魔弾~Der Freischutz~

 鹿島かしま港。茨城県南部の突端部にある、鹿嶋かしま市と神栖かみす市にまたがる大型港湾である。

 鹿市なのに鹿港なのは何故かと言うと、元々は鹿島群鹿島町だったところに大野村が合併して市になり、名前が変わったからである。

 それなら鹿市にすればいいのに、と誰もが思ったが、佐賀県に鹿島市が既に存在していたので、泣く泣く鹿市となった。

 なお、現地には鹿島中学校や鹿島火力発電所、鹿島アントラーズがあるため、恐らくどっちのでも通る。


 そしてこの港そのものも、のようになっていた。東には太平洋、南には利根川、西には北浦という湖がある。北が陸地と繋がっているので辛うじて島にはなっていないが、そこも太平洋と北浦に挟まれた細い土地だ。もちろん、川や湖には橋がかかっているから、普通にアクセスする分にはそこまで不便ではない。

 問題は、橋には検問を置きやすいということだ。初めは北浦から鹿島港に近付こうとしていた翡翠たちだったが、2本の橋にはどちらも警察がいて渡れなかった。どうにか渡れる場所を探して南へ移動するうちに、利根川を越えて千葉県に入り込んでしまい、仕方なくそこから回り込んで茨城県に再突入することになった。


 海岸線を北上し、神栖市側から鹿島港へ向かう。港に近付くと、民家や店が減り、代わりに工場や倉庫が多くなる。無機質な建物の間を縫って、翡翠の車は前へと進む。その途中で雁金のスマートフォンに電話がかかってきた。


「もしもし?」

《もしもし、私だ。九曜院だ。今どこにいる?》

「鹿島港に向かってます。海まで来てるので、もうすぐだと思うんですが……」

《まだ着いてないかったのか……》

「すみません……」


 向こうはとっくに到着しているものだと思っていたらしい。申し訳なさに、雁金は頭を下げる。


《いや、それはいい。道中、襲われたりはしなかったか?》

「いえ。警察にも怪異にも見つかってません。大丈夫です、今のところは」

《となると、鹿島港で待ち伏せをしているのかもしれないな》

「は、待ち伏せ!?」


 突然大声を上げた雁金に、翡翠もアケミも目を剥いた。


「どういう事ですか、待ち伏せって! 私たちの動きがバレてるんですか!?」

《確証はないが、君たちが出ていった後、第四学群を囲んでいた敵の主力が撤退した。君たちを追跡していると思ったのだが、これだけ時間がかかっているのに追いついていないとなると、その可能性は高い》

