1960 東京上空 B-29
《ノブスケ。非常に言いにくいのだが、来日を延期したい》
受話器越しにその言葉を聞いた時、岸は心臓が止まったような思いがした。
「待ってください。今、延期したら自然承認に間に合わなくなります」
《承知の上だ》
安保改正の瞬間を、アイゼンハワー大統領と共に見届ける。日米の新しい同盟を知らしめるものとして、これ以上ない光景だ。それができなくなる。
《ノブスケ。私が行かなかったからといって、安保条約が無効になるわけではない。
我が国と君の国が手を取り合った。その事実だけで世界は感動するだろう。それで十分じゃないか》
宥めるようにアイゼンハワーが言う。確かに、大統領の訪日中止が条約破棄に繋がるわけではない。
だが、安保の改正は岸が目指した『真の独立国家』への第一歩である。戦後、公職を追放されていた時から目指してきた偉業に傷をつけたくなかった。
「しかし……」
《それとも、私にハガティと同じ目に遭え、というのかね?》
アイゼンハワーの声色が変わった。
彼が言っているのは、5日前、羽田空港に到着したハガティ大統領報道官がデモ隊に囲まれて身動きが取れなくなった事件だ。あの事件はデモ隊の勢いを表すとともに、日本側の警備能力の無さを露呈させていた。
《デモ隊だけではない。怪異の勢いも増しているだろう。
B-29という、あるかどうかわからない怪異を追いかけるより、まずは現実の問題を片付けた方がいいんじゃあないか?》
言外に、B-29捜索に回した人員を首都警備に戻せという要望だった。
だが、全てを知る岸にはそれができない。B-29が見つからなければ、安保どころではない。世界が終わる。
「……治安は必ず回復させます。もう少しだけ待ってください」
《ああ、もちろん。できる限り待とう。
だが、物事にはタイムリミットがあるということを忘れないでくれ》
電話が切れた。静かになった執務室で、岸総理はしばし天を仰いだ。
それから再び受話器を手に取った。繋ぐ先は内線。秘書である。
「私だ。赤城長官を呼んでくれ」
――
速い。高い。寒い。
B-29の尾翼に引っかかった龍庵は、生身一つで空中旅行を強制されていた。
眼下には雲、頭上には満月。高度は既に6000m、富士山すら飛び越せる高さだ。
吐く息も凍る寒さの中、龍庵は鎖を掴み、一手一手確実に手繰り寄せる。手を動かす度に、少しずつB-29が近付く。
半分ぐらいまで来た時、B-29が唸り声を上げた。尾翼下部の機銃が、龍庵に狙いを定めていた。
龍庵は息を呑む。空中で避ける手段は無い。
発砲。衝撃。龍庵の体が跳ね上がる。銃弾は体ではなく、鎖に当たっていた。太い鎖は銃撃に耐え、予測不可能に跳ね回る。
暴れる鎖に振り回された龍庵は、最後にはB-29の背面に叩き付けられた。
風が吹き付け、龍庵を吹き飛ばそうとする。龍庵は背中のチェーンソーを抜き放つと、B-29の背に突き立てた。装甲がひしゃげる。満州で戦った戦車よりも薄い。
更にチェーンソーのエンジンを掛ける。刃が回転を始め、B-29の背中に穴を開けた。
だが、この程度で超空の要塞は沈まない。ならば内臓を引っ掻き回す。龍庵は裂け目をこじ開け、機内へ飛び降りた。
機内は無人だった。機銃座にも、通信機にも誰も座っていない。そして、妙に狭い。外から見た大きさの1/3くらいしかない。
龍庵は周囲を見回すと、おもむろに機種方向の壁にチェーンソーを突き立てた。
壁を斬り裂くと、向こう側にも空間があった。床に切れ目がある。爆弾の格納庫らしいな、と考えた龍庵は違和感を覚えた。
爆弾が少ない。東京を爆撃するというのだから、この部屋一杯の爆弾があってもいいはずだ。しかしこの格納庫には、抱えて持てる大きさの爆弾が一個置いてあるだけだ。
よほど強力な爆弾なのか。そう考えた龍庵は、一瞬後、恐ろしい可能性に思い当たり身を震わせた。
「そんな、バカな……」
