁金は後部座席からショットガンを引き寄せてる。すると、スマートフォンが鳴った。曲は『メリーさんのひつじ』。


「もしもし!?」

《もしもし、私メリーさん。今、あなたの後ろにいるの》


 後部座席にメリーさんが現れた。


「雁金ー。翡翠もアケミも電話に出ないんだけど、どうしたの?」


 銃声。


「みぎゃあ!?」

「メリーさん、敵です! 敵!」

「どうなってるの!?」

「怪異と警察に囲まれてます!」

「翡翠は!?」

「わかりません! 外で戦ってます!」

「む! わたし……」


 ワープしようとしたメリーさんの腕を、雁金は慌てて掴んだ。


「ダメです!」

「なんで!?」

「今、先輩の側に行ったら、殺されます!」

「えっ!?」


 もしもメリーさんを殺すようなことになれば、翡翠は本当に戻ってこれなくなる。行かせるわけにはいかなかった。


 突然、車が揺れた。


「きゃあああ!?」

「ぎにゃっ!?」


 河童だった。相撲が得意な河童たちが、警官の反対側から忍び寄り、車を力任せにひっくり返そうとしている。


「どうするのよ、雁金ぇ!? なんとかしてよ!」

「なんとかって言われても……!」


 どうしようもない。訳がわからない。警官が撃ってくるし、河童が車を叩いてるし、濡れ衣は着せられるし、翡翠が怪異になってしまった。あまりにも多くのことが起きすぎている。

 翡翠が側にいれば、まだ余裕があった。今は遠くに、目には見えるけどそれよりずっと遠くに行ってしまっている。このままだと帰ってこないかもしれない。それだけが怖い。

 だけど雁金には何もできない。考えても思いつかない。目を閉じて震えるしかない。誰でもいいから、なんでもいいから、どうにかして欲しい。


 目の端に光が差し込んだ。


 驚いて顔を上げれば、後部座席が赤く光っていた。正確には、後部座席に載ったものが、だ。

 レッドマーキュリー。それを収めた鉛の箱の中から、赤い光が漏れ出している。


「なになになに!?」


 驚いたメリーさんが慌てて箱から離れる。光はますます強くなっていく。何がどうなっているのかさっぱりわからない。しかし、雁金の頭の中に思い浮かぶものがあった。


「……爆発するんじゃないんですかこれ!?」

「ちょっと!?」


 確か、爆発したらとんでもないことになるはずだ。思わず離れようとしたが、車の外は河童に囲まれていて出られない。


「どうしよう、どうしよう!」

「どうしようって言われても……あれ?」


 ふたりが慌てていると、レッドマーキュリーの光は徐々に弱まり、最後には収まってしまった。恐る恐る触れてみるが、熱くなったりはしていない。


「なんだったの?」


 首を傾げる。すると、外から鈍い落下音が聞こえた。河童が何かしたのかと思い、外を見る。河童たちは一様に後ろを振り返っていた。雁金は視線の先に目を移す。


「……筋肉マッスル?」



――



「どっそい!」


 元幕下力士の大鯨が突っ張りを放った。土蜘蛛を殴り倒した直後だったチェーンソーの鬼は避けられず、直撃を受けてよろめいた。だが、倒れない。両足で踏ん張り、チェーンソーで大鯨を殴りつける。100kgオーバーの巨体が宙を飛んだ。

 発砲音が立て続けに鳴る。刑事たちの援護射撃だ。周りの怪異もとろも、チェーンソーの鬼が銃撃される。しかし、倒れない。銃弾は特殊繊維の防護服で防いでも、衝撃は受けているはずだ。それなのに、鬼は何事もなかったかのように暴れている。


「シャオラァッ!」


 陶が踏み込んだ。遠心力を十全に使った、警杖による三連撃。側頭部、肘、膝を立て続けに打たれれば、常人なら命の危険すら有り得る。だが、鬼は打撃を受けながら強引に前蹴りを放った。攻撃中で防御できなかった陶は、吹き飛ばれて背中から倒れた。


「もうやめて! 大鋸くん!」


 後ろからアケミが飛びかかった。4本の腕を展開し、鬼の両腕を羽交い締めにしながら腰にも手を回す。普段ならアケミの方が力で上回っているはずなのだが、今は違った。鬼は力任せに腕の拘束を振り払うと、腰に回された手を掴んでアケミを投げ飛ばした。


