ぬっぺふほふ

 のっぺらぼうについて調べるには、紫苑と沙也加の知識だけでは限度があった。だが、幸いなことに、彼女たちは大学に通っている。その道の先達、すなわち民俗学の教授とコンタクトを取ることができた。


「妖怪? あー、ダメダメ。僕はお祭り専門なの。そういうのについて聞きたいなら、他の大学の先生を紹介するから、その人に聞いて!」


 秒でたらい回しにされた。

 他の大学の教授が相談にくれるのかと不安になったが、意外にもアポイントが取れた。

 そういうわけで、紫苑と沙也加は総武線沿いにある大学にやってきている。


「ここですか」

「ここですね」


 案内板を頼りに向かった先は、物理学部の研究室だった。妖怪や幽霊などとは程遠い、バリバリに現実を研究する理系の学部だ。間違っているのではないか、と紫苑は何度も表札を確認したが、紹介されたのはここで間違いない。

 意を決し、ドアをノックしてから、紫苑は呼びかける。


「失礼いたします」

「どうぞ」


 返事があったので、紫苑はドアを開けた。

 学校の教室と同じくらいの広さがある部屋だった。様々な機材と本棚が並んでいる。ただ、本の方が多いような気がする。紫苑がイメージしていた物理学の研究室とは少し違った。

 本棚と機材に囲まれた空間の中に机がひとつあり、そこに誰かが座っている。長い黒髪を後ろで束ね、眼鏡を掛けた男性だ。紫苑たちよりも少しだけ年上に見える。ゼミ生か院生だろうか、と紫苑は思った紫苑は、彼に声をかけた。


「あのー、九曜院准教授とお約束をしているのですが、いつ頃お戻りになられるかご存知でしょうか?」


 すると男性は顔を上げて、言った。


「私だ」

「え」

修文館しゅうもんかん大学物理学部准教授、九曜院くよういんあきらだ。神崎准教授から話は聞いている。火熊ひぐま紫苑しおんくん、前田まえだ沙也加さやかくん、本日はよろしく頼む」


 間違いない。彼が、紫苑たちが探していた教授だ。しかし若すぎる。意外な展開に、紫苑も沙也加も呆然としてた。


「……どうした?」

「し、失礼しました。もっとお年を召した方かと」

「ああ、そうだ。今年で43歳になる」

「なんでそんなに若作りですのっ!?」


 紫苑は驚きのあまり声が裏返ってしまった。突然の大声に、九曜院は首をすくめる。


「凄い声だな。スポーツでもやっているのか?」

「あ、はい。武道を少々……」

「武道か。柔道か、空手か?」

柳川やながわ水鳥流すいちょうりゅうですわ」

「うん?」

「柳川水鳥流です。薙刀と拳法の流派ですの」


 九曜院は紫苑から目を逸らし、沙也加に向き直った。


「前田くんも武道仲間か?」

「いえ。私はスポーツは……」


 答えようとした沙也加の声が、ノックの音で中断された。


「はい?」


 九曜院が声をかけると、ドアが僅かに開いた。隙間から女性がジト目で九曜院を睨みつけてくる。


「女の子の声がしたんですけど」


 ドアの向こう側の女性はそんな事を言った。


「客人だ。私に質問があると」


 九曜院が答えると、女性は紫苑と沙也加に気付いて、思いっきり動揺した。


「……実在している!?」

「当たり前だ。早く行きなさい」

「現実化? 召喚? 一体どういう原理で……」


 ぶつぶつ言いながら、女性はドアを離れてどこかへ歩いていった。

 声が聞こえなくなってから、紫苑は九曜院に尋ねた。


「なんですの、あの人?」

「隣の部屋の助教だ。私の部屋から女の子の声がすると言って、よく様子を見に来るんだ」

「え、誰かいますの!?」


 思わず辺りを見回す紫苑。ひょっとして幽霊がいるのではないかと身構えてしまう。しかし、見える範囲ではそのようなものは見当たらない。


「まあ、座りたまえ」


 九曜院はソファを指し示す。ガラスのローテーブルを囲むように、大きめの2つのソファが置かれている。紫苑はそのうちのひとつに座った。その隣に沙也加が座る。


「さて。神崎さんが言うには、妖怪についての話を聞きたい、との事だが」

「はい。『のっぺらぼう』という妖怪について知りたいのです」


 紫苑は九曜院に対して、今までの顛末を話した。出掛けた帰りに突然『のっぺらぼう』に出くわしたこと。昼間にもう一度会いに行ったが、結局見つからなかったこと。そして、蒔田の街を包む緊張感のことを。