もしそうだとすれば、辻褄は合う。余計な爆弾は必要ない。B-29という怪異が使われることも必然だ。それに、岸がなんとしてでも止めようとしていたことにも納得がいく。
いや、しかし。
龍庵は疑問を抱く。そうだとしたら、岸が知っていたことになる。何故? あるはずの無いものがあると、岸は確信していた。誰にも言えない後ろめたい理由。
まさか、あいつは。
何にせよ、これを東京に落とすわけにはいかない。龍庵は更に前に進み、次の隔壁をチェーンソーで斬り裂いた。その先は操縦室だった。だが、ここにも誰も乗っていない。操縦桿やペダルがひとりでに動いて、B-29を操作している。
「そういえば怪異だったか……!」
あまりに良くできていたから、普通の飛行機だと思い込んでしまっていた。このB-29は怪異だ。日本国民が戦時中に受けた恐怖が具現化したものにすぎない。
思えば日本は、どれだけこの飛行機に苦しめられたのだろうか。家を焼かれた。財産を焼かれた。家族を焼かれた。畑を焼かれた。
生き残った日本人の戦争に対する恐怖と怨嗟を向ける先は、この超空の要塞だったのだろう。
再び、いや、三度日本を焼かせるわけにはいかない。龍庵はチェーンソーを振りかぶった。コクピットを斬れば制御を失うはずだ。それでダメなら胴体を、更に翼を斬るつもりだった。
突然、B-29が大きく揺れた。龍庵はバランスを崩し、壁に体をぶつけた。B-29が身を捩ったのかと思ったが、違う。天井から重い音が聞こえる。まるで、何かが殴りつけているような。
見上げていると、天井が耳障りな音を立ててめくれた。隙間から冷たい風が吹きつける。金属が引き裂かれる音と共に、天井の裂け目が広がる。
その向こうに悪魔がいた。炭のように黒い体は狒々のように大きく、固い筋肉に包まれている。腕は丸太のように太く、3本しかない指には剣のように鋭い爪が生えている。目は爛々と赤く、牙の生えた口からは煙を立てる涎が滴り落ちている。そして、翼だ。体より大きな翼が、月の浮かぶ夜空を覆っている。
見覚えがあった。15年前、満州で
「何でここに!?」
答えのかわりに、悪魔の腕が振り下ろされた。龍庵は後退する。悪魔の爪はB-29の装甲を容易く斬り裂き、床に深々と突き刺さった。下がらなければ、龍庵は押し潰されていただろう。
「やる気か」
なぜここに悪魔がいるのかは知らないが、襲いかかってくるのなら迎え撃つまでだ。揺れるB-29の上で、龍庵はチェーンソーを構えた。
――
6年前、日本に軍隊が復活したと言われている。
正確には軍隊ではない。その名を自衛隊という。軍隊のように動き、軍隊のような装備を持つ集団だが、あくまでも専守防衛に務める軍事組織だ。
旧軍の反省を活かし、自衛隊は文民統制が基本だ。指揮権は内閣にある。そして内閣の意を受けて動くのが、自衛隊の属する防衛庁だ。
今の防衛庁長官は
「赤城長官。総理から大至急、面会したいとお電話が」
「うん」
その連絡が来たとき、赤城は白米のおにぎりを食べていた。一粒残さずきれいに食べ、湯呑みのお茶も飲み干すと、赤城は岸の下へと向かった。
「おう、来たか。待ってたぞ」
執務室にはタバコの煙が充満していた。灰皿には燻るタバコが何本も積まれている。
「総理、何か御用でしょうか?」
「うん。まあ、な。
赤城くん。首都圏の自衛隊は今、何してる?」
「……練馬の第1師団、習志野の第一空挺団を始め、全部隊待機中であります」
首都の混乱を鑑みて、自衛隊は即応体制を整えている。赤城はこの部屋に来る前に確認していた。
「そうか。そいつは……丁度良かった」
岸は窓の外を伺った。国会議事堂を囲むデモ隊が、まるで海のように広がっている。
「議事堂を囲むデモ隊が、決定的行動に出るのも時間の問題だ。警官隊だけでは抑えきれん」
この海は凪のように静かな海でもなければ、北国のように冷たい海でもない。マグマのように沸騰し、今にも津波となって押し寄せかねない危険な海だ。すぐにでも防波堤を築かねばならない。
