白いワンピースの少女
絵の具を塗りたくったような、濃い青空だった。
どこまでも続くひまわり畑のど真ん中で、少年は泣いていた。
きっかけはささいな好奇心からだった。山で遊んでいたら、不意にこの山はどこまで続いているのか確かめたくなった。小学生の気まぐれだ。
少年はいつも遊んでいる辺りからどんどん奥へ進んでいった。そして気付いたら戻れなくなっていた。
帰り道がわからなくなった少年は急に不安になった。周りを見ても木と土しかない。獣道すら見当たらない。心細さで半ベソをかきながら、少年は山道をトボトボ歩いていた。
どのくらい歩いただろうか。ふと少年が顔を上げると、景色が一変していた。鬱蒼とした山の風景はきれいサッパリなくなって、代わりにひまわり畑があった。少年はひまわり畑の間にある、曲がりくねったあぜ道を歩いていた。
いつの間に山を降りたかはわからない。しかし、少年の胸にはかすかな希望が芽生えていた。道があるなら人が通る。それなら、この道を進んでいけば、いつかは人に会うはずだ。誰かが向こうから歩いてくるかもしれないし、家が見つかるかもしれない。とにかく人に出会ったら、家までの道を聞けばいい。
少年は顔を上げて歩き始めた。そのうち誰かに会うとわかれば、知らない場所を歩くことにわくわくする余裕も出てきた。
道の左右にはひまわりがびっしりと生えている。背の高いひまわりだ。黄色い花が頭を垂れて、少年を見下ろしている。茎は青々として太く、葉は瑞々しい。そんな元気なひまわりが何百本も、何千本も生えているから、ひまわりの向こう側に何があるのかは全く見えなかった。
あぜ道にはゴミひとつ、石ころひとつ落ちていない。足跡もタイヤの跡もない。蟻の行列やミミズの死体もない。でも、土が固まっていて、雑草も生えていないから、誰かが使っている道だというのは少年にもわかった。
おかしい、と思い始めたのは、足が疲れ始めた頃であった。少年が住む村は田舎で、隣の家まで歩いて5分かかるというのも珍しくない。だけど、この道は長すぎた。1時間も歩いているような気がするのに、人っ子ひとり現れない。ひまわり畑とあぜ道がどこまでも続いているだけだ。
ひょっとしたら、と少年は考える。迷っているのかもしれない。見逃した分かれ道があって、同じところを延々と回っているのかもしれない。
そこで少年は太陽を探した。太陽を目印に歩けば迷うことはないと思ったからだ。青一色の空に目を凝らす。
そして気付いた。太陽がない。日が沈んだわけではない。空に夕暮の色は欠片も差していない。なのに、うんざりするくらい眩しい真夏の太陽が見当たらない。
ひまわりに隠れてるんだ、と少年は思った。背の高いひまわりの向こうに太陽があると考えた。
少年は思い出す。ひまわりの花はいつも太陽を向いていると。なら、ひまわりの花が向く先に太陽があるはずだ。少年はひまわりを見上げた。
どのひまわりも少年を見下ろしていた。太陽はおろか、空を見上げている花すらひとつもなかった。
改めて見れば異様な光景に、少年は後ずさりする。少年の頭の中にある考えが思い浮かんだ。このひまわりたちは、ずっと自分を見ていたのではないかと。そう思うと、何の変哲もないはずのひまわりが、得体の知れない怪物のように思えてきた。
少年は悲鳴を上げた。
恐怖に駆られ、少年は走り出す。腹の底から悲鳴をあげて、全速力で足を動かす。駆ける、駆ける。しかし、どこまで行っても曲がりくねった道と無数のひまわりだけ。訳のわからない状況に、少年は更に怖がって走る。叫びはひまわり畑に吸い込まれ、足音は地面に飲み込まれる。
やがて、体力の限界が来た。走り疲れ、泣き疲れた少年は、足がもつれてうつ伏せに倒れてしまった。
ぜえぜえと息を吐く。これ以上動けない。体の疲れ以上に、心が疲れていた。どれだけ進んでも一向に変わらない風景に萎えていた。悔しいのか、怖いのか、訳がわからず頭がめちゃくちゃになって、少年は地面に顔をうずめて泣いていた。
「おや」
上から声が降ってきた。少年が顔を上げると、目の前の地面に足があった。素足に白い革のサンダル。絹のように白い肌の、女の人の足だった。
誰が立っているのだろう、と少年は思い、視線を上に向ける。足は膝の辺りで白いワンピースの裾に隠れている。細い腰を経て、少し膨らんだ胸の上で布地は途切れ、首と肩が剥き出しになっていた。白いノースリーブのワンピースだ。
「これは、参ったな」
顔。足と同じように白い肌と、正反対に黒い瞳。少女の顔だった。困ったような笑みを浮かべて、少年を高いところから見下ろしている。頭の上には白いつば広帽が乗っていて、顔に影を作っていた。髪は黒く、長く、腰の後ろあたりまで伸びている。
「どうしてこんな所にいるんだい、少年?」
少女は少年に笑いかけた。少年は返事をしようと思ったが、なんと返せば良いかわからなかった。それに、ヘトヘトに疲れていて、声を出せなかった。
その様子を察した少女は、屈んで少年に顔を近付けた。
「おっと、大丈夫か?」
少年は呻き声しか出せない。少女は少し考えてから、立ち上がった。
「少し待ってて」
そう言うと、あぜ道を曲がってどこかへ行ってしまった。
しかし、少年が心細さを感じる前に、少女はすぐに戻ってきた。その手には、水滴に濡れたペットボトルが握られていた。
少女はペットボトルの蓋を開けると、少年の側に屈んだ。
「ほら、飲みなさい」
少年は首を伸ばして、ペットボトルに口をつける。冷たい水が疲れ切った喉に流れ込む。口の端から、飲みきれなかった水が溢れた。