「いや、ちょっとストップ! 先輩ストップ! 車止めてください!」

「ああ?」


 雁金に言われた翡翠は、訝しみながらも車を路肩に停めた。横をバイクが通り過ぎていく。


「どうした」

「九曜院さんから電話があって、港で待ち伏せされてるかもしれないって!」

「なんだと!? ちょっと貸せ!」


 翡翠は雁金のスマホを奪い取った。


「もしもし!? おい九曜院、どういうことだ!? 俺たちをハメたんじゃないだろうな!?」

《違う、そんな事はない。待ち伏せはあくまでも可能性の話だ》

「可能性がある時点で手詰まりだ! クソッ、どうすりゃいいんだ、この箱!? 海に投げ捨てるか!?」

《やめろ。我々も今、そちらへ向かっている。合流してから考えよう》

「……考えてもいい手が浮かばなかったら?」


 少し間を置いて、九曜院が答えた。


《強行突破しかあるまい》

「よしきた」


 翡翠は口の端を歪めた。


《そちらは今、どの辺りにいる?》


 九曜院に問われて、翡翠は辺りを見回した。


「海岸沿いだ。鹿島港に南から向かってる。えーと……なんか、でかいプロペラがずらっと並んで、ぐるぐる回ってるな」

「風力発電のプロペラです」

「ふうりょくはつでんのプロペラだ」

《風力発電か。他には?》

「海の反対側に工場がある。他には何もない。信号もないし、横断歩道も」

《そうか……それで何とか探してみる。わからなかったらまた電話する》

「急いでくれよ」


 電話が切れた。翡翠はスマートフォンを雁金に返すと、座席に体を沈み込ませた。後ろからやってきた車が、少し前の路肩に停車した。


「どうなりました?」

「九曜院がこっちに来てるらしい。一旦合流だ」

「やっぱり待ち伏せされてるの?」

「わからねえ。けど、もしそうだとしたら、こっちの動きが向こうにバレてるって事になる」

「……先輩の言う通りかもしれません」


 雁金は深く同意する。考えてみれば最初からおかしかった。

 河童の箱の事は翡翠と雁金と九曜院しか知らなかったのに、怪異が襲ってきた。

 第四学群という異界に逃げ込んだのに、大勢の怪異に囲まれ、警察にまで追いかけられた。

 箱を持って第四学群から逃げ出せば、怪異たちは後を追いかけるように消え去った。

 そして今は、鹿島港で待ち伏せしているという。


「アケミさん、ちょっと箱を貸してくれませんか?」


 後部座席のアケミからレッドマーキュリーを受け取った雁金は、箱をくまなく調べ始めた。全面を撫で回し、穴の中まで覗き込む。


「何してる」

「発信機を探してます」


 ありえる可能性としては、この箱に発信機がついていて、敵がそれを追いかけてきているということだ。第6台場で河童たちがこの箱に発信機をつけていたのかもしれない。

 しかし、いくら探しても発信機らしいものは見つからなかった。


「あれ?」

「無いだろ。そんなものがあったら待ち伏せなんてしない。昨日の夜に襲ってきてる」


 翡翠の指摘はもっともだった。場所がわかるなら検問や待ち伏せなんて不確実な事をしないで、直接遅いかかってくれば良いだけの話だ。


「でも、そしたらどうして……」

「……誰かが情報を流してる」


 ボソッと翡翠が呟いた。


「裏切り者、って事ですか?」


 雁金の問いに、翡翠はすぐには答えなかった。苦虫を噛み潰したような顔をしている。珍しい表情だった。そもそも、歯切れの悪い翡翠、というものを雁金は見たことがなかった。


「先輩、まさか――」


 コンコン、という音が会話を断ち切った。

 雁金たちは音のした方を見た。窓の外にダウンジャケットを着た男が立っている。翡翠が窓を下ろすと、男は軽く会釈をした。


「なんだ?」

「すみません、警察です。ちょっと車を降りてもらってもいいですか?」


 男は身分証を取り出した。縦開きのケースには、警察のマークが貼り付いていた。


 気まずい沈黙。


 突然、翡翠がアクセルを踏み込んだ。車が急発進する。


「あっ、おい待て!」


 待たない。走り出した車は前に停まっていた別の車にぶつかり、大きな音を立てた。翡翠はハンドルを切り、車を強引に弾き飛ばす。

 周りを見ると、他にも数台の車が翡翠たちを取り囲んでいた。こちらの様子をうかがっていた人々が、慌てて車に乗り込んで追いかけてくる。電話に夢中になっているうちに警察に囲まれていたようだ。

 翡翠は脇目もふらずに車を走らせる。しかし、道路の先は何台ものパトカーとバリケードによって封鎖されていた。いくら翡翠の4WDでも突破できそうにない。

 翡翠はハンドルを切った。海岸とは反対方向、土手を強引に登る。頂上のすぐ先には下り坂、その先には工場があった。


「掴まれ!」


 車は坂を駆け下り、フェンスを薙ぎ倒して工場の敷地に突入した。別の出入り口から覆面パトカーが何台も迫ってくる。それらを避け、翡翠の車は更に工場を進む。

 前方に鉄骨置き場。通れそうにない。翡翠はハンドルを左に切った。その先は工場の資材搬入口だ。慌てて逃げ出す作業員たちを尻目に、車は建物内部へ突入する。しかし、工場の中は車が走れるような場所ではない。大型機械と溶鉱炉に囲まれた袋小路に入り込んで、立ち往生してしまった。