「そこで、自衛隊の治安出動を命令しようと思うのだが……どうかね、赤城くん。君の意見は?」
岸はこの時を見越して、子飼いの部下である赤城を防衛庁長官に据えたのだろう。自分に反対する勢力が立ち上がった時、速やかにそれを排除できるように。
「確認いたしますが……自衛隊を出動させてでも、制圧すべき状況なのでしょうか」
「当然だ。この前のハガティ事件は知っているだろう? アメリカの政務官があわやデモ隊に殺されかけたんだ。いや、もうあれはデモ隊ではない。暴徒だ。
奴らは安保反対をお題目に、日本の国体を破壊しようとしている。しかも、怪異と手を組んで、だ。
こうしている間にも、暴徒たちによって議員が襲撃されているかもしれん。一刻も早く事態を収集するために、警察だけではなく自衛隊も動員するのは、当然だろう?」
「それなら……」
赤城は大きく息を吸い込み、できるだけ気を落ち着けてから答えた。
「それなら、国民に銃を向けることになりますが、よろしいですか?」
岸の動きが止まった。
「……赤城くん。あくまでも治安維持だ。武器を使えとは言っていない」
「この状況、武器を使わなければ制圧不可能です」
「冗談はよしたまえ。警察とは違う、戦闘訓練を受けた1万人だぞ? デモ隊程度簡単に……」
「たったの1万人なのです。総理。デモ隊の1/10しかいないのです」
赤城は先日、幕僚部と司令部を集め、このデモに対する自衛隊の動きを話し合った。もしも岸が治安出動を命じた場合、自衛隊はどのような作戦に基づいて動くのか。どの程度の装備が必要になるのか。そういったものを確認し合った。
結果、非武装、非折衝兵器による制圧は不可能だと判断した。デモ隊は民間人だが、鉄パイプや角材、石、火炎瓶などで武装している。
更に暴徒に紛れて怪異が襲ってくることを考えると、殺傷兵器、即ち銃の使用は不可欠だと結論付けた。
「ならば威嚇射撃に留めて……」
「威嚇すればデモ隊は激昂し、一斉に突撃してきます。そうなれば自衛隊は応戦しなければなりません。制圧完了までに少なくとも千人以上が死傷するでしょう」
それでも被害が少ない場合の試算だ。最悪の場合は暴徒が過激派と合流して都内各地に立てこもり、民間人を巻き込んだ長期戦となる。そうなれば死者数は倍以上になるし、経済的、政治的影響も計り知れない。
「安保改正の自然承認が目前の今、流血は不要です。それでも、アイゼンハワー大統領を呼び寄せるために、国民を生贄にすることを厭わないと言うのなら……」
「もういい!」
赤城の言葉を岸の怒声が遮った。
「……握り飯に釣られて議員になった若造が、いっぱしの口を利くようになったもんじゃ」
「お米の事を考えてられれば良かったんですけどね。不慣れな軍事に手一杯で、言葉に気を付ける余裕がないんですよ」
岸は言葉を返さず、新たなタバコを手に取ると、赤城に背を向けた。
「失礼いたします」
赤城は折り目正しく一礼すると、執務室を出ていった。
「わぁっとるんじゃい、そげなこたぁ」
咥えたタバコが半分ほど灰になったころ、独りになった岸はぽつりと呟いた。
敗戦から15年。内閣を追い出され、巣鴨に投獄され、公職から追放され、会社は売上が伸びず、立てた候補は全滅し、総裁選には僅差で負けた。
だが、岸は諦めずに前に進み続け、遂に総理大臣の地位を得た。今まで這い進んできた人生の結実がここだ。一度でいいから、一点の瑕疵も無い成功が欲しい。
単なるこだわりだとわかっている。赤城にも、アイゼンハワーにも、誰にも理解されない事だとはわかっている。
いや、一人だけ、わかってくれるかもしれない男がいた。
「龍庵よ」
ここにはいない男に向かって、岸は呟いた。
「お前なら、チェーンソーのプロなら、何とかできんかの」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます