To you in the distant days
「つらい」
二条城の一室で、検非違使長官の八雲暁久はだめになっていた。なんかもう、何もかもだめである。
そもそも彼は検非違使ではあるものの、怪異退治などできない事務方の人間だった。経費の計算や備品の発注、組合内報の作成などを仕事にしていた。
それが、UFOにさらわれそうになった藤宮瑠那を助けてしまったことで、最大手スポンサーの藤宮グループに恩を売ってしまった。あれよあれよと出世して、気付けば長官になっていた。
昇進した当初は喜んでいたものの、すぐに荷が重い仕事だと気付いた。何しろ検非違使の行動の全責任を負わされるのである。そして、しばしば検非違使は、国一つひっくり返せるほどの強力な力を振るうことがあった。
「長官。『金毘羅』の使用許可をください」
そんな力の持ち主のひとり、大鋸輝が長官室にやってきた。
「いやその……そこまではいらないと思うのだが……」
「何言ってるんですか。ここが正念場ですよ。地球が駄目になるかならないかって時なんだ、使えるものは使うのがスジってもんでしょ」
「でもな? 考えてみろ? 地球を救うために下手したら京都が滅びる力を使うのって、本末転倒じゃないか?」
「それで地球が侵略されたら、それこそ本末転倒でしょうがよ……!」
少しでも力が欲しいというのは暁久でもわかる。しかし、そのせいで余計な被害が出てしまったら、責任を取るのは暁久だ。彼はそれを恐れていた。
暁久の心配は決して取り越し苦労ではない。60年前に『道明寺』が使用された結果、金閣寺が燃え、長官以下主要幹部が丸ごと辞任する羽目になった。そして輝が使おうとしている『金比羅』は、『道明寺』とは比較にならないほどの危険性を秘めた術式である。
「穴掘って埋めれば月人は無力ができるのだろう? ならそれでいいじゃないか、『金毘羅』を持ち出すなど……」
「黙って埋められる奴らとは思えません。きっと対策を打ってきます。だから、俺の『金毘羅』で元を断つ」
「だが、本当に危ないだろうそれは……楓、お前からも何とか言ってくれんか?」
困り果てた暁久は、輝の隣にいる楓に説得を頼んだ。長官や親、年長という立場に関するプライドは暁久にはない。責任回避のためなら土下座も厭わぬ小市民であった。
だが、楓は難しい顔をして首を横に振る。
「私も賛成だ。やたらめったら振るうものではないが、『金毘羅』の準備はしておいた方がいいと思う」
「お、お前ぇ……」
「お父さん、考えてみてくれ。月の異界に住んでいた怪異が、月人だけだと思うか?」
暁久の脳裏に、様々な月の伝説が思い浮かぶ。餅をつくウサギ。UFOの秘密基地。ギリシャの月の女神。ナチスのUFOの秘密基地。カニ。失われた月の都。その全てが敵に回ったとは思えないが、いくつかが来る可能性はある。
「確かに……UFOは飛んでるから埋められないな……」
「いや、まあ、それはその通りなんだけどね。もう少し色々ないかい?」
楓の言葉を聞き流し、暁久は手元の書類を見る。『金毘羅』使用許可申請書。書類にミスはない。だが、暁久はそこに一文を書き加えた。
『通常の月人には使用しないものとする』
追加条件に訂正印を押し、所定欄にサインをする。最期に決済印を左に少し傾けて押せば、書類は完成した。
「いいか、輝くん。『金毘羅』は君にしか使えないが、それは『金毘羅』が君に無条件で従うということではない。むしろ、従わせるなど畏れ多い。そこんとこわきまえなさいよ」
「はい! ありがとうございます!」
輝は深々とお辞儀をすると、書類を受け取って部屋を出ていった。楓もその後に続く。
「つらい」
一人残された暁久は、虚空を仰いで呟いた。これでまた心配事が増えた。
しかし呆然としている時間はなかった。またしてもドアがノックされたからだ。
「どうぞ?」
今度は誰だ、と思いながら、暁久はドアの向こうに呼びかける。
入ってきたのは、長髪を首の後ろで括った男。九曜院だった。
「貴方ですか……」
既に彼が敵ではないことを暁久は知っていたが、それでも急に入ってこられるのは落ち着かない。何事かと身構えていると、九曜院が喋りだした。
「『不老不死の薬』を引き渡してもらいたい」
「……いや、それはですね」
「内々に許可は取っている。引き渡しの書類は後日届く。必要なら確認をとってもいい。今なら電話も繋がる」