 翡翠は車を素早くターンさせ、工場から出ようとするが、先に覆面パトカーが入り口を塞いでしまった。そこから警官たちが降りて、翡翠たちに銃を突きつける。


「どかさなきゃならねえか……!」


 翡翠は車を降りると、後部座席からチェーンソーを引っ張り出した。エンジンを唸らせて警官隊に向かっていく。


「ちょ、ちょ、ちょっと待って大鋸くん!?」


 後部座席に座っていたアケミが、翡翠を追って慌てて車から降りる。歩く翡翠の肩を掴んで強引に止めた。


「なんだ」

「なんだじゃなくて! 落ち着いてってば! あの数に向かっていくなんて無茶だよ!」

「君! そのチェーンソーを置きなさい!」


 刑事のひとりが翡翠たちに呼びかけるが、どちらも聞いていない。


「どの道あいつらをどうにかしないと出れないんだ。アケミ、お前もチェーンソーを出せ」

「いや、ほら、他に出口があるから! 走って逃げよう、ね!?」

「警部! 威嚇射撃しますか!?」

「まだです! 下手に威嚇したら逆上します! 工場の従業員の避難が先です!」


 工場の中にはまだ逃げ遅れた人々がいる。彼らは突然の修羅場に驚き、慌てて近くの出入り口から外へ逃げようとしている。しかし広い工場で、奥まったところにいる従業員は中々外に出られない。そのため警察はうかつに銃を撃てずにいた。


「あいつら人質にすりゃいいのか……?」

「余計なこと考えないでってば!?」

「そののが言う通りです! 大人しく武器を降ろしなさい! 宝石強盗と殺人に加えて、これ以上の罪を重ねるつもりですか!」

「だからやってねえつってんだろ! てめえらこそレッドマーキュリー欲しさに何度も襲いかかってきたり、大学に攻め込んだりしてるじゃねえか!

 先に決まり事を破っておいて偉そうにしてんじゃねえぞ!」


 翡翠は叫んだ刑事を睨みつけた。刑事は翡翠の言葉に困惑したようだが、視線に対しては怯まなかった。


「話があるのならまず武器を降ろしなさい! せめてエンジンを止めなさい!」

「そっちが先に降ろせ! 飛び道具だろうが、飛び道具! 俺が止めた方が不利だろ!」


 刑事は自分が構える銃に目を向け、しばし考え込んでからゆっくりと降ろした。


「警部殿!?」

「彼の言う通りです。銃を降ろしなさい」

「しかし……」

「どの道、まだ従業員が残っています。下手には撃てません。いざとなったら、私が撃ちます」


 上司に言われては逆らえない。他の刑事たちも警戒しながら銃を下ろした。


「お、おう……?」


 翡翠は戸惑った様子で刑事たちを見渡していた。まさか、本当に銃を下ろすとは思っていなかったのだろう。敵意の出鼻をくじかれた格好になった。


「ほら、警察の人は言う通りにしてくれたよ? 大鋸くんも一旦落ち着いて、チェーンソー止めよう?」


 翡翠の殺気が抜けたのを見逃さず、アケミは翡翠の腕に自分の腕を絡めた。こうなると、翡翠は何もできない。


「ね、ね、ね?」

「……わかったよ」


 翡翠はチェーンソーのエンジンを止めた。今度は警察側が戸惑った様子を見せた。まさか本当にチェーンソーを止めるとは思っていなかったのだろう。

 両者の間で張り詰めていた緊張が僅かに緩む。そこでアケミが一歩前に踏み出した。翡翠と警察、両方に向かって話しかけようと息を吸い込む。


 破裂音。アケミの頭が砕けた。


「……は?」


 続いて、呆けた顔を見せる翡翠の胴体に銃弾が突き刺さった。衝撃を受けて、翡翠が2,3歩後退する。

 そこでようやく全員が、アケミと翡翠が銃で撃たれたと気付いた。


「おいっ、誰だ! 誰が撃った!?」

「バカヤロウッ!」


 刑事たちがお互いを怒鳴りつけるが、誰の銃からも煙は上がっていない。


「そっちから銃声がしたぞ! お前が撃ったんじゃないだろうな!?」

「違う、違いますっ!」


 刑事のひとり、亀谷が車の影に隠れていた刑事に詰め寄る。隠れていた刑事は必死に首を横に振って否定する。


「亀谷君ッ!」


 警部の大麦が叫んだ。亀谷が声に驚いて振り返ると、翡翠がすぐそこまで飛び込んできていた。その手のチェーンソーは再び唸りを上げていた。


「お前らぁぁぁっ!!」


 翡翠がチェーンソーを振り下ろす。亀谷は間一髪の所で横に飛んで刃を避けた。チェーンソーは車体をたやすく切り裂き、半ばまで突き刺さった。

 チェーンソーを避けた亀谷は、翡翠の腕と手首を掴んで、関節を極めようとした。しかし、びくともしない。人間とは思えない筋力に、亀谷は舌打ちしてすぐに技を解いた。一拍遅れて、横薙ぎのチェーンソーが振るわれる。


