今夜はから騒ぎ

 凄まじい殺戮を伴って包囲網を突破した翡翠たちは、西へ進み続けていた。目指す先は鹿島港。茨城県の西端、太平洋に面した港だ。

 本来なら1時間半程度の道程であるが、主要な道路は警察によって検問が敷かれている。それらを避けるために横道、下道、回り道を駆使して進まなければならない。当然、時間がかかるわけで、深夜になっても車は霞ヶ浦を超えることすらできていなかった。

 幸い、船が港に着くのは昼ごろである。時間に余裕はある。余裕が無いのは精神だ。激戦を超えてきた上で、どこともしれない茨城の田園を延々と進むのは多大なストレスであった。


「おふろはいりたい」


 最初に限界が来たのはメリーさんだった。


「何が」

「お゛ふ゛ろ゛は゛い゛り゛た゛い゛!゛!゛」


 車内に甲高い泣き声が響き渡った。


「くさい! おふろはいりたい! べたべたする! かゆい! おふろはいりたい! かみががさがさする!」

「メリーさん落ち着いて……」

「ひ゛ゃ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!゛!゛」


 アケミがなだめようとするが、メリーさんは手足をジタバタさせて暴れ回る。翡翠のハンドルが僅かに乱れた。


「メリーさん、頼む、我慢してくれ」

「やだ! おふろ! おふろにはいる!」

「んなこと言われても家じゃないんだから……」


 すると、メリーさんの動きがぴたりと止まった。


「メリーさん?」

「おうち」

「え?」

「おうちかえる」


 何を言ってるんだ、と他の3人が顔を見合わせる。それには気をかけず、メリーさんは叫んだ。


「わたしメリーさん! 今、おうちにいるの!」


 メリーさんの姿が車内から消えた。


「ええ、ちょっと!?」

「おいおいおいおい!?」


 雁金たちは大慌てになる。


「アケミ、屋敷は大丈夫か!?」

「鍵は掛けてきたけど……」

「いや違う、警察とかだ。あー、でも、まさか家の中で警察が待ち構えてる訳がないしな……」


 いくら警察といえども、他人の家に入るには令状を取る必要がある。だから張り込みをしているなら家の外だ。メリーさんが家の中に現れたことには気付くだろうが、容疑者でもない子供が中にいるからといって強引に踏み込むことはまず無い。


「そもそもメリーさんなら、警察に捕まらないんじゃないですか?」

「それも、そうだな……」


 よくよく考えればメリーさんは怪異だ。仮に警察が踏み込んだとしても、瞬間移動して逃げられる。慌てる必要はまったく無かった。

 そうなると、車内には弛緩した空気が流れる。なんで慌ててたんだろう、といった感じだ。


「……ひょっとして、お前らも風呂に入りたかったりするのか?」


 ふと、翡翠が呟いた。雁金もアケミも、すぐには返事ができなかった。すると翡翠は車を路肩に停め、スマートフォンを操作した。


「よし、15分くらいか」

「何がですか?」

「ネカフェ」


 車が走り出す。


「いえ先輩、今は先を急いだ方が」

「急ぎすぎてもしょうがない。港に着いて、車を停める場所が無かったらどうする? 路肩に停まってじっとしてたら、逆に怪しまれて警察呼ばれるぞ」

「でも、大鋸くん、私たちなら我慢できるから」

「お前らに我慢させたくないんだよ。大体なんで俺たちが我慢しなきゃならないんだ。警察には迷惑かけないようにしてるってのに、向こうからルールを破りやがって……」


 ぶつぶつと呟きながら翡翠が車を走らせていると、オレンジ色の看板が見えてきた。ロードサイドのネットカフェだ。翡翠は雁金とアケミを建物の前で降ろしたが、自分は車から降りない。


「明日の朝、迎えに来る。お前らはここで休め」

「先輩は泊まらないんですか?」

「追われてるからな。下手すると通報される。その辺のコンビニの駐車場で寝てるから、心配するな」


 そう言うと、そのまま車は走り去ってしまった。後に残された雁金とアケミは、それを呆然と見送っていたが、テールランプが見えなくなると、どちらともなく動き出した。


「とりあえず、入りましょうか」

「そうですね」


 幸い、2人とも会員証を持っているネットカフェだった。スムーズに受付を済ませると、2人は女性用のペアブースに通された。ブースに他の客はいない。実質彼女たちの貸し切りだ。


「先、シャワー浴びますか?」

「いえ、雁金さんからどーぞ。私はご飯食べてますから」


 アケミがそう言ったので、まずは雁金からシャワーとメイク落としを済ませることになった。着替えとメイク落としはカウンターで売っていたので困ることはなかった。

 それから交代して遅い夕食を摂る。野菜が欲しかったが、ネットカフェの食事は冷凍食品とチルド食品が基本で、新鮮な生野菜というものはない。しょうがないので雁金は中華丼を頼み、野菜欲をごまかした。


