1960 首相官邸 チェーンソーの鬼
深夜、地下鉄国会議事堂駅から大勢の影が這い出してきた。
「『太陽』は……来なかったか」
依然として健在な東京を見渡し、千方は落胆の声を上げた。
本来ならB-29が到来し、この辺り一帯を焼け野原にしているはずだった。その間、千方たちは『有事の際は地下シェルターになる』という国会議事堂駅の異界に潜ってやり過ごし、その後無人の皇居を占拠するという作戦だった。
「だがデモによって政府が混乱しているのは変わらん。かくなる上は首相官邸と国会議事堂を直接制圧し、ここを足掛かりに皇居を狙う!
忌々しいヤマトの血を絶やし、我らの世を取り戻すのだ! 掛かれぇぇぇっ!」
千方の号令で、怪異たちが国会議事堂に襲いかかった。
本来なら、辺り一帯に仕込まれた結界が怪異の侵入を防ぎ、更に常駐する退魔師が怪異を防ぐはずだった。だが、現在この地域は騒乱の最中にあった。デモ隊の緊張が限界に達し、実力行使で国会議事堂に突入しているのだ。
「ぶっ壊せえええ!!」
「おいバカやめろ、何やってんだ!?」
「日本の独裁を止めるのは今しかない! 自由主義を守るため前進せよ!」
「進め! 進め! 進め!」
暴徒化したデモ隊が、角材を破城槌にして議事堂の正門を叩く。バリケード代わりに止められたトラックを横倒しにする。
その間を怪異が走り回り、混乱を煽り立て、火をつける。熱と煙に煽られて、群衆が暴走する。既に主催者ですら制御できない状態に陥っていた。
こうなると怪異どころではない。退魔師や霊能者は、警官隊と一緒に議事堂の守りに着くしかなかった。
警官隊は防盾を構えて隊列を作り、暴徒を分断して逮捕しようとする。しかし、数が多すぎる。警官隊1万人弱に対し、暴徒は10万人。更に怪異も加わっている。
たちまち正門が突破された。暴徒と怪異が敷地になだれ込む。警官隊は国会入り口に集結し、最終防衛戦を築いた。そこを突破すればもう止められない。
仕掛けるなら、今だ。千方は印を組み、呪文を唱え始めた。使うのは飛礫の術。集結した警官隊に石の雨を叩きつけ、隊列を崩壊させる。
「……足りんな」
警官隊が多い。即席の術では出力が足りない。そこで千方は出力を増やすことにした。捕らえて足元に転がしておいた暴徒の一人に鉄剣を突き刺す。暴徒は悲鳴をあげて動かなくなった。流れ出た血が禍々しい光となって、千方の体に吸収される。更に3人、立て続けに殺して霊力を吸収する。
生贄を得た千方は、増加した霊力で持って強力に術を編み上げる。残った死体は周りの鬼たちが食らっている。千方がわざわざ暴徒に紛れて作戦を進めていたのは、これが狙いだった。10万人の暴徒は戦力であり、隠れ蓑であり、補給物資であった。
飛礫の術が完成した。後は発動させるだけだ。千方は腕を振り上げる。
突然、辺りが静まり返った。
驚いた千方が動きを止める。場の雰囲気が一瞬で変わった。破壊の熱が引き、恐怖の冷気が降りている。何が来た。冷気の源は背後から来ている。
振り返る。あれだけいきり立っていた暴徒たちが恐怖に顔を見合わせている。更には恐怖させるはずの怪異たちまで顔を引きつらせている。
群衆が動いた。ひとつの群れが、斬り裂かれたかのように2つに割れた。その中央、恐れられているのは、たったひとりの男だった。
角が生えているわけでもない。牙を剥いているわけでもない。鋭い爪を生やしているわけでも、火を吹いているわけでもない。腕も足も2本、余分なものはついていない、ごく普通の人間の姿だ。超自然の力を持っているわけでも、世界を歪める術を使っているわけでもない。