まくしたてる九曜院に対し、暁久は首を横に振る。
「引き渡し自体は構いません。ですが、今は駄目です」
「何故だ?」
「月人が攻めてきているんですよ? 薬を持って外に出ていったら、あっという間に捕まるでしょうが!」
まだ二条城に攻め込んできていないとはいえ、既に異界京都市街は月人の軍勢に包囲されている。ここで九曜院に不老不死の薬を持たせて送り出せば、5分と経たないうちに捕まるだろう。
「……すまない。言葉が足りなかったか」
ところが、九曜院は言った。
「『不老不死の薬』を使う。今、ここで」
「……バカな」
それこそ暁久には理解できない話であった。
「話を聞いて……いや、そもそもご存知でしょう。『不老不死の薬』は封印されていて、誰にも開けられないと。一体どうするつもりなんです?」
「開けられない訳じゃない。条件があるだろう」
「……『相応しき者』」
確かにそういう話は聞いている。だが、検非違使が長い間探し続けてきても、遂に封印を解ける人間は見つからなかった。それに不老不死の薬が帝に渡されてから千年が経っている。今でも生きているとは思えない。
「……君たちには伝えていなかったんだが、それが誰を指すのか、帝は聞いていたんだ」
「なん……!? 一体誰なんです?」
「かぐや姫の夫だ」
夫。つまり旦那である。一瞬納得しかけた暁久だったが、すぐに反論した。
「いや、いやいや有り得んだろ!? そうしたら、火鼠の皮衣とか、あの貴公子たちの求婚が全部茶番だったということに……そもそもいつ結婚したんだ、かぐや姫は!?」
「日本に逃げて来る前、既に彼女には夫がいたんだ」
「つまり……月に夫がいたと?」
九曜院は首を横に振る。
「それより前、彼女が地上にいた頃の話だ。
彼女は『不老不死の薬』を夫に返そうとしていたんだ。本来は彼のものだったからな。
そして、夫は今、ここにいる」
「……彼ですか」
九曜院と共にいた、黒いジャケットの中国人。何らかの怪異だということはわかっていたが、『かぐや姫』の関係者だったとは思いもしなかった。
「本当に、彼が夫なんですか?」
「私が調査した限りでは、不審点は見当たらなかった。本家に確認も取っている。ヤコの証言も……まあ、どこまで本当かはわからないが、一応ある。
それに、もしも嘘だったとしても、封印が解けないだけだ。損害は無い。心配は無用だ」
暁久は悩んだ。このまま不老不死の薬を渡してもいいものだろうか。
何しろ、皇室から預かっている事実上の御物だ。許可を取っているとはいえ、迂闊に渡して問題が起きた時の事を考えると胃が痛くなる。
だからといってこのまま手元に残しておくのも、それはそれでためらってしまう。何しろ千年以上問題を起こし続けてきたトラブルメーカー、あるいは広義の呪いのアイテムだ。これ以上預かっていると、また事件が起きてつらいことになりかねない。
散々悩んだ末、暁久は決断した。
「……かしこまりました。お渡ししましょう」
「感謝する」
――
二条城の一室で、男は弓を掲げていた。
赤く塗られた短弓だった。いくつもの材料を組み合わせたこの弓は、この世に存在するどんな弓よりも強力だ。そこに男の力が合わされば、撃ち抜けないものは存在しない。
だがそれは、本当に全力を出した場合に限られる。そのような場面は、この四千年の間、遂に訪れなかった。場所が悪い。相手が悪い。そして何よりも、自分が悪い。
「そういう欲があったんだあ」
少女の声。振り返る。椅子の上に胡座をかいて、生意気な目をした狐耳の少女が座っている。
ラゴ。今はヤコと名乗っている、得体の知れない怪異だった。
「何がだ」
「んー? だからね、本気を出したいって欲望があるんでしょう?」
「まあ、な」
「むー、平坦。ちょっとは面白い反応みせてくれてもいいじゃない。つまんないなあ」
ラゴは頬を膨らませる。一体何が気に食わなかったのだろうか。
思えば、初めて会った時もそうだった。首が千切れているのに生きているという奇妙な状態のラゴを拾って手当していたところ、こんなに可愛い子が弱みを見せて転がっているのにどうして何とも思わないんだ、と怒られた。
それから何かにつけて絡んでくるので、しばしば共に狩りをすることになった。不思議なことに、ラゴは他人の心の中がある程度わかるようだった。全てではない。相手が何をしたいのか、何を求めているのかという"欲"を読み取れるらしい。そして、時折男の事を見ては、つまんないなあ、と言ったものだった。
