1960 東京 安保闘争
1960年5月20日、日米安保条約の改正案は強行採決された。
座り込みを行っていた社会党員は警官隊によって排除され、屈強な議員や秘書が閉じ込められていた清瀬議長を助け出した。怒号が飛び交う中、議長は会期の延長を一方的に宣言。翌日には改正案が可決された。
この議会の様子は、およそ民主主義からかけ離れた光景だった。反対する議員は警官隊によって引きずり出され、秘書と言うには屈強すぎる男たちがボディーガードのように議員を守る。その様子を、岸総理大臣はタバコをふかしながら笑って見ている。
これがテレビによって生中継された。新聞の文章と写真ではなく、動画と録音によって各家庭に届けられたのである。
ニュースを見た市民たちは危機感を抱いた。こんなものが国会なのか。こんな形で決められる安保条約というのは、悪いものではないのか。漠然とした不安が、焦燥感を煽り立てる。だが、具体的に何をどうすればいいのか、当事者でない彼らにはやるべきことがわからない。
続いてテレビでは、国会議事堂の前でデモを行う反対派の様子を映し出した。視聴者には、それこそがやるべきことであるかのように見えた。
「安保反対ー!」
「岸やめろー!」
「わっしょい! わっしょい!」
「ちくわ大明神」
「日本に戦争させるなー!」
「誰だ今の」
議事堂前のデモ隊は強行採決の後から急増し、6月になる頃には10万人を超える大規模集団になっていた。
新安保条約は30日が経過すれば自然成立する。タイムリミットは6月20日。それまでに何としても岸を退陣させようと、デモ隊は日に日に過激化していった。
その裏で、地下に潜む怪異たちも活動を活発化させている。過激派や強盗に見せかけて寺社仏閣を襲撃し、東京の霊的防御を著しく弱めていた。更に議員や権力者を襲って、物理的な混乱も拡大させていた。
怪異の活動を支えているのは、デモ隊の参加者であった。彼らが抱える漠然とした不安感、恐怖心、そういったものが怪異に力を与えている。一人ひとりの影響は僅かだとしても、10万人も集まれば総量は無視できないものとなる。
更に霊能者の見立てによると、怪異がデモ隊を捕食しているかもしれないとの事だった。デモの参加者がどこから来て、いつまで参加していたのかといった記録は取られていない。仮に100人が食われたとしても、それがバラバラの場所なら誰も気付かないだろう。
そして100人もの生贄が捧げられたと考えると、それによって動く怪異は夥しい数となる。
この末法じみた状況は、岸にとっては甚だ不本意であった。何しろアメリカ合衆国大統領アイゼンハワーを日本に招待する計画があるのだ。このままではとても大統領を来日させることはできない。
そこで岸は、自らのコネを最大限に駆使して事態の沈静化を計った。
まずデモ隊を一度に纏めて相手するのは無謀だ。そこで勢力の分断を図った。
「お努めご苦労さまです。こちらで無料の炊き出しを行っております」
「和泉共生の会です。お悩みのある方はご相談に乗りますよ」
議事堂から少し離れた公園で、宗教法人『和泉共生の会』が休憩スペースを作り、炊き出しを行っている。そこでは教祖の浦塚晴人と始めとする教団員たちが、集まったデモの参加者に説法を行っていた。
デモの参加者全てが政府の打倒を熱心に考えているわけではない。何となく将来が不安だから、安保というものが危なそうだから、皆がやってるからという人々もいた。そうした参加者に晴人の説法は効果覿面であった。
同様に、都内各地で様々な宗教団体が活動を行うことで、デモ隊の勢いは弱まった。
続いて、犯罪行為を行うほど過激化したデモ隊の一部を警官隊が取り押さえた。派手な絵面を求めたマスコミがこぞって報道する。
これを見た国民は、安保でもが危ないものだと思うようになった。新規の参加者の足は鈍り、ついていけないと帰宅する人も出始めた。
一方、都内各地に出没する怪異に対しては、全国各地から怪異退治のプロを呼び集めてパトロールさせた。
「おつかれさーん! ワイの方は終わったけども、そっちは儲かってまっか?」
「こっちも終わったぞー」
千代田区番町で怪異討伐に当たっていたのは、
彼らの後ろには、おびただしい数の怪異の死体が転がっている。いずれも安保闘争の裏側で暗躍していた怪異たちだ。
そして彼らの前には、その怪異たちが潜んでいた異界がある。
「番町七不思議筆頭、『吉田屋敷』かぁ」
20世紀の東京には似つかわしくない、古めかしい武家屋敷。江戸時代、悪徳と殺人が詰め込まれたという『吉田屋敷』。その伝説が異界として顕現していた。
「こいつはほっとけんわ。金造くん、ひとっ走りして岸さんに電話して、応援呼んできて」
「千さんはどうするんですか?」
宗壁はチェーンソーを構えると、屋敷の中から出てきた、薙刀を持った女を睨みつけた。
「いいとこのお嬢さんの相手してくるわ」
――
日本にはチェーンソーのプロがいる。チェーンソーのプロとは、チェーンソーを使って暴力行為を繰り出し、敵対者や怪異を排除する人間のことだ。
だが、チェーンソーは日本で生まれたものではない。似たような道具が古代からあったとしても、機械としてのチェーンソーは1927年のドイツで発明されたものである。海外にチェーンソーがある事はおかしくも何ともない。