「きゃあっ!?」

「おいっ!?」


 近付こうとしていた亀谷が慌てて盾を構える。そこに投げ飛ばされたアケミがぶつかった。衝撃でふたりとも倒れた。


 誰もチェーンソーの鬼を止められなかった。相撲も、空手も、銃撃も、怪力も、防盾も、鉄剣も、殴打も、噛撃も、暴力には敵わなかった。

 この場にいる全てを敵に回して、全身に攻撃を受けているはずなのに、チェーンソーの鬼は疲れすらみせない。あらゆるものを等しく吹き飛ばす嵐であった。


 止めてやると意気込んでいた陶も、今ではその選択を後悔していた。想像以上の強さだ。自分たちより強い吉田でも、勝てるかどうかわからない。そしてその吉田は戦う前からどこかに行ってしまっている。

 焦る陶に夜刀神が襲いかかる。陶は体当たりを避けると、左手を突き込んで脊髄を引っこ抜いた。周りの怪異も厄介だ。チェーンソーの鬼のチェーンソーが止まったのをいいことに、鬼と陶たちを纏めて蹂躙しようとしている。邪魔なことこの上ない。

 どうにもならないか。冷や汗を拭う気力が尽きた時、陶は戦場に異変が起きていることに気付いた。


 怪異たちがバラバラと倒れている。どこからか飛んできた太い鎖に、5,6体が纏めて薙ぎ倒されている。

 どこから飛んできているのか。陶は辺りを見回す。攻撃の源はすぐにわかった。チェーンソーの鬼が出てきた工場の中からだ。入り口の暗がりから、何者かが姿を表した。

 その姿を見た時、陶は無意識に呟いた。


「……筋肉マッスル?」


 そう言ってしまうほど、見事な筋肉マッスルであった。見事に鍛え上げられた身体。岩のような無骨な筋肉ではなく、磨き上げられた鏡のように美しい最高級の筋肉。奇跡によってこの世に産み落とされた筋肉の理想イデアであった。

 その筋肉マッスルの持ち主は、精悍な顔つきの白人だった。身に着けているのは革のふんどし一丁のみ。シャツもズボンも身に着けず、均整の取れた肉体を惜しげもなく晒している。


 筋肉の男は手にした鉄の鎖を怪異たちに投げつけた。人の胴体より太い鎖が、回転しながら飛んでいく。その直撃を受けた怪異たちは等しく薙ぎ倒された。

 鎖を投げた男は横を向き、右手と左手を重ね合わせ、左腕全体を見せつけるポーズを取る。サイドチェスト。体の側面を強調することで、筋肉の厚みを強調するマッスルポーズだ。

 男がポーズを取った瞬間、その場にいる誰もが、彼の背に後光を見た。完璧な筋肉が、太陽のように自ら発光していた。


「筋肉のマッチョ・ゴッド……」


 誰かが呟いた。最もふさわしい呼び名であった。



――



 水星マーキュリー。その名は古代ローマの商業の神、メルクリウスに由来する。そしてメルクリウスは古代ギリシアの神、ヘルメスに由来している。

 ヘルメスは実に多才な神であった。伝令神としての身体能力を持つだけでなく、頭も良かった。錬金術や医学を司ると考えられ、賢者の石を作ったのも彼だと考えられている。

 レッドマーキュリーという名は、宗教が禁止された共産圏にありながらも、錬金術の祖を讃えるためにつけられたのかもしれない。


 伝令の神にして錬金術の祖、ヘルメス。しかし、彼の神威はそれだけに留まらない。

 生まれたその日に牛50頭を盗み出したという神話から、泥棒の守り神とされた。

 牛泥棒の犯人だと疑われた時、赤ん坊の自分が盗みを働けるわけがないと主張したため、嘘と雄弁を司る神だと考えられた。

 盗みの詫びに自ら竪琴を作ったという逸話から、音楽の神という性質も持ち合わせた。

 富と財産の神とも考えられ、斧を泉に落とした正直者の木こりに、金の斧と銀の斧を贈ったという話も伝えられている。


 これらの権能はいずれもヘルメスの賢さを表すものであるが、だからといってヘルメスが知恵ばかりの軟弱者かといえば、決してそんな事はない。

 何しろ神々の伝令である。伝言のため遥か遠くに、時には天界や冥界にすら赴くことから、旅人の守護神として祀られていた。

 そして、誰よりも速く、誰よりも遠くに行く神ならば、その肉体は健全にして強靭であるに違いない。故にこう呼ばれることもあった。


 体育筋トレの神、と――。

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