1960 国会議事堂 隠形鬼
1960年1月、総理大臣岸信介の悲願が達成された。新安保条約の調印である。これにより、在日米軍は日本を守る義務を背負うことになった。先の大戦のように、戦時に日本が世界から孤立することは無くなった。
だが、戦後民主主義国家において、総理大臣が調印しただけでは条約は成立しない。国会で審議にかけて、条約を承認させなければならない。
そして日本国内では、新安保条約に対する猛烈な反対運動が展開されていた。
最初に反対したのは社会党と共産党である。彼らは、新安保では在日米軍が日本を守る代わりに、日本が在日米軍を守らなくてはいけない事を問題視した。この条約が成立すれば、アメリカの戦争に日本が巻き込まれる。戦争放棄の理念に反していると主張した。
これを受けて、一般市民の間でも安保に対する反対感情が巻き起こった。15年前の悲惨な戦争は記憶に新しい。B29によって家や家族を焼かれた者も大勢いる。全国各地で安保反対のストライキが巻き起こった。
そこに左翼過激集団が加わったことで、事態は勢いを増す。資本家の親玉たるアメリカの影響力をこれ以上増やすまいと、過激派はデモと呼ぶには過激すぎるテロ活動を行い始めた。
慌てたのは社会党と共産党である。せっかく市民が味方についたのに、市民を巻き込むテロ活動を行われては支持を失ってしまう。裏から手を回して止めようとしたが、過激派は意に介さずますます勢いづいた。
ここで共産党は秘密裏にソ連の工作員に接触した。彼らが過激派に活動資金を渡して、過激派を煽っていると考えたからである。
すると、国内のソ連工作員からは思わぬ答えが返ってきた。
「確かに資金提供はしている。だが、過激派の勢いは我々が渡した資金だけでは説明がつかない。何か他に、彼らに味方している勢力がいる」
――
調印から4ヶ月後、5月19日。
国会議事堂は騒然としていた。安保に反対する社会党の議員と秘書合わせて400人以上が、衆議院議長室の前に座り込んでいた。
部屋の中には議長の清瀬が閉じ込められている。このままでは安保条約承認のための審議が進まない。
「警官隊はまだ来ないのか?」
「何分数が多く……まだ時間がかかると思われます」
国会議事堂の一室に、岸と主要議員たちは集まっている。議長が解放されるまでは、彼らは何もできない。タバコを燻らせ、報道陣のカメラに笑いかけて余裕を見せているが、内心歯痒く思っていた。
「失礼。少し、外の空気を吸ってきますよ」
岸は立ち上がると部屋を出ていった。秘書団が岸の周りを守る。その中には龍庵の姿もあった。
廊下を歩き、裏口から外に出て庭へ。そこで岸は茫洋と空を見上げる。遠くから、座り込みを行う社会党員の怒号が聞こえてくる。
「なあ、龍庵」
不意に、岸が龍庵に声をかけた。
「お前、チェーンソーで社会党の連中を脅せないか?」
数人の秘書がギョッとして龍庵を見る。そうしかねない人間だと、彼らは理解している。
しかし龍庵は首を横に振った。
「俺のチェーンソーはそういうものじゃないです」
「ああ、そうか。そうだったな」
それだけ言うと、岸は黙り込んだ。
東京タワーでの一件以来、岸と龍庵の間には微妙な空気が流れていた。龍庵が岸の仕事を断る場面が度々あった。それは怪異憑きを探して斬ることであったり、岸に反抗的な人間を始末することでもあった。
今ではよほどのことが無い限り、龍庵に仕事は回ってこない。彼以外にも岸の依頼を受けられる人間はいる。
それなのになぜ岸は龍庵を側に置き続けるのか。その理由は周りの人間にはわからない。
岸がタバコを吸っていると、議事堂の中から初老の警備員が走ってきた。
「どうした?」
「中に戻ってください。大変です」
「だからどうした」
「議事堂の結界が破られました」
警備員の言葉に、龍庵は表情を変えた。
「まずいな。中に戻るぞ」
岸は秘書に守られながら議事堂の中へ逃げ込む。
一方、龍庵はそれに続かず、裏口の側にある倉庫に向かった。ドアを開けると、中にあった剪定用チェーンソーを手に取った。
エンジンを掛け、裏口の前に立ちはだかる。
風が唸った。