「何かこう、驚いたり、反応すれば良かったか?」
「うん。せっかく心の中の秘めた思いを暴かれたんだから、恥ずかしがったり、怒ったりしてほしかったな」
「それは、難しいな」
「どうして?」
「とっくに諦めてる」
そうだ。死んで亡霊になる前から、本気を出すことについては諦めている。諦める、という時点も通り過ぎて、今では何とも思わない。
大体本気を出す必要はないのだ。彼が全力で弓を引く相手など、この世にあと1つしかない。そしてそうすれば、世界は終わってしまう。
「だからいいんだ、別に。今でも不自由はしていないからな」
そう言うと、ラゴは押し黙ってしまった。何か不満なのか、それともからかうのに飽きただけか。どちらにしろ、男の気を引くものではない。
男は弓の張りを確かめるために、軽く弦を引いた。甲高い弦の音が鳴り響く。何億回と聞いた音には、一点の揺らぎもない。調子は上々だ。
ふと、男はドアの方を見た。何か懐かしい気配を感じたからだ。
一拍遅れてドアがノックされる。
「入っていいか?」
「ああ」
ドアが開く。その先にあるものを見て、男は目を見開いた。
入ってきたのは九曜院明。今のラゴの飼い主だ。それはいい。驚いたのは、彼が手に持っていたものだ。しっかりと封がされた、小さな古い壺。不老不死の薬だ。
「預かってきたぞ」
「お前……どうしてこれを!?」
「持ち主に掛け合った。高齢の人を夜中に起こすのは気が引けたが、背に腹は変えられないからな」
九曜院は壺をテーブルに置いた。
「さあ、開けて飲んでくれ」
さも当然のように、九曜院は言う。しかし、男はためらった。
「いや、しかし……」
「どうした?」
「開くのか?」
男の言葉に、九曜院は不思議そうな顔をした。
「『かぐや姫』が、いや、君の妻が夫のために残したものだろう? なら封印は解けるはずだ」
「いや、だが、しかし」
男はしばし口を噤んでから、ぽつりと言葉を漏らした。
「彼女は俺に愛想を尽かしていたんだぞ」
彼女が不老不死の薬を持って月に逃げた時、男は心底ショックを受けた。なぜそんな事をしたのか、片っ端から理由を聞いて回ったものだ。
その答えは弟子が教えてくれた。曰く、自分と一緒に暮らしているのに耐えられなくなったと。淡々と、あまりにも淡々と生きていくその有様が恐ろしくなったと。
それに、彼女が天の座から落とされたのは男のせいだった。それを恨みに思い続け、そして天に還る時が来たから、男を一人大地に残して復讐を遂げたのだと。
妻を愛しているつもりだった。彼女に気を遣っているつもりだった。幸せなつもりだった。それは、つもりでしかなかった。
「俺のために彼女がこれを残していたとは思えない。この国の帝が聞いたという話は、何かの間違いなんじゃないのか?」
ためらう男に、九曜院は告げる。
「たかだか40年程度しか生きていない身で言うのもなんだが」
少し少し、様子を見るように、ゆっくりと話す。
「一時の気の迷いというか、頭が冷えたとか、そういうのもあるだろう。
時間を置いて考え直したら、貴方との時間が一番大切だったと気付いた。そういう事もあるんじゃないのか?」
気の迷い。そういう事もあるかもしれない。九曜院の言葉が正しいかどうか、男にはわからない。
もしもそうだとすれば、この薬は遠い日に儚く消えた、彼女からの贈り物だ。
だが、そうでなければ。この薬が彼を拒絶したのなら、それは即ち、彼女が最期まで彼を拒んでいたことになる。
結末を知ること自体が怖くて、男は一歩も動けない。四千年の重みが体にのしかかっている。
「しょうがないなあ、もう」
不意にラゴが立ち上がった。机の側まで歩いていき、壺を手に取ってしまう。
「おい」
「明、これ食べちゃっていい?」
思わぬ申し出に、男も九曜院も驚いた。
「待て!」
「できるのか、そんな事が!?」
「できるよ? 封印ごと丸呑みにしちゃえばいいんだから。簡単だよ」
それも一つの解決方法ではある。ラゴが食べてしまえば、月人は手が出せない。彼女たちの計画は崩れることになる。しかし。
「待て、待ってくれ、ラゴ」
「なんで?」
「それは彼女が、
「じゃあ早く開けちゃえばいいじゃん」
「いや、だが本当に開くかどうかは……」
