白峯
巨大サワガニのハサミが振り下ろされた。人間を軽々と押し潰してしまう一撃を、アケミは後ろに跳んで避ける。轟音と共にアスファルトにヒビが入った。
「たあっ!」
アケミは反撃の一閃を放つ。チェーンソーによる斬撃を関節へ。だが、カニの硬い体に弾かれてしまう。
「……ッ!」
アケミの顔に悔しさが浮かぶ。さっきからずっとこうだ。いくらアケミが攻撃しても通用しない。弱いはずの関節を狙っているのに、全くダメージが入らない。
サワガニが間合いを詰めてくる。カニ歩きではない。普通に前進してくる。これも厄介なところだ。巨体の硬さをあてにして、図々しく接近してくる。
「なんで……」
突き出されたハサミを避け、アケミは叫んだ。
「なんで私だけこんなイロモノが相手なのー!?」
翡翠はチェーンソーのプロと戦っている。雁金も一緒だ。翡翠の弟は彼女と一緒にガマガエルの怪物と戦っている。メリーさんは検非違使と一緒に、月人の軍隊を相手に無双している。イーさんは言わずもがな、因縁のかぐや姫が相手だ。
アケミだけがサワガニだった。まるで自分だけ蚊帳の外のような疎外感に、アケミはイライラしてサワガニの甲羅をチェーンソーで斬りつける。すると、甲羅がザックリと斬り裂かれた。
「え?」
アケミは目を丸くした。振り回された腕を屈んで避け、腕の関節へチェーンソーを突き入れる。先程と同じように弾かれた。不審に思いながらも踏み込み、カニの体をチェーンソーで斬りつける。体の甲羅が削れた。
まさか、と思う。関節よりも甲羅の方が脆いのか。おかしな話だ。
「だけど!」
試してみる価値はある。アケミは副腕を展開し、四本の腕それぞれにチェーンソーを握る。全てのチェーンソーが最高速で回転するや否や、カニへ向かって一直線に突進する。
カニはハサミを突き出した。アケミを挟み殺すつもりだ。アケミはそれを掻い潜り、懐に飛び込んだ。
「これならっ!」
放ったのは突き。四本のチェーンソーの穂先を一点に集中させる。その破壊力は加算ではなく乗算になる。胴体の比較的薄い装甲が、硬い音と共に割れた。
そして中から白い煙が吹き出してきた。
「ッ!?」
アケミは慌てて後ろに下がる。恐ろしく冷たい蒸気だった。アケミの体は人形だから平気だが、常人なら凍傷は免れなかっただろう。
なぜ生物からそんなガスが出てくるのか。訳が分からずアケミは煙を見つめる。カニの姿は煙に紛れて見えない。だが、ガシャンガシャンと重い物が地面に落ちる音が聞こえてきた。
やがて、煙が晴れる。
「へ?」
あまりにも間抜けな声を上げるアケミ。だが、彼女でなくとも、この地球上に生きる人間なら、あるいは怪異でも、残らず同じ反応をしただろう。
煙の中から現れたのは巨大サワガニではなかった。その甲羅は分割され、足元に転がっている。代わりに立っているのは、深緑色の合金装甲を身に纏う二足歩行機械だった。足は太く、胴体は横に重厚。首はなく、人体で言う鎖骨の辺りにセンサーアイが搭載されている。腕は2本のクローを中心に構成されていて、足の数さえ無視すればカニに見えなくはない。
もしここにコックリ宇宙大将軍がいれば、怒りのあまりモニターを叩いていたであろう。煙の中から現れた機械は、アンドロメダ銀河連邦軍制式接舷強襲機『ジャア・ルフグン』だったからだ。
だが、アケミは地球生まれである。目の前の機械を言い表す言葉は、これしか持っていなかった。
「カニ型ロボット!?」
――
肉の槍が輝の鼻先を掠めていった。輝は反らした上体を引き戻し、前へ踏み込む。狙いは、腕を肉の槍に変化させたガマガエルの怪物だ。
「オラアッ!」