 中華丼を食べ終わった辺りで、アケミがシャワールームから戻ってきた。何も言わずに雁金の隣に座る。

 ひと声かけてくれればいいのに、と考えた所で、雁金は気付いた。考えてみたら、アケミと一対一で話す機会は今まで無かった。今までは翡翠と一緒に行動してる所に合流してくる形でしか会ったことがなかった。


 意識すると何を話せばいいかわからなくなる。横目でアケミの様子を確かめてみるが、テレビもつけずにぼんやりと座り込んでいるだけだ。何を考えているのかわからない。共通の話題を探すが、雁金には翡翠くらいしか思いつかなかった。

 そしてその話題が地雷だという事はわかっている。最近大人しくなったとはいえ、アケミは変態ヤンデレストーカーの怪異だ。下手に翡翠の話をすれば、襲いかかってくる危険があった。

 いや、話をしなくても襲いかかってくるかもしれない。今更になって雁金は身の危険に気付いた。頼りになるショットガンは翡翠の車のトランクの中だ。別のブースに移動したほうがいいかもしれない。


「あ、あのっ、雁金さん」

「はいっ!?」


 いきなりアケミが話しかけてきて、雁金はすっとんきょうな声を上げた。


「大鋸くん、のことなんだけど」

「は、はい、なんでしょうか一体……」


 地雷の話題を向こうから振ってきた。雁金は身構える。一体何を言い出すつもりなのだろうか。ひょっとしたら殺害予告か。


「あの……えっとね、最初に言っておくけど、私が一番大鋸くんの事をわかってるの。それは間違えないでね」

「え、ええ?」

「それでね、雁金さんから見て……大鋸くん、変じゃなかった?」

「変? どの辺がですか?」

「えっとぉ……雰囲気、って言えばいいのかな……?」

「確かにいつもよりイライラしてますけど……」


 だが、それは今が異常事態だからであって、変と言うほどではないはずだ。

 ところがアケミは、表情を強張らせたまま、こう言った。


「人間じゃない、って感じなかった?」


 突拍子もない言葉。雁金は意図を汲み取れなかった。


「どういう、意味ですか?」


 アケミはしばらく、会話の間としては相当に長い沈黙の後、口を開いた。


「大鋸くんが怪異になっちゃうかも」

「……どういう意味ですか?」


 本当に意味がわからず、雁金は同じ言葉を繰り返してしまった。


「雰囲気がおかしいの。人間って言うより私たちに、怪異に近くなってる。

 さっき車に乗ってた時、パトカーとすれ違ったのに気付いた?」


 雁金は首を横に振る。もしもパトカーが翡翠の車を見つけたのなら、すぐに追いかけてきたはずだ。


「すれ違ってたんだよ。だけど、パトカーは気付かなかった。それに、運転してる大鋸くんも気付かなかった。

 普通にしてたら、そんな事はありえないんだよ。縁のない相手を認識できてない。現世との縁が切れかけてる。

 もしこのまま縁が擦り切れたら、大鋸くん、怪異になっちゃうよ……!」

「……ありえるんですか? その、人間が怪異になるってことは」

「わたし!」


 アケミが自分を指差した。文字通りの生き証人であった。一度死んでいるが。


「じゃあ、もしも先輩が怪異に成り果てたら、どうなるんですか?」

「わからない。だけど……凄い怖いことになっちゃうと思う」


 漠然とした答えに、雁金は眉根を寄せる。


「怖いことって言うと?」

「みんな殺されちゃうかも」

「……いつものことでは?」

「そうだけど! そうじゃないの、殺されちゃうっていうか、大鋸くんが殺すことしかできなくなっちゃうの。怪異っていうのは『それしかできない』ものだから。

 例えば私だったら『大鋸くんを好きになる』ことしかできないし、メリーさんだったら『瞬間移動して殺す』ことしかできない。雁金さんだって心当たりがあるでしょ?

 もしも大鋸くんが暴力の怪異になっちゃったら、暴力しかできなくなっちゃうんだよ? 遊ばないし、食べないし、デートもしてくれないんだよ? そんなの嫌だよ、どうしようどうしよう……!」


 アケミはオロオロとするばかりだ。


「落ち着いてください。まだ先輩が怪異になったわけじゃないですから。まだ、引き返せるチャンスはあるはずです」


 雁金はアケミの肩に手を乗せる。それは、自分に言い聞かせているようでもあった。


「世間との縁が切れたら怪異になってしまうんですよね?」

「他にもいろいろあるけど、今の大鋸くんはそうだと思う」

「なら、大丈夫ですよ。世間との縁が擦り切れてるのは、警察に追われてるからです。

 濡れ衣が晴れれば元に戻ります。それに、先輩の疑いを晴らすために、万次郎さんとか九曜院さんとか、いろんな人が動いてるんですから、きっと上手くいきますよ。

 私たちはレッドマーキュリーを渡して隠れていればいいんです。命がけで戦う必要もないんですから」


 アケミは雁金を見つめていたが、やがて、ぽつりと呟いた。


「濡れ衣じゃなかったら?」

「……いや、まあそれは流石に」


 雁金は目を逸らした。彼には追われる心当たりが多すぎる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る