「なら試してみればいいじゃない。ほら、目の前だよ? 足が動かないって訳じゃないでしょう?」
ラゴの言う通り、少し歩いて手を伸ばせば、薬は手に届く。だが、それが遠い。全く動かない。
「できない? そう。それじゃあ、欲しくないんじゃない?」
「違う」
「じゃあこっちに来てごらんよ」
「しかし……」
迷う。彼女の気持ちを知りたいのか。思い出が崩れる可能性から逃げたいのか。彼女が遺した物を手に取りたいのか。
「ねえ、ほら。どうするの? どうしたいの?」
ラゴはとびっきりに邪悪な笑顔を浮かべて、男が欲を曝け出す瞬間を待つ。
動かない。どちらも動かない。ともすれば殺し合いになってしまいそうな、緊迫した雰囲気が漂う。
九曜院が口を開く。だが、声を出すほんの少し前に、男が動いた。
前へ。
「よくできました」
ラゴは何の抵抗もせず、男に薬を渡した。
男の手が壺に触れる。たったそれだけで、壺に掛かっていた封印が解けた。春の日差しを浴びた雪が解けるかのように、儚く溶けてしまった。
そして、解けた魔力が指先を伝って男の魂に流れ込む。それは彼女の最後の記憶。最後の想い。千万の言葉よりも重く、百億の情景よりも確かな、たったひとつの彼女の魂。
男はよろめき、机に手をついた。
「大丈夫か!? ヤコ、何をした!?」
「な、何もしてないよ!?」
慌てる二人を、男は手を掲げて制した。
「大丈夫だ。心配はいらない。封印は解けている」
「だが……」
「その、なんだ。心の準備が必要だからな。少し……一人にしてくれないか」
なおも声をかけようとする九曜院の腕を、ラゴが掴んだ。
「うん、じゃあ、ボクたちは外に出るから」
「しかし……」
「時間はあんまりないからねー?」
そう告げると、ラゴは九曜院を引きずるように連れていき、部屋を出ていった。
残された男は思う。恐らく、気を遣われたのだろうと。言い換えれば、涙を流したいという欲を、ラゴに見抜かれたということだった。
――
「やー、おいしかったー」
部屋を出たラゴ――否、ヤコは九曜院を引きずって廊下を歩いていた。九曜院はつんのめりながらも何とかついていっている。
「お、おい、ヤコ。歩きづらいから離してほしいんだが……?」
「んー? でも早くしたほうがいいんじゃないの?」
「何を?」
「お願いごとがあるんでしょう?」
九曜院の顔を覗き込んで、ヤコはニヤリと笑う。
「気付いてたのか?」
「そりゃあね。長い付き合いだもの。明の欲ならどんな小さなものでもわかるようになっちゃった」
胸の内を見透かされていたことを告げられて、九曜院は頬を赤く染める。その様子に、ますますヤコは笑みを深める。
「いいよ、その顔。ちゃんと言葉にしてくれれば、何でも聞いてあげる」
「なら」
一呼吸置いて、九曜院は告げた。
「月を食べてほしい」
その欲には、流石のヤコも目を丸くした。
「大きく出たねえ」
「だが、できるんだろう?」
「できるよ。だけどねえ……」
ヤコは立ち止まる。つられて九曜院も立ち止まる。腰のあたりにヤコは抱きつき、鳩尾に顔を埋め、九曜院の顔を見上げながら小さく言った。
「前払い」
九曜院が息を呑む。彼の体を抱きしめているヤコには丸わかりだった。
「その……後にならないか?」
「どうして?」
「状況が状況だ。月人に出くわしたら、何もできないぞ」
「その時は全部ボクが食べてあげるよ。それに、月なんて大物を食べるんだったら、先に力を溜めておかないと」
嘘ではない。流石のヤコも、異界一つを丸ごと食べるのは簡単ではない。だから九曜院の力が必要なのだ。例えそこに、九曜院を困らせたいという趣味が混じっていたとしても。
「どうする? それともお願いはナシにする? それでもいいよ。明だって、保険って考えてるんでしょう?」
強要はしない。決めるのは明だ。決めることで欲がハッキリする。ヤコはそれを食べる。
しばらく考えた後、九曜院は口を開いた。
「わかった。頼む」
「任せて」
満面の笑みを浮かべると、ヤコは九曜院の手を引いて歩き出した。
ひとまずは、この二条城から出る必要がある。中では流石に見つかってしまうだろう。幸い、二人っきりになるにはちょうどいい建物が側にあることを、ヤコは知っていた。
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