ガマガエルの怪物の胴体にチェーンソーを叩き込む。大木をも切り裂くチェーンソーだが、ガマガエルの分厚い肉には浅い傷をつけるだけで、大したダメージにはならない。
輝は舌打ちする。厄介だ。ガマガエルの肉そのものは柔らかい。だが、弾力があり簡単には切り裂けない。そのためチェーンソーを押し付けると肉がチェーンに挟まり、回転が止まってしまう。
「下がれ、輝!」
楓の声に応じて交代する。ガマガエルの頭上にフラスコが落ちてきて、煙とともに破裂する。肉の焼ける音がじゅうじゅうと響くが、ガマガエルは意に介していない。平然と輝へ突進してくる。チェーンソーで衝撃を受け流し、体当たりをいなす。
一旦距離を取った輝は楓に話しかけた。
「こいつはヤバいぞ。不老不死抜きにして、とんでもなく頑丈だ」
「月にはガマガエルが住んでいる、なんて伝説も聞いたことがあるが……こんなクリーチャーだったとはねえ」
「こういうのは兄貴の専門なんだが……」
ちらり、と輝は兄に視線を向ける。兄はチェーンソーを持ったイケメンと切り結んでいて、こちらには目もくれていない。
「なら、代わってもらうかい?」
「イヤだ。絶対イヤだ」
輝はチェーンソーを構え直した。ここが自分の居場所だ。いきなり出てきた兄には絶対に渡さない。
「『金毘羅』を使う。援護を頼む、楓」
「わかった。信じているが……気をつけたまえよ、輝」
楓に向かって頷くと、輝は鋭く息を吸い込んだ。ひゅうっ、と風の音がして、肺に冷たい空気が流れ込む。
「オン クビラヤ ソワカ」
呟くのは真言。仏の教え、即ち宇宙の根底原理を表す言葉である。繰り返し、繰り返し唱えることにより没入し、魂と真言を限りなく同一に近付ける。
輝が唱える真言は、金毘羅権現の力を借りるものである。千手観音、大物主、宮毘羅大将などの神仏が習合したものであり、海上交通に御利益があるとされている。更には山の神の側面もあり、天狗を眷属として従えている。
だが、輝が求める力は金毘羅権現そのものではない。それはあくまでも本命に力を借りるための呼び水にすぎない。
「オン ヒラヒラコンピラ コンテイ ソワカ」
いつしか真言が変化していた。本来サンスクリット語で唱えられるはずのそれは、日本語を含む変化系の真言となる。これもまた古くから唱えられる信仰の形であるが、言葉が変わったことにより訴えかける神格の側面も変わることになる。
真言を繰り返しながら、輝の精神は更に奥へ、深く、深く入り込んでいく。それとともに、底知れぬ重圧が近付いてくるのがわかる。世界の根底に根ざしながら、同時に人の最高位にも存在するもの。それに呼びかける。
「松山の 浪にながれて こし船の やがてむなしく なりにけるかな」
その歌は神のものであり、人のものでもあり、天狗のものであった。かつて現人神であったその御霊は、時を経て信仰されるようになり、いつしか悪縁を絶つ神として祀られるようになった。
世に断つべき悪縁は無数に存在する。悪への誘い。堕落への下り坂。諦めきれぬ情念。そして、怪異との因縁。人の力だけではどうにもならないそれらを、縁切りの神は恐るべき力によって断つ。
輝の母が最後に縋ったのも、この神であった。翡翠――その時はまだ晴斗という名だった翡翠の兄が八尺様に魅入られた時。親戚のチェーンソー使いたちが一様に破れ、いよいよ晴斗の命が危ないとなった時、この神の力を借りて八尺様との縁を断った。あまりに強力すぎて、一緒に晴斗の記憶も断たれたほどだ。
その縁で、輝は縁切りの神の力を借りることができた。
「魔縁切り、
神が降りる。世界を書き換える
輝は再びガマガエルに挑みかかった。ガマガエルは腕を掲げてチェーンソーを受け止めようとする。構わず、輝はチェーンソーを振り下ろした。
