決意の朝に

 明け方、翡翠の車がネットカフェにやってきた。雁金とアケミが乗り込むと、車はすぐに出発した。


「おはようございます、先輩」

「おはよ」


 雁金が挨拶すると、翡翠は普通に返してきた。どこもおかしいところはない。普通の人間だ。昨日、アケミが言っていたように、怪異になりかけている様子は欠片もない。

 ふと、運転席と助手席の間に、昨日はなかったビニール袋があることに気付いた。コンビニのビニール袋だ。


「先輩、これは?」

「ああ、ゴミだ」


 翡翠は窓を開けると、そこからビニール袋を投げ捨ててしまった。


「あ、いや、ちょっと!?」

「なんだ?」

「いや、ポイ捨ては良くないかと……」

「どこに捨てても変わらないだろ」


 翡翠は振り返りもしない。いつもはこういうマナーを守っているのに、今日はどうして。雁金が戸惑っていると、今度はアケミが質問した。


「大鋸くん。今の、コンビニで買ったの?」

「いや、奪ってきた」

「えっ」

「腹が減ってたからな。コンビニ店員くらいなら邪魔されても殺せると思って、奪ってきた」

「殺した、の?」

「いや、チェーンソーを持ってコンビニに入ったら逃げちまったから、商品だけ持って出た」


 雁金とアケミは顔を見合わせる。お互い、安堵半分、困惑が半分といった表情だった。人は殺してないからまだいいが、平然と強盗をし始めたのはどういうことなのだろうか。


「えっと、先輩。そういう事をすると警察に通報されると思うんですが……」

「もう追われてるだろ」


 その声は、聞き慣れた翡翠の声とはまるで違った。ゾッとするほど冷たく、あらゆるものを突き放した声色だった。


「仕事でしくじってバレたならまだしも、でっち上げの事件で追いかけられてるんだ。今更別の事件で通報されたところで何も変わらないだろ。

 バカバカしい。法律を気にして我慢して生きてきたのに、こんなオチかよ。今まで我慢してきたのがバカみたいだ」

「お、大鋸くん!」


 ブツブツと物騒なことを呟き続ける翡翠を、アケミが止めた。


「イライラするのはわかるよ、うん。だけど落ち着こ? 大鋸くんが悪くないっていうのは、私たちがわかってるんだから。それに、親戚の人が助けてくれるんでしょ? だから、いつか無実だって警察の人もわかってくれるって!」

「……だけどな」

「その時に、コンビニ強盗してました、とか、ゴミをポイ捨てしました、とか言って捕まったらどう思う? 情けないでしょ。

 それに警察は銃とかいっぱい持ってるんだよ? 大鋸くんが本当に危ない人だってわかったら、無実だってわかる前に撃ち殺されちゃう」


 これには翡翠も黙り込んだ。いくらチェーンソーが強いと言っても、銃には勝てない。

 雁金は以前、翡翠が着ている作業服について聞いたことがあった。あれは特別なもので、拳銃くらいなら防げるらしい。なら撃たれても平気なのかと聞くと、痛いものは痛いと返された。それに警察の特殊部隊はライフル銃を持っているから、それで撃たれたら普通に死ぬとも言っていた。

 警察がしっかりしている限り、翡翠は暴れられない。冤罪を掛けてくる時点であまりしっかりしていないが、しっかり暴力で上回ってくれていれば、翡翠は上辺だけでも秩序を守るしかない。