ただひとつ、違和感を手にしている。チェーンソー。本来、木を斬る道具であるはずのそれは、赤黒い血に塗れていた。暴力の痕跡である。それを手にした男が、恐怖の象徴と化していた。
「なんだ、あれは」
千方は呻いた。人間ではない。怪異憑きでもない。怪異。いわば、『チェーンソーの鬼』とでも言うべきか。しかし、そんな怪異は聞いたことがない。
咄嗟に術を向けたのは、千方もまた強者だからであろう。虚空から現れた無数の石が、男に向かって降り注ぐ。男は避けようとせず、手にしたチェーンソーを握りしめた。
石の嵐が殺到する。男はチェーンソーを振るう。無数の礫の中から、男に当たるものだけが、チェーンソーで的確に切り払われてる。
礫の雨が止んだ。術が終わった。男は無傷であった。
「か……掛かれっ! 奴を止めろ!」
千方の叫びに、周囲の怪異たちが呼応した。恐れを押し殺し、四方から一斉に男へと殺到する。男は一瞬立ち止まり、チェーンソーを構えると前へと飛び出した。
怪異たちがすれ違いざまに斬られていく。誰も止められない。一直線に千方に向かってくる。
「オオオッ!」
金鬼が男に殴りかかる。刀も矢も通さない、金剛身の鬼だ。だが、男のチェーンソーは金鬼をあっさりと両断してしまった。
「貴様ァ!」
風鬼が突風を巻き起こす。周囲の暴徒や車が宙を舞う中で、男はチェーンソーを振るう。風を巻き起こす術が斬られた。突然の無風に風鬼が驚く。その顔がチェーンソーで一刀両断された。
「な、な……!?」
焦燥する水鬼が鉄砲水を呼び出した。無形の液体が質量で持って男を押し潰そうとする。だが、男はチェーンソーで水を斬った。その余波で、水を操っていた水鬼も両断されてしまった。
千方と男の間にはもう、誰もいない。覚悟を決めて、千方は鉄剣を水平に構えた。左手の人差し指と中指を立て、口元に近付け、呪文を唱える。すると言葉が無数の
だが、男がチェーンソーを振るうと、蝗の群れが斬り裂かれた。刃に当たらずとも、チェーンソーの刃が起こす空気の振動に触れただけで、蝗が粉々に砕けていた。
蝗の嵐の裂け目から飛び出した男は、瞬く間に千方との距離を詰める。チェーンソーが振り下ろされる。千方は右手の鉄剣で斬撃を受け流した。反撃の一閃を放つが、男は屈んで避ける。足元を狙った横薙ぎを、千方は下がって回避。頭へ鉄剣を振り下ろすが、チェーンソーで防がれた。
鍔迫り合い。次の瞬間、千方は吹き飛ばされた。まるで蹴り飛ばされたかのような衝撃に襲われたのだ。地面を転がる千方に、男は駆け寄る。だが、急に足を止めて振り返った。
後ろから襲いかかる蝗の群れ。男はそれをチェーンソーで縦に分断する。2つに割れた蝗の群れが、男の左右を通り過ぎる。
「
千方の呪言を受け、蝗の群れが燃え上がった。火の玉と化した蝗たちは、炎の渦となって男を飲み込んだ。男はチェーンソーで炎を切り裂くが、足元から新たな炎が立ち昇る。
術を斬られるなら、燃え尽きるまで掛け続けるのみ。千方は術に全力を注ぐ。10秒など悠長なことは言わない。一瞬で焼き尽くす。
炎の中から何かが飛び出した。それは赤熱した鎖だった。鎖は千方の腕に巻き付いた。
「ぬうっ!?」
腕を焼かれた痛みに、千方の反応が遅れた。次の瞬間、千方は凄まじい勢いで鎖に引っ張られた。抵抗もできず、千方の体が宙に浮く。鎖が引かれ、炎の竜巻へ戻っていく。その中央にいるのは、体を焼かれながらもチェーンソーを構える男。
「おおおおおっ!?」
空中でもがきながらも、千方は鉄剣を構えた。男もチェーンソーを振りかざす。
甲高い音が響いた。振り上げられたチェーンソーを、鉄剣が受け止めていた。再びの鍔迫り合い。先程の光景が脳裏をよぎり、千方は息を呑んだ。