「はあ、はあ……」
水を飲んだ少年の呼吸が落ち着きを見せた。その様子に、少女は満足げな笑みを浮かべた。
「落ち着いた?」
少女の問いに少年は頷く。体を起こそうとするが、疲れ切った体は上手く動かない。
「おいおい、大丈夫かい? ほら、手を貸してあげよう」
少女に支えられて、なんとか少年は体を起こした。地面の上に両手をついて座る。
少女がペットボトルをもう一度差し出した。少年は、今度は自分の手で取って水を飲む。ごく、ごく、ごく、と、あっという間に中身を飲み干してしまった。
「そんなに喉が乾いてたのか……立てるかい?」
少女の問いかけに応えて、少年はゆっくりと立ち上がった。だが、足元が覚束ない。ふらふらしている。
少年が復調していないのを見て取った少女は眉根を寄せた。
「危なっかしいな……仕方ない。少年、ちょっとついてきなさい」
「だいじょうぶ。もう帰る」
「そんなにふらついて大丈夫なものか。すぐそこに座れる場所がある。少し休んでいきなさい」
言い終わるが早いか、少女は少年の手を取って歩き出した。少女の腕は細かったが、幼い少年にとっては逆らえない力強さがあった。
先行く背中を少年は見上げる。自分よりもずっと背の高い人。歩くのに合わせて長い黒髪が揺れるのが、とても印象的だった。
手を引かれてあぜ道を曲がると、自動販売機とベンチが見えた。少女は少年を自動販売機の前まで引っ張ってくると、問いかけた。
「何食べたい?」
「え」
少年は自動販売機を見上げる。アイスの自動販売機だ。見たことのないフレーバーのアイスがたくさん並んでいる。一瞬、心をときめかせ、しかし少年はすぐに頭を振った。
「いい」
「どうして?」
「お金、持ってない」
少女は目を丸くして、それから高笑いした。
「はっはっはっはっ!」
「な、なんだよ」
「いい子だなあ! 奢ってやるというのに遠慮とは!」
少女は腕を伸ばし、少年の頭を撫でくりまわす。
「や、やめろよー!」
「はは、やめんぞー。やめてほしければ食べたいものを言いなさい」
頭を撫でられながら、少年は自動販売機を見る。揺れる視界の中で、チョコミントのアイスが目に入った。
「……あれ!」
「うん?」
「あの、チョコミントのやつ」
「そうか」
少女は撫でるのを止め、自動販売機でチョコミントのアイスを一本買った。
「ほら」
「ありがとう……ございます」
「うむ。礼が言えるのか。偉いぞ」
更に少女は自販機で紫と白の縞模様のアイスを買った。自分で食べるようだ。なんのフレーバーなのかは、少年にはわからなかった。
少女はベンチに座り、アイスの包装紙を剥がして食べ始めた。少年もそれに習い、ベンチに座り、アイスの包装紙を剥がして食べ始める。疲れ切って熱を持った体には、ひんやりした甘い味が極上の甘味に感じられた。
「うまいかー?」
少年は無言で何度もうなずき、アイスにかじりつく。
そんな様子を少女は斜め上から眺めている。座っても結構な身長差があった。少年はベンチの下まで足が届かないが、少女はすらりと長い足が地面に伸びている。それでいて、座高は頭一つ分以上の差があった。
ふたりは黙々とアイスを食べる。
静かな場所だった。風の音も虫の声も聞こえない。山の中ではうるさいぐらいに騒がしかった蝉の声も、このひまわり畑では響いていない。
音を立てるものは、少年と少女のふたりだけだった。
「さて、ちょっと聞きたいんだが」
「うん?」
「どうしてこんな所に来てしまったんだい? ここは少年が来るにはまだ早いぞ?」
問いかける少女の顔には、何か真剣なものが宿っていた。その様子を感じ取った少年は、しばらく真面目に考えてから答えた。
「わかんない」
「ほう?」
「山で遊んでて、探検してたらここに居て……それからずっと歩いてた」
「迷子……そういうのもあるのか」
「迷子じゃねーし! 探検してるだけだし!」
「わかったわかった」
少年の反発を少女は軽くあしらった。
「食べ終わったら送っていこう。それでいいね?」
「ひとりで帰れるし」
「どうだろうなあ。道に沿って歩くだけでは、いつまで経っても外に出れないぞ?」
そんなバカな、と少年は思ったが、今まで歩いてきたひまわり畑の様子と、少女の真剣な眼差しが、嘘ではないと伝えていた。だから、黙って頷いた。
「素直でよろしい」
少年の頭を一撫でして、少女はアイスの最後の一欠片を頬張った。赤い舌が口の周りのアイスをペロリと舐める様子を見て、少年はドキリとした。
「さて、それじゃあ行こうか」
「う、うん」
金網のゴミ箱にアイスの棒を放り込んで、ふたりは立ち上がった。今来た道を戻っていく。相変わらず、空とひまわりとあぜ道しか見えなくて、少年は不安になる。
「お姉ちゃん、本当に道、わかるの?」
「わかるぞ。長いことここにいるからな」
「そうなの? でも俺、お姉ちゃんのこと、見たことないよ?」
村に住んでいる人はだいたい知っている。しかし少年は、前を歩く白いワンピースの少女を一度も見たことがなかった。
「ああ、そうだな。普段はここから出ないからな」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「こんな所に? つまんなくない?」
「うん。だけど、いなくちゃならないから」
そう語る横顔が悲しそうで、少年は少女を放っておけなくなった。
「だったら、俺が遊んでやるよ!」
胸を張って、そう告げる。
「何もなくてもいろんな遊びを知ってんだ! お姉ちゃんひとりじゃできない遊びをたくさんやろう!