「……わかったよ」


 しぶしぶと、非常にしぶしぶといった様子で翡翠は頷いた。

 これでしばらく翡翠はヤケを起こさないだろう。安心した所で、雁金はある事に気付いた。


「そういえば、メリーさんは?」


 メリーさんがいない。昨日、お風呂に入るといってワープしたきりだ。


「まだ寝てるんじゃないかな……」

「誰か電話してくれ」


 アケミが電話するが、メリーさんは中々出ない。1分くらいコールした後、ようやく電話が繋がった。


「もしもし?」

《もしもし、私メリーさん……》


 スピーカーから非常に眠そうな声が聞こえる。


「今どこにいるの?」

《おふとん……》

「もう朝だよ。早く起きなさい」

《やだ》

「早くしないと車が港に着いちゃうよ?」


 返事はない。


「メリーさん?」

《……くぅー》


 寝息が聞こえる。二度寝に突入してしまったようだ。


「あーもう! メリーさん、起きて、起きてってば!」

「いやもう寝かせとけよ。後は船に積み込むだけなんだし」


 眠たい子供を電話越しに起こすのは至難の業だ。翡翠が早々に諦めると、アケミも溜息をついて電話を切った。



――



「不思議ですねえ」


 警視庁人身安全対策本部総合対応課。早朝からデスクに座ってコーヒーを飲んでいる大麦課長が、何気なく呟いた。


「何がですか」


 資料を整理していた対応課のメンバーのひとり、亀谷が問いかける。


「殺された警官ですよ。亀谷くん、彼の名前を知っていますか?」


 大麦に聞かれて答えようとした亀谷だったが、口を半開きにして固まってしまった。


「……あれ。すみません、忘れてしまいました」

「そうなんですよ。僕も知らないんです」


 ソーサーがカタン、と音を立てた。


「恥を忍んで他の刑事にも聞いてみたのですが、誰も名前を知りませんでした。会議でも名前は出なかったし、捜査資料にも載っていない。それで、この事件を持ち込んだ公安課に確認しに行ったら教えてもらえました。被害者は片倉巡査というそうです」

「なるほど。どんな刑事だったんですか?」

「わかりません」

「はあ?」

「公安課の機密情報ということで教えてもらえませんでした」


 大麦の答えに亀谷は憤る。


「いや、我々が仇を取ろうと頑張ってる被害者ですよ? なんで教えてもらえないんですか?」

「公安部に所属する捜査員だから、という理由ですが……気になりますよね」


 公安の刑事は、末端に至るまで個人情報を表に出さない。過激派やテロ組織を監視する際、身元が割れていると任務に支障をきたすからだ。そのため、巡査の身元を明かさないというのは一見すれば理にかなっているといえる。

 だが、今回の被害者は既に死んでいる。その上、事件を捜査している刑事にも詳しい情報を明かさないというのは、妙というよりも無礼だ。自分から事件を持ち込んでおいて、公安部は未だに刑事部を目の敵にしているのだろうか。


「ただ、捜査に必要だとゴネて、顔写真は貰えました」


 大麦は手元のファイルから1枚の写真を取り出した。


「亀谷くん、彼の顔に見覚えはありませんか?」


 のっぺりとした顔の男だった。髪は角刈りで眉が太く、パーツが全体的に中央に寄っている。昭和の薫りが漂う人相だった。あいにく、亀谷に見覚えはない。


「会ったことはありませんね」

「そうですか。私も署内の刑事に聞いて回っていますが、知っている人間はいませんでした。よほどの極秘案件に携わっていたようですね」

「巡査なのに?」


 亀谷が聞き返すと、大麦は意味ありげに笑った。彼がこういう顔をする時は、事件に隠された真相が潜んでいることに気がついている。そして大麦自身は、それをまだ語るべき時ではないと考えている。

 だから今問い詰めても無駄だろう。亀谷は再び写真に目を戻した。


「言っちゃなんですが、悪人面ですね。大鋸のヤツといい勝負してますよ」


 大鋸翡翠が放火強盗殺人の容疑者の顔なら、片倉巡査の顔は大規模窃盗の容疑者の顔だ。顔だけで人間を判断するのは刑事としてはあるまじき態度だが、捜査に行き詰まって何日も警視庁に滞在している亀谷はだいぶストレスが溜まっていた。


「……そう見えますか」


 意外にも大麦は亀谷を咎めなかった。むしろ、興味深い表情で彼の顔を覗き込んでいた。


「警部! 茨城県警から連絡です!」


 別の刑事が叫びながら駆け寄ってきた。


「今朝未明、茨城県霞ヶ浦のコンビニで強盗事件が発生! 強盗はチェーンソーを凶器にしていたということです!」

「大鋸ですか?」

「ハッキリとはわかっていません!」


 だが、このタイミングでチェーンソーを武器にした強盗がいるとなると、無関係とは思えない。


「手がかりですね、すぐに現場へ……」

「少々お待ちを。最後に目撃されたのが谷和原インターチェンジ。それから数日潜伏して、今朝未明に霞ヶ浦、となると……」

「なんですか、逃げる方向が気に入らないんですか?」

「ええ。だってこの先、海でしょう? 行き止まりですよ」

「船にでも乗るんじゃ……あ」


 亀谷は地図を見た。大麦は既に見ていた。


「ここですね」


 地図の一点を指差したのは、やはり大麦だった。


「鹿島港」

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