1958 東京タワー 邪視 (後編)

 今日の大一番が終わった。テレビには堂々と土俵を降りる横綱が映っている。

 テレビがあれば、両国国技館に行かずとも相撲を見ることができる。しかもこれは中継ではなく録画という奴で、数時間前に終わった取組だ。見逃しても後から見れる。便利な時代になったものだ。


 そのうち、テレビで映画を見れるようにもなるのだろうか。ぬるくなったお茶を飲みながら、龍庵はそんな事を思った。多くの人に見られるようになるなら、映画業界はもっと活発になるだろう。

 以前、満州に行った時の事を思い出す。甘粕は苦労して映画を満州で流行らせたみたいだが、彼がもしこの状況を知ったらどんな顔をするのだろうか。簡単に映画が広まると喜ぶだろうか。

 それとも、龍庵のように、怪異が簡単に広まってしまうと警戒するだろうか。


 魔法瓶から新しいお茶を注ぐ。眠気覚ましも兼ねた、濃いめの緑茶だ。これからこの東京タワーの送信機室で、夜通し見張りをしなければならない。


 2週間前から、各地の電波塔には怪異退治のスペシャリストが派遣されていた。東京タワーには龍庵の他に3人の退治屋が配属されていて、1日ごとに交代で寝ずの番を行っている。龍庵は今日が3回目の見張りだ。

 これ以上の被害が出る前に、何としても止めなければならない。怪異を使った人殺しを、これ以上野放しにする訳にはいかなかった。


 人殺し。その言葉が龍庵の頭に引っかかった。思い出すのは2年前、大阪の『全日本赤外套革命戦線』と戦った時の事だ。

 あの時、赤マントたちの一部が子供を人質にして立てこもった。龍庵は彼らと戦い、何とか子供を傷つけずに解放することができた。しかしその間に、リーダーの壬午苑じんごえんを始めとする、一部の赤マントたちが逃げてしまった。


 岸は壬午苑が逃げたことに腹を立てていた。龍庵に直接文句を言うような事はなかったが、酒の席で、子供ごと壬午苑を斬ればよかったとこぼしたらしい。

 それはないだろう、と龍庵は落ち込んだ。人殺しはしょうがないとして、子供ごと他人を斬るほど堕ちた覚えはない。

 それとも、龍庵はそんな人間だと思われているのだろうか。長い付き合いの岸にすら。


 温かい茶を飲んでいるのに身震いしてしまう。自分は敵と味方の区別もつかない狂獣でもなければ、望んで人を殺す殺人鬼でもない。れっきとした人間だ。

 だが最近、他人との距離を感じる。何かがあったわけではない。ただ、自分の周りに人が寄り付かないような気がする。居酒屋で飲んでいても近くの席には誰も座らないし、道行く人にも避けられているような感じがあった。

 唯一変わらないのは岸だけだ。いや、岸も最近は仕事以外では話していない。総理大臣だから忙しいと思っていたが、ひょっとしたら、遠ざけられているのか。


 それを寂しいと思うのなら、自分から人に近付いていけばいいのだろうか。だが、龍庵にはそのやり方がわからない。村を出てから10年以上経つ。その間、ずっと岸の下で怪異退治の仕事を続けてきた。いまさら仕事以外で人と話せるのか、自信が持てない。

 だから龍庵はテレビを見る。画面は人のように逃げない。多くの人のざわめきを、誰かの言葉を、いつも同じ距離から届けてくれる。

 しかし、夜が更ければ番組も終わり、カラーバーが映し出される。そうなれば龍庵は独りだ。毛布にくるまり、持ち込んだ新聞や雑誌を読みながら、朝が来るまで孤独をごまかすしかない。


 微かに音が聞こえた。鉄の扉が閉まる重い音だ。非常階段の扉。タワーの警備員はこの階に入らないようにしている。ここに来る可能性がある人間は一人しかいない。

 龍庵は毛布を跳ね除け、チェーンソーを手に取った。音を立てないようにそっと扉を開けて、廊下に出る。耳を澄ませば微かに足音が聞こえる。忍び足になろうとして、音を消しきれていない歩き方。

 間違いない。目方が来た。


 龍庵は廊下の角までにじり寄り、チェーンソーを構えて相手が来るのを待ち構えた。エンジンは掛けない。そのまま殴りかかるだけでも傷は与えられる。怯んでいる間にエンジンを掛けて、改めて斬り殺すつもりだ。

 足音はすぐそこまで来ている。後少しで、目方は角から姿を現すだろう。『邪視』を向けられる前に先手を取る。護符に頼るつもりはない。


 角から動くものが出てきた。反射的にチェーンソーを振り下ろす。刃が当たったが、手応えは全く無かった。

 ハンカチだ。


「ッ!」


 欺かれた。

 咄嗟に角から飛び出す。目方は数歩先にいた。既にサングラスに手を掛けている。

 チェーンソーのエンジンを掛ける。間に合うか。


「お勤めごくろうさん。死んでくれや」


 龍庵が動く前に、サングラスが外された。

 何の変哲もない普通の黒目。その視線が龍庵の魂を鷲掴みにした。凄まじい喪失感が龍庵に伸し掛かる。生きていることに対する絶望。死ぬことしか考えられなくなる。


 激痛。


「ッ!?」


 胸元に焼けるような熱さを感じて、龍庵は我に返った。


「おい、マジかよ……!」


 目方は目元を抑えて怯んでいる。


「東京タワーは墓場を潰して造ったって聞いたけど……ホンモノが出るなんて聞いてないぞ!」


 龍庵は胸に手をやる。護符を提げていた辺りだ。目方の言葉の意味はわからないが、どうやら助けられたらしい。

 このチャンスを逃すわけにはいかない。チェーンソーを振り上げて、目方に斬りかかる。目方は大慌てで後ろに下がってチェーンソーを避けた。避ける動きは素人そのもの、まともな斬り合いなら後れを取ることはない。