ガマガエルの腕が切断され、赤い血が飛び散った。ガマガエルの瞳が驚愕に見開かれる。続いて輝がチェーンソーを横に薙ぐと、ガマガエルの腹が大きく斬り裂かれた。
縁切りの神の力をチェーンソーに降ろせば、それはありとあらゆるものを切断する魔剣となる。単に切れ味が良くなるのではない。触れたもの縁を断つ。繋がっているという状態を断つ。それは物理的なものに限らない。呪いといった魔術的なもの、隙間といった概念的なもの、更には量子もつれといった世界の仕組みすら断ってしまう。
輝はチェーンソーを袈裟懸けに振り下ろす。ガマガエルは飛び退って刃を避けた。途端に、辺りに風が吹き荒れる。空気の縁が斬られたからだ。目を開けていられない強風に、輝は顔をしかめる。
縁切りの神の力はたかだか一人の人間に使いこなせるものではない。刃が触れれば斬りたくないものも斬ってしまうし、因果を断ったことで思わぬバタフライ効果が起きてしまうこともある。
横合いからの衝撃。風に視界を塞がれた隙をついて、ガマガエルが伸縮自在の腕で輝を殴りつけた。
「がふっ……!?」
激痛。口から吐血。それだけではない。気が遠くなる。世界が離れていく。輝の体が半透明に透けている。
「輝!」
楓の叫び声。それが輝の魂を現実に引き戻す。両足で踏ん張り、追撃の腕をチェーンソーでガードした。
強力な力は、それだけで存在のバランスを大きく崩す。常に気を張り詰めていなければ、大鋸輝という物理存在は消え失せ、摂理に飲み込まれてしまうだろう。
楓が辛うじてそれを防いでいる。人間と摂理の『隙間』にいる輝を、怪異憑きの力で必死に現世へ留まらせている。
それでもギリギリだ。例えるなら、猛スピードで走る車に片手でしがみつきながら、もう片手でチェーンソーを振り回しているようなものだ。一瞬でも気を抜けば持っていかれる。
「ぐ、ぬ……!」
それでも輝は止まらない。
「オオオオオッ!」
吠える。ガマガエルの腕を押し返す。腹の底から気合を入れて、この京都の街に自分を縫い付ける。
ここが自分の居場所だ。家だとか、血筋だとか、そういうのは関係なしに、自分の力で、チェーンソーひとつで勝ち取った場所だ。誰にも渡さない。特に兄には絶対渡さない。
だから、得体の知れない宇宙人なんかに、征服させはしない――!
前へ踏み出す。ガマガエルが両腕を伸ばして、鞭のようにしならせる。曲がりくねった打撃を見切り、チェーンソーで切り落とす。驚愕するガマガエルの懐に飛び込む。
すると、ガマガエルの腹の肉が形を変え、鋭く尖った肉の槍になって輝を貫こうとした。輝はチェーンソーを突き出し、槍の穂先の僅かに下を滑らせる。軌道が変わった槍は跳ね上げられ、輝の頭の上を通り抜ける。
チェーンソーを握る腕に力を込める。渾身の力で薙ぎ払い、肉の槍を、そしてその先にあるガマガエルの胴体を、断ち切る。
「らあっ!」
落雷の如き一閃が、ガマガエルの巨体を横一文字に斬り裂いた。宙を舞ったガマガエルの上半身が地面に落ち、次いでバランスを失った下半身が倒れ込む。再生はしない。ガマガエルという存在そのものの縁を完全に断ち切った。
輝はチェーンソーを構えたまま大きく息を吐き出した。そこに、月人が放った矢が飛んでくる。輝は矢を切り払った。一息ついても油断はしていない。
「大物が倒されたんだから少しは驚けよ」
月人たちには感情や意識というものが見当たらない。誰も彼もがロボットのようだ。余韻に浸らせる隙も与えてくれない。不気味に思いながらも、輝と楓は次の月人部隊へと挑みかかっていった。
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