「以上ですわ」

「なるほど。実に興味深い。ちなみに、その怪物の姿がわかるものはあるか?」

「SNSに写真がアップされています。少々お待ちを」


 紫苑はスマホを操作し、『のっぺらぼう』の写真を掲載した投稿を表示する。相変わらず炎上中で、PV数が凄いことになっている。


「こちらです」


 紫苑から示された写真を見て、九曜院は呟いた。


「ふむ。これは、あれか」

「知っているんですの?」


 紫苑の問いかけには答えず、九曜院は本棚から一冊の本を取り出した。その中の1ページを紫苑たちに見せる。


「『ぬっぺふほふ』だ」


 巨大な顔に短い手足をつけたような、奇妙な妖怪の絵があった。顔は目も口も垂れ下がった肉に隠れていて、まるで手足の生えた肉塊のようだ。


「……ぬペ?」

「『のっぺらぼう』、とは違うのですか?」


 紫苑が奇妙な鳴き声をあげる横で、沙也加が質問する。


「のっぺらぼうでもあるし、違うともいえる。君たちが会ったものは折衷した姿をとっているようだが」

「ええ。こんな妖怪ではありません。太っていたけど人でしたし、服も着ていました」

「服。どんな服だ?」

「白衣でした。お医者さんが着ているような」

「なるほど。ぬっぺふほふは『昔は医者に化けて出てきた』とある。その情報が指向性を持たせたか? と、なると……」


 九曜院はパソコンのキーボードを叩く。


「やはりな。これを見てみろ」


 九曜院がノートパソコンの画面を見せてきた。蒔田の地図に、赤いピンがいくつもついている。

 ピンが示しているのは病院だった。しかし、多すぎる。内科や眼科など専門は違うが、それにしたって多いと紫苑は思った。


「それともうひとつ」


 九曜院がパソコンを操作すると、ピンの位置が変わった。今度は病院よりも多い。それは老人ホームの場所だった。


「こんなに……!? あの、東京って、お年寄りの街でしたっけ?」

「いや、こんなに多いのは珍しい。偶然なのか故意なのか、あるいは補助金が出るのか……とにかく、医者の格好をすれば多少の不自然さはごまかせるのは間違いない。だから『ぬっぺふほふ』も白衣を着ているのだろう。

 しかし面白いな。形而上エネルギーが形而下に作用する時は、情報に対する共通認識で固定されるかと思っていたが、顕現後の環境に合わせて自己変化をすることもあるのか。

 それともこれは『ぬっぺふほふ』の情報を採用した故の変化か? あるいは単に近くの白衣を盗んで変装しただけか……」

「あ、あのっ、教授?」


 ブツブツと自分の世界に入りつつあった九曜院を、沙也加が引きずり上げた。


「准教授だ。質問かね、前田くん」

「えっと……いやそもそも。『のっぺらぼう』が本当にいると信じているんですか?」


 その質問に、九曜院はきょとんとした表情を浮かべた。


「妙なことを。のっぺらぼうについて相談しにきたのは君たちだろう?」

「そうなんですが……でも、妖怪ですよ? 非科学的だとか、ナンセンスだ、とか言わないんですか? だって、物理学者でしょう、先生?」


 それは紫苑も気になっていたところだった。物理学と言えばバリバリの理系。妖怪や幽霊といったファンタジーからは最も遠そうな学問だ。事実、神崎教授から九曜院を紹介された時は、肩書を3度も聞き直している。そんな人が、初対面の紫苑たちが話す幽霊を信じてくれる理由がわからない。

 ところが九曜院は、首を傾げて言った。


「何をもって非科学的だというのかね?」

「はい? え、いや……だって、妖怪ですよ、妖怪。見間違いだとか、作り話だとか、プラズマだとか言わないんですか?」

「いや、そんなことはない。

 そもそも私の研究は怪異の観測だからな」

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