「させるかっ!」


 目方が再び睨みつけてきた。途端に、龍庵の体に重圧がかかる。体が死にたがっている。


「おおお……!」


 龍庵は歯を食いしばって、勝手に動こうとする体を抑え込む。胸元の護符が熱い。いつまで保つか。


「ふんぬ、うぅ……!」


 目方も苦しんでいる。目から血が流れている。相当な負担がかかっているのだろう。護符が勝つことに賭けて耐え続けるか。

 龍庵はそうしなかった。一歩前へ踏み出す。目方が怯んだように仰け反る。一歩一歩、確実に。自分の喉をチェーンソーで貫きたい衝動に逆らって歩を進める。目方はジリジリと後ろに下がる。その背が廊下の壁に当たった。目方の視線が一瞬逸れる。重圧が軽くなる。龍庵は気合を入れて体を動かし、目方に飛びかかった。


「チイッ!」


 目方が背中に手をやった。取り出したのは小振りなナイフだ。完全に予想外だ。邪視以外の武器を用意していたとは。龍庵は切り払おうとするが、邪視のせいで動きが鈍い。体を横に投げ出して、強引に避ける。

 立ち上がると、目方は数歩離れたところへ下がっていた。そして、龍庵を真っ直ぐに見つめてきた。


「ぐうっ……!」


 生きていることに嫌気がさす。息をすることに吐き気がする。訳もなく今すぐ死にたくなる。

 それらを全て、目方への敵愾心だけで抑え込む。生きている理由はないが、怪異に黙って殺されるのは悔しい。どうせ死ぬなら目方を殺してからだ。


「やっぱ怪異相手じゃ、効きが悪いなあ……! こっちも本気だってのに、クソッタレ……!」


 目方が聞き捨てならない事を口走った。


「バカが……俺は人間だ……!」

「んなわけねえだろ、人間だったらとっくに死んでる……!」

「お守りのお陰だ。お前の『邪視』を対策した奴がいたんだよ」


 目方は虚を突かれたような表情をして、それから舌打ちした。


「だったら感触が違うっての。あれか、自分が怪異だって気付いてないタチか?」

「だから人間だ!」


 目方はデタラメを並べて、龍庵の心を揺さぶろうとしている。いつもなら聞く耳を持たないが、邪視の力で今にも自殺しそうな龍庵には有効だろう。


「山の神様を相手にした時と同じなんだよ! お前を見ると目が痛いんだ! だからお前は怪異なんだよ!」


 呑まれる訳にはいかない。龍庵は必死に反論する。


「俺は大鋸おおが龍庵りゅうあん! 過縄村出身の、れっきとした人間だ!」

「てめえみたいな人間がいてたまるか! 辞めちまえ!」

「うるさいっ! 辞めてたまるか!」


 怒りが、呪いを上回った。

 地面を蹴って目方に飛びかかる。その速さは目方の予想を上回ったのだろう。目方はチェーンソーの刃を避けきれず、太腿を斬り裂かれた。


「ぐああっ!?」


 目方は痛みのあまり、その場に膝をつく。トドメを刺そうとチェーンソーを振り上げる。

 その時、背後からさらなる重圧が襲いかかった。


「ッ!?」


 とっさにチェーンソーを投げ捨てる。もう少し遅かったら、そのチェーンソーを自分の腹に突き刺していただろう。

 龍庵はその場にうずくまる。後ろに誰がいる。首を締めようとする両腕を抑えながら、龍庵は後ろを振り返る。

 誰もいなかった。代わりに窓があった。蛍光灯で照らされた窓には、相対する龍庵と目方の姿が映っていた。窓を鏡代わりにすることで、邪視の効果を増幅させたらしい。


「ぐ、おお……っ!」


 だが、その代償は大きかったようだ。目方も両目を手で抑えている。指の隙間から赤い血が溢れ出している。


「しばらくは、使い物にならねえか……クソッ」


 目方は背を向け、手探りで廊下を進む。逃げるつもりだ。


「待て、おい……!」


 龍庵は立ち上がろうとしたが、その途端に自分への殺意が溢れ出し、動けなくなった。指一本でも動かしたら、その勢いで自分を殺してしまいかねない。


「待つかよ、バケモンが……!」


 息も絶え絶えな目方は、見えないながらも非常階段に辿り着き、扉を開けて逃げ出した。

 龍庵はその後姿を見送ることしかできなかった。

 俺はバケモノじゃない。そう言い返したかったが、その言葉すら自分を殺してしまうかもしれないと思うと、声を出せなかった。

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