男が足を踏み込んだ。その力は膝を、腰を、肩を、腕を通してチェーンソーに伝わる。チェーンソー発勁。先程は千方を吹き飛ばしたが、今度は鎖に繋がれているため逃げられない。衝撃のエネルギーは、代わりに破壊力となって鉄剣に襲いかかった。鉄剣が火花を散らし、折れた。いや、斬られた。
無防備になった千方の眉間にチェーンソーが食い込み、そのまま股下まで一刀両断した。二分された千方の体が炎の渦に飛び込んだ。術の炎が死体を襲う。効果が切れて炎の渦が消えるのと、千方の体が燃え尽きるのはほぼ同時だった。
チェーンソーの鬼はまだ立っていた。体のあちこちが焼けているが、それでも倒れるまでには至らなかった。
足を踏み出す。周りで慄いていた怪異たちが、背を向けて逃げ出した。暴徒の大半は何が起きたか視認もできず、見えるほどの縁があった人間はあまりの恐怖に気絶していた。
万人に恐れられた鬼が進む先は、国会議事堂の斜向い、首相官邸。岸信介が立て籠もる、総理大臣のための住居であった。
――
デモ隊に首相官邸を取り囲まれても、岸は首相官邸から動こうとしなかった。
「総理! お願いですから避難してください!」
「バカヤロー! アカどもにビビって政治ができるか! ワシゃあ意地でもここを動かんからな!」
秘書や警備員が岸を避難させようとするが、岸はソファに腰を下ろして堂々とタバコを吸っている。ここで岸が動けばデモ隊に屈したことになり、安保の先行きが危ない。そうなれば、自分の仕事に傷がついてしまうと、岸は考えている。
そんな事は許せない。デモ隊が官邸に雪崩込んでくるのならそれも結構。一人でも多く道連れにしてやろうと意気込んでいた。
「総理!」
秘書の一人が怯えた表情で部屋に駆け込んできた。
「なんじゃあ! とうとう
「そ、そ、それが、あ、あの人が……!」
秘書の返事はまるで要領を得ない。岸が訝しんでいると、入り口に人影が姿を表した。
「……おお」
それが誰かわかった時、岸は心底安堵した。チェーンソーを携えた、
「龍庵! B-29は見つかったか!?」
「ああ」
龍庵はゆっくりと近付いてくる。岸は立ち上がると龍庵に駆け寄り、その手を取った。
「そうか! やったのか?」
「ああ。B-29は東京湾に沈んだ。二度と浮かんでこないだろう」
その言葉を聞いて、岸の表情に少しだけ影が差した。
「積荷が気になるのか?」
龍庵はその変化を見逃さなかった。
「あ……い、いや。まあ、な。何かの拍子に浮かぶかもしれない、と思ってしまってな」
「浮かべば積荷を取り返せるからか?」
「何を言っている。B-29に積んであったのは爆弾だろう? そんなもの手に入れてどうしろっていうんだ」
「アンタがよく言ってた、『真の独立国家』……確か、侵略を受けない武力が必要だったよな? そのための道具だったんだろう、アレは」
「……違う! 違うぞ! アレはそういうものじゃあない! カネを生み出す装置で……」
言いかけた岸は、口を噤んだ。龍庵が岸をじっと見ていた。その手に握ったチェーンソーは、未だ唸りを上げていた。
嘘をついても、ごまかしても、エンジン駆動の刃は振るわれるだろう。岸は黙るしかなかった。
その様子を見た龍庵は、悲しげにため息をつくと、岸に背を向けて歩き出した。
「おい……どこへ行くつもりだ」
岸の言葉に龍庵は足を止め、考え込む。
「どこに、行けるかな」
答えにならない答えを返すと、龍庵は部屋を出ていった。
それが、岸が龍庵の姿を見た最後だった。
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