龍庵が掲げたチェーンソーに衝撃が奔った。車がぶつかってきたかのようなパワーに、龍庵は吹き飛ばされる。
地面を転がった龍庵は、その勢いのまま立ち上がった。油断なくチェーンソーを構える。
相手の姿は見えない。だが、龍庵は気配を感じ取っていた。人型。身長は2m以上。金棒のようなもので武装している。
不可視の怪異が金棒を振り上げる気配がした。龍庵は横に飛んで攻撃を避ける。そのまま前に出ると、チェーンソーを突き出した。
虚空から血が吹き出した。手応えありだ。
すぐさま後ろに下がり、横に振られた金棒を避ける。見えなくとも、人型なら動きはおおむね予想できる。
金棒をやり過ごした龍庵は、踏み込んでチェーンソーを振り下ろした。硬いものを斬った感触。恐らく腕だ。
一気に畳み掛ける。チェーンソーを振り上げ、前に突き出す。胴の辺りに深々と突き刺さった。そのまま力任せに振り上げる。
血の花が虚空に咲いた。
頭から血を被りながら、龍庵は残心する。他に怪異の気配はない。大きく息を吐いて構えを解くと、チェーンソーのエンジンを止めた。
チェーンソーを倉庫に戻し、龍庵は裏口に向かう。さっきの警備員が待っていた。やや怯えながら、龍庵にタオルを渡した。
龍庵はタオルを受け取り、返り血を拭き取る。
「あれを一人で倒すとは……」
「見えないだけだろ」
見えないことは厄介だったが、白兵戦の腕前はそれほどではなかった。大まかな気配さえ感じ取れれば、倒すのは容易い。
「それより、他にはいないだろうな?」
「う、うむ。あの鬼一匹だ。だが……」
「この一回で済むはずがない、か」
この安保闘争に関わっているのは、政治家や活動家だけではなかったようだ。騒乱に紛れて怪異が政治家たちの命を、そして日本の混乱を狙っている。
本気で取り掛からなければならない。気を引き締めた龍庵は、状況を報告するために岸の下へ戻っていった。
――
国会議事堂駅。去年開通したばかりの、地下鉄有楽町線の駅だ。
この駅には様々な噂がある。『議員専用の秘密通路が存在する』というものや、『有事の際は地下シェルターになる』、『線路は戦車が走れるようになっている』といったものだ。政治の中枢に最も近い駅だからこそ、あれこれ憶測が広まる。
こうした噂を核にして、広大な異界が生まれていた。
そしてこの異界にはおびただしい数の怪異が存在していた。闇雲に集まったわけではない。ある怪異の王によって率いられた軍団だ。
王の名は
終戦によって彼を抑えつけていた神威が弱まり、千方は復活した。千年前の復讐として京都を襲ったものの、『道成寺』の暴走によって手痛い被害を受けたため撤退した。
それから10年、日本という国を貶めるため、陰ながら暗躍してきた。全国各地の怪異を集め、組織を作った。富豪を洗脳し、過激派に資金提供させた。部下の式神を作って売る、内職まがいのこともした。
そうした涙ぐましい努力の結果、日本は大いに荒れた。あと一息だ。安保闘争の最中、総理大臣が暗殺されるという大事件が起きれば、この国は大混乱に陥る。そこで千方は配下の隠形鬼を国会議事堂に送り込んだ。
しかし。
「隠形鬼が倒された」
千方の言葉を聞き、居合わせた金鬼、水鬼、風鬼は一様に驚いた。
「そんな、馬鹿な……」
「アニキがやられたっていうのかい!?」
「油断して術を解いたのか?」
隠形鬼はその名の通り、姿を消すことができる鬼である。普通の人間ならそれだけで対処できない。もし気配に気付いても、金棒を振り回す身長2m超の鬼をどうにかできるわけがない。
一部の例外を除いては。
「岸が連れている『チェーンソーの鬼』は、国会議事堂にいたのか」
その噂は千方も知っていた。人も怪異も斬り殺す、チェーンソーを持った鬼がいると。
だから、今日に備えて撹乱工作を行っていた。羽田空港に怪異を送り込み、チェーンソーの鬼がそちらに向かうようにした。結果、確かにチェーンソーを持った人間が羽田空港に来たようだが、別人だったらしい。
「どうする、大将」
「隠形鬼を失ったのは私の過ちだ。仇は必ずとる。『太陽』を使うぞ」
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