つまり、海外にチェーンソーのプロがいるということだ。
アメリカ合衆国大統領アイゼンハワーはチェーンソーのプロを知っていた。何故なら彼はテキサス州出身だからだ。
テキサスは全米で最もチェーンソーが盛んな州である。米国のチェーンソーのプロの90%はこの州にいると言っても過言ではない。
そんなテキサス出身のチェーンソーのプロの一人、デイビット・マッケンジーは、特別に派遣されたアメリカ合衆国海兵隊と共に、羽田空港の守りを固めていた。
数日後、この空港にジェイムズ・ハガティ大統領報道官が、更にその後、アイゼンハワー大統領が降り立つ予定だ。万一が起こらないように徹底的に警備する必要がある。
だが、デモ隊は海兵隊で対応できても、縁のない怪異は防げない。そこでチェーンソーのプロであるマッケンジーが派遣されたのだ。
実際、マッケンジーは羽田空港に潜んでいた怪異を見つけ、チェーンソーで斬り裂いていた。航空燃料を保管するドラム缶の中に、多数の怪異が潜んでいたのだ。
恐らく、アイゼンハワーの到着に合わせて羽田で事件を起こし、混乱を広めようとしていたのだろう。だが、マッケンジーの直感と嗅覚が、相手の企みを上回った。
安全は確保されたはずなのだが、大統領は未だに訪日をためらっていた。マッケンジーが伝え聞いた話によると、"嫌な予感がする"らしい。
ドワイト・D・アイゼンハワーは、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を勝利に導いたアメリカ陸軍元帥である。その能力と運勢は、同じ元帥であったマッカーサーやマーシャルに劣るものではない。そんな彼が懸念を抱くとなると、何らかの危険があるのだろう。
「しかし、何が怖いんだ? 大統領閣下は」
マッケンジーは首を傾げるばかりである。アメリカ軍とチェーンソーのプロ、それに日本の自衛隊と怪異の退治人。今の東京にはかなりの戦力が集まっている。怪異の軍勢が集まっているのは懸念点だが、それも毎日摘発されて、次第に数を減らしている。
これ以上の恐怖となると、来日に合わせてソ連が宣戦布告して、東京に軍隊を送り込んでくるくらいしかない。だが、そんな大規模な攻撃があるならホワイトハイスが察知していない訳がないし、"嫌な予感がする"などという曖昧な表現はしないはずだ。
いよいよもってマッケンジーが悩んでいると、どこからか諍いの音が聞こえてきた。
何かあったのだろうか、と様子を見てみると、羽田空港の職員と海兵隊が何やら言い争いをしていた。職員はファイルを手に海兵隊に詰め寄り、海兵隊は両手を上げて首を横に振っている。
「どうしたんだい?」
「ああ。トラブルですよ。部品が足りないそうなんです」
「ほう?」
遠巻きに見ていた海兵隊員が答える。
「保管していた部品が無くなって、我々が持ち出したのではないかと疑っているんです」
「なぜ我々が疑われる。ただの泥棒の仕業かもしれないだろう?」
航空機の部品というのは総じて高額だ。金目当てに盗まれることも有り得る。もっとも、チェーンソーのプロと海兵隊が警備する空港に泥棒が入れるか、という問題はあるが。
「いや、それが……無くなったのがB-29の部品だったんですよ。だから同じアメリカ軍の我々が持っていったのではないか、と言っているんです」
「は?」
海兵隊員の言葉に、マッケンジーは困惑した。
B-29。15年前、この日本へ戦略爆撃を行った超大型爆撃機である。当時は『超空の要塞』と呼ばれ、重厚な装甲と無数の機関銃、そして常識を覆す高高度飛行性能によって日本軍機を寄せ付けなかった。
だが、それは15年前の話である。
「あれってもう退役したんじゃなかったかい?」
「再来週ですね。今月の21日に正式に退役予定です」
航空技術は日夜発展し続けている。航空機はどんどん大型化し、ジェットエンジンが本格的に導入され、ホーミングミサイルも配備されるようになった。
B-29にもB-52という後継機ができ、とっくの昔に時代遅れとなっている。そんなものの部品など、くず鉄と変わりはしないだろう。
「誰かが記念に盗んだのか?」
「我々は海兵隊であります。空軍ならわかりますが」
「じゃあ、日本人が?」
「それこそ無いでしょう。奴らにとっては死神のようなものですから」
「死神ってなあ、君……」
怪異じゃあるまいし、と苦笑いで続けそうになったマッケンジー。その笑みが凍りついた。
「どうしました?」
不意に動きを止めたマッケンジーに、兵士が心配そうに声をかける。
「いや……いや、すまない。急用を思い出した。ちょっと電話してくるよ」
「ハッ。お気をつけて」
海兵隊員からの敬礼を受けて、マッケンジーは踵を返した。
考え過ぎと思いたかった。15年も前の話だ。今の日本の若者には縁遠い話だろう。だが、大部分の日本人はB-29を恐怖の象徴として見ている。退役直前の今になってもだ。
つまりB-29は、この日本という国の中に限って、怪異となる条件を満たしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます