のっぺらぼう
東京は無限に楽しい。1ヶ月住んだ紫苑が抱いた感想はそれだった。
何しろ生活の密度が違う。人も、建物も、店も、イベントも、彼女が住んでいた九州の千羽町とは比べ物にならないほど多い。
それらを気心の知れた友人とともに毎日巡る。楽しいことこの上なかった。
「いやー、今日も楽しかったですわね! 『スプラ・エイト』のグッズがあんなに沢山並んでいるなんて、流石東京ですわ!」
「東京は関係ないと思うけど」
隣を歩くのは、首の辺りで黒髪を切りそろえた女子大生。
「ところで駅ってどちらでしたっけ」
「は? ……えっ、知らないで前を歩いてたの?」
「東京だから看板があると思って探していたのですが、ちっとも見つからなくて」
「まったく……」
沙也加はスマホを操作し、駅までのルートを検索する。
「……わかった。ついてきて」
「お手数おかけしますわ」
沙也加に案内され、紫苑は駅へ向かう。持つべきものは友であった。
駅に向かう2人は、人が少ない住宅地に入り込んだ。東京といってもすべての地域が賑やかなわけではない。静かな住宅街も存在する。
「……おや?」
ふと、紫苑は反対側の歩道を歩く人に目を留めた。違和感があった。太っている。それも、テレビでもなかなかお目にかかれないような肥満だ。
その人物は白衣を着ていた。医者なのだろうか。肥満と白衣がどうにも結びつかない。それが、紫苑が気になった理由だった。
そして、注目したために、紫苑はもうひとつの違和感に気付いてしまう。
顔がない。
「……ッ!?」
紫苑は思わず目を見張った。暗くて見えないとか、肉で隠れてるとか、そういうものではない。マネキンのように凹凸のない顔だった。
のっぺらぼう。そんな単語が紫苑の脳裏をよぎる。
「どうしたの、紫苑?」
沙也加が声をかけてきた。紫苑は小声で返事をする。
「顔は向けないで。反対側の歩道、顔のない、太った人がいるわ」
言われた通り、沙也加は視線だけでのっぺらぼうを見たようだ。僅かに肩を震わせ、しかしなんでもないように歩き続ける。
「何、あれ」
「わかりませんわ。こちらは気付いていないようですが……」
困惑するふたりには目もくれず、のっぺらぼうはそのまま歩道を歩いていってしまった。特に襲いかかってくるようなことも、おかしな動きをすることもなかった。ただ、当たり前のように道を歩いていることそのものが異質だった。
――
翌日。
「あの後、気になって調べてみましたの」
学食のカルボナーラを食べながら、紫苑は沙也加に話し始めた。
「私達がのっぺらぼうに会った辺りは、
Googleマップで地名を検索して、それをSNSの検索フォームに入れると、すぐに投稿が見つかった。顔のない太った人を見た、という内容だ。あののっぺらぼうは、紫苑や沙也加の見間違いというわけではなかったようだ。
中にはのっぺらぼうの写真を撮った強者もいた。しかし画質や角度が悪く、太った医者にしか見えなかった。『デブへの差別か』『通行人を妖怪に仕立て上げるインターネット無法地帯』などと言われて炎上している。
世間は信じていない。しかし、紫苑と沙也加は確かに見た。ましてや、『コトリバコ』や『ターボばあちゃん』といった怪異に遭遇したことのある彼女たちにとっては、『のっぺらぼう』の存在も信じられるものだった。
「ねえ、沙也加」
調べたことを話し終わった紫苑は、口元に笑みを浮かべながら沙也加に呼びかけた。
一方、沙也加は和風パスタを飲み込み、溜息をついた。
「……嫌な予感はするけど、何?」
「私達でこの『のっぺらぼう』を調べてみませんこと?」
「やめなよ。君子危うきに近寄らず、って言うでしょう?」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言いますわよ?」
「虎子が欲しいんですか?」
「いいえ。欲しいのは……わくわくですわ!」
――
その日の講義は4限で終わった。紫苑と沙也加は早速大学を出て、蒔田へ向かった。
先日とは違い、明るいうちに来たので、人が普通に出歩いている。もちろん、その中にのっぺらぼうが混じっている、ということはない。ただ、気になることがひとつある。
「お年寄りが多いね」
「そうですわねえ。お年寄りの方が随分いらっしゃいますわ。病院とか老人ホームとか、そういうのが多いのでしょうか?」
そんな事を話しながら歩いていると、ふたりは先日のっぺらぼうに出会った場所に辿り着いた。当然だがのっぺらぼうの姿はない。
「この前はこの辺りにいたけれど……今日はいませんわね」
「毎日同じところにいたらホラーでしょ」
「そもそもホラーでは?」
「……ホラーですね」
のっぺらぼうは立派なホラーである。紫苑にツッコまれた沙也加は認めるしかなかった。
「それで、これからどうするの?」
沙也加に訊かれ、紫苑は首を傾げた。
「どうする、とは?」
「いや、だからどうやってのっぺらぼうを探すの?」
しばらく考えてから、紫苑は首を反対側に傾げた。
「どうしましょう」
「考えてなかったの!?」
現場に行けば何かが起こると思っていたので、何も起こらなかった時の事を全く考えていなかった。だからといって、「この辺りでのっぺらぼうをご覧になりましたか?」と尋ねて回る訳にはいかない。変人一直線だ。
どうしたものかと悩んでいると、キョロキョロしているおばあさんを見つけた。何かを探しているようだ。そう思った時には、すでに紫苑は動いていた。
「そこのお方、何かお困りでしょうか?」
困っている人を見たら見過ごせない。実家の仕事はともかくとして、紫苑自身はそういう教育を受けてきた。
「え? あっ、えーと……どちら様?」
「通りすがりの女子大生です。何かお探しのようでしたので、お声掛けいたしました。……ひょっとして、ご迷惑だったでしょうか?」
「うん? ううん、いやいやそんな、迷惑だなんて……ただちょっとびっくりしちゃって」
「そうでしたか、すみません。それで、何かお力になれますか?」
「そうねえ。そうしたら、ちょっとお願いしてもいいかしら?」
「喜んで!」
後ろで沙也加が面倒くさそうな顔をしているが、紫苑は気付かない。
「手帳を無くしてしまったのよ。赤いカバーの。昨日歩いていたのがこの辺りだから、どこかにあるとは思うのだけど……一緒に探してくれるかしら?」
「手帳ですね? どれくらいの大きさでしょう?」
「これくらい」
おばあさんが手で大きさを形作る。紫苑はその大きさを覚えた。
「かしこまりました。必ず見つけ出して差し上げますわ!
沙也加はこちらの方と一緒に探してあげて。見つかったらスマホで連絡。よろしくて?」
「はいはい」
それから紫苑と沙也加はおばあさんの手帳を探して回った。おばあさんの立ち寄りそうな場所、すなわちバス停のベンチやコンビニ、公園などを手分けして探してみた。
その最中、紫苑は気付いたことがある。この街は、老人も多いが探しものをしている人も多い。紫苑が声を掛けられた人だけでも、医者を探している人、患者を探している人、薬を探している人、キノコを探している人と、4人もいた。
「東京のど真ん中にキノコが生えているなんて、ありますの……?」
「いや、その、漢方に使う奴で……干してたら盗まれて……」
「それは……警察沙汰では……」
そんな変な人もいた。
紫苑は彼らの話だけ聞いて彼らと別れた。全員を助ける訳にはいかない。それに、気になることがひとつあって、警戒していた。
そして、おばあさんの手帳に集中したのだが、結局見つからなかった。おばあさんと沙也加も同じ結果だ。
だが、手帳は想わぬ所で見つかった。おばあさんを伴って老人ホームに帰ると、スタッフが手帳を渡してきた。
話を聞いてみると、別の老人ホームのおじいさんが、公園のベンチに残されていた手帳を拾って届けてくれたらしい。それが今日の昼頃のことだ。その頃にはもう、おばあさんは手帳を探し出かけてしまっていた。
要するにすれ違いである。
「本当にごめんなさいね……」
「いえ。これはもう、運が悪かったとしか……」
お詫びということで、紫苑と沙也加はおばあさんからお菓子をごちそうされていた。
「ですが、手帳が発見できてよかったですね。大事なものなのでしょう?」
お菓子をパクつきながら、沙也加が訊く。初めは面倒くさそうにしていた沙也加も、ご褒美にありつけて少し機嫌を直したようだ。
「ええ。大事といっても趣味なんだけど」
「趣味?」
「俳句をね、書いているの」
そう言って、おばあさんは手帳を開く。中には確かに短歌が書かれていた。意味は難しくてわからないけど、57577になっているから俳句なのだろう。
「おお……ハイソサエティ……」
「ハイ……はい?」
「まだまだ素人だけどね。この年になってから始めたんだけど、意外と奥が深いのよ」
「この年……失礼ですが、おいくつなのですか?」
「86よ」
「86ゥ!?」
紫苑はすっとんきょうな声を上げた。
とても86には見えない。背筋はしっかりしているし、顔のシワも少ない。肌も若々しいし、雰囲気もエネルギッシュだ。ここは老人ホームだが、他の入居者と同年代とはとても思えなかった。
「紫苑、声が大きい」
「これが驚かずにいられます!? なんでそんなに若いんですの!? お食事ですか、お食事が良いのですか!?」
「友達にも言われるけど、何もしてないのよねえ。きのこが好きなおかげかしら?」
冗談めかして言うおばあさん。本当に秘訣はなさそうだ。
納得がいかなかったものの、プライベートな話題に踏み込むほど紫苑は無粋ではない。あと、お茶とお菓子がおいしかったので、疑問もすぐに気にならなくなってしまった。
ごちそうになった紫苑と沙也加は、おばあさんにお礼を言って老人ホームを出た。時刻は既に夕方になっていた。
「いやあ、あのお菓子、おいしかったですわね。いろいろな味がありましたけど、チョコが一番ですわ」
「そう。私はクルミの方が好きだったけど」
「確かに。あれも良かったですわね。
それで、のっぺらぼうのことなのですが」
沙也加は舌打ちした。
「何故に舌打ちっ!?」
「もう忘れたかと思って」
「忘れませんわよ! そもそもそのために来たのですから!
……ただ、今回は迂闊でした。それは認めます」
「迂闊、とは?」
「この街、殺気立っておりますわ。まるで開戦前夜のよう」
手帳を探している時に出会った人々。探しものをしているだけではなく、ともすれば殴り合いを始めそうな緊張感を纒っていた。例えるなら、紫苑の父親が大きな取引を控えている時、命のやり取りになるかもしれない時の雰囲気に似ていた。
「確かに、ピリピリしているとは思ったけど……のっぺらぼうがいるせいじゃない?」
「でもそれなら警察を呼びますわよ、普通は」
「……む、確かに」
得体の知れない何かがいるなら、まず警察に相談するはずだ。そうなれば、警官がこの辺りを見回っているはずだろう。しかし紫苑も沙也加もそれなりに長くこの街にいたが、警官の姿は見なかった。
「のっぺらぼう以外のトラブルがある、とか?」
「あるいは……のっぺらぼうに私たちの知らない何かがあるのかもしれません」
紫苑が思い出していたのは、実家の『コトリバコ』だった。あれも呪いの箱としか聞いていなかったが、蓋を開けてみれば自律殺戮チェーンソー兵器であった。『のっぺらぼう』にも紫苑たちが知らない秘密があるのかもしれない。
「いずれにせよ、このまま深入りするのは危険です。一度、情報収集に専念しましょう」
「……手を引く、という選択肢は?」
「まさか! 敵に背を向けるなど、火熊一族としてありえまんわ!」
熱のこもった紫苑の返事を聞いて、沙也加は深々と溜息をついた。
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