 2発続けての銃声。大麦が放ったものだ。銃弾は確かに翡翠の肩と脇腹に当たった。だが、翡翠は倒れるどころが身じろぎもしなかった。

 翡翠は目の前の車を蹴り飛ばす。1トン以上あるはずの鉄の機械が地面を滑り、反対側にいた大麦と多数の刑事を弾き飛ばした。


 翡翠はぐるりと辺りを見回す。刑事たちは負傷して倒れているか、翡翠に怯えて手が出せない。続いて、銃で撃たれた場所を確かめる。多少痛いが、騒ぐほどのものではない。

 あれだけ脅威に思っていた国家暴力機構は、いざ相対してみれば小石ほどの障害にもならなかった。


「なんだ、こんなもんだったのかよ」


 それならば。

 法律を破って出てくるのがこの程度なら。

 向こうから決まり事を破ってくるのなら。

 嘘をついて身内に手を出すのなら。

 誰も自分を止められないのなら。


 たがを外そう。



――



 工場の屋根の上に小さな人影があった。狐耳と尻尾を生やした少女、ヤコだ。

 彼女はあぐらをかいて眼下の光景を見下ろしている。警官隊が工場の中の翡翠と対峙している。これは、決定的な事になりそうだ。3本の尻尾は機嫌が良さそうにゆらゆらと揺れている。


 ところが、にわかに外が騒がしくなった。ヤコがそちらに目を向けると、海側の土手を乗り越えて、無数の怪異たちが工場へと押し寄せてきていた。第四学群を囲んでいた怪異たちだ。それだけでなく、新顔も混ざっている。

 外に避難していた工場の従業員たちが慄く。その前に刑事たちが躍り出て、武器や盾を構える。どうやら彼らは怪異と縁があるらしい。警察の貴重な戦力なのだろうが、多勢に無勢だ。10人で1000体の怪異は止められない。


 銃声が響いた。続いて、痺れるような甘みを感じた。


 ヤコは工場に目を戻す。翡翠の隣にいた女の怪異が、頭を半分砕かれて倒れていた。

 来た。ヤコは姿勢を崩して、下方を覗き込んだ。四つん這いになって眼下の光景にかぶりつく様子は、獣そのものであった。


 翡翠が前に踏み出す。刑事たちを薙ぎ倒し、パトカーを吹き飛ばし、工場から出る。人間にできることではない。怪物でなければ説明がつかない。彼は今、怪物に成ろうとしている。


 初めて会った時は、つまらない人間だと思った。心が空っぽで、欲の匂いもしなかった。

 だけどそれは、良い意味で見込み違いだった。欲が無かったわけじゃない。欲を忘れていただけだ。

 そしてこの前会った時、彼の欲を引き締めていた箍が外れかかっていた。それは彼自身が我慢できなくなっていたからでもあったし、世界がそうさせているからでもあった。

 珍しい。長く生きていても、中々お目にかかれるものではない。生きている人間が怪異憑きを通り越して怪異に成るなど。


 だからヤコは、九曜院から離れて翡翠を追いかけた。珍しいものの匂いを嗅ぎつけたからだ。

 彼の欲そのものは、さして珍しいわけではない。原始的な、ごくありふれた暴力衝動にすぎない。それが本当ならありえない程の長い時間、法律に、信頼に、愛に、抑えつけられてきた。それがいよいよ解き放たれる。熟成された暴力が、この世に生まれ落ちようとしている。

 顎に生温い感触。ヤコの口の端からよだれが垂れていた。はしたない。着物の袖で口元を拭う。それでも唾液は止まらない。楽しみで楽しみで仕方ない!


「さあ、さあさあ! 早く見せて、食べさせて! 怪異も恐れた『チェーンソーの鬼』を味わわせて!」

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