おもちゃだって持ってくるよ! サッカーボールとか、バスケットボールとか!
ゲームもあるぜ! テレビじゃなくて、持って歩けるやつ! 電池がいるけど……お姉ちゃんの家に、電池はある?」
次々と遊びを述べる少年。少女は目を丸くしていたが、やがて微笑んだ。
「嬉しいなあ。そう言ってくれて。でも、ダメなんだ」
「ダメ?」
信じられない、と言った様子で少年が聞き返す。少女は落ち着いた口調で語る。
「私は病気でね。本当はヒトと会ってはいけないんだ」
「……うつるのか?」
「そういうものじゃないから安心していい。だが、人と触れ合えば触れ合うほど、病気は私を悪くしていく。そして最後はおかしくなって、暴れまわって、近くにいたヒトを……傷つけてしまうんだ」
「……ホントなのか?」
「ああ、本当だ。今までたくさんの……少年は知らないだろうが、本当にたくさんの人をこの病気のせいで傷つけてしまった。
だから、普段は誰にも会わない場所で生活するんだ。
しかし、この病気は厄介なヤツでね。重くなればなるほどヒトに会いたくなる。
我慢できなくなって飛び出して、他人を酷い目に遭わせてしまったことも、たくさんあったよ」
そう語る少女の表情は悲しそうだった。
「だからな、少年。ここから帰ったら、私を探そうなんて思わないでくれ。今日のことを思い出さないでくれ。この縁を辿ろうとしないでくれ。そして、長生きするんだ。いいね?」
少女の瞳が潤んでいることに少年は気付かなかった。無邪気に自分の考えを述べた。
「じゃあさ、俺が強くなってチェーンソーのプロになったら、遊びに来てもいい?」
「……なんだって?」
少女は目を丸くする。
「だからさ、お姉ちゃんが暴れまわっても平気なくらい、俺が最強になればいいんでしょ?
俺、お爺ちゃんやお父さんみたいなチェーンソーのプロになる! すっごい強いんだよ! そしたらお姉ちゃんと遊べるだろ?」
「なんだいそのパワフルな解決法は」
少年は本気だった。誰にも負けないくらい強くなれば、少女が我慢しなくてすむと、本気で思っていた。
少女は呆れていたが、やがてフッと笑みをこぼした。
「……そうだな。少年が強くなってくれれば、いいのかもな」
「でしょでしょ!」
少女が足を止めた。
「さて――ここだな」
変わり映えのしない光景。少女はひまわり畑を見つめている。そして、おもむろにひまわりの茂みの中へ手を突っ込んだ。
茂みから引き出した手は、巨大なチェーンソーが握られていた。そんな所にそんなものがあったのかと、少年はびっくりする。
少女が何度かスターターを引くと、チェーンソーのエンジンが掛かった。
「ぽぽぽぽぽ……」
聞いたことのない、独特なエンジン音が鳴り始める。無数の刃がついたチェーンが回る。
「少年! 道を切り開くぞ! ついてこい!」
威勢よく叫ぶと、少女はチェーンソーでひまわりを薙ぎ払った。花と葉が飛び散り、青い匂いが弾けた。
「う、うんっ!」
少年は少女の後ろを進む。あまり近付きすぎるとチェーンソーの間合いに入って危ないので、3歩下がってついていく。
少女は身の丈ほどあるチェーンソーを軽々と振り回し、ひまわり畑を切り裂いていく。どの一撃も踊るように華麗だ。
一歩進むたびにチェーンソーが唸り、ひまわりが弾け飛ぶ。黄色い花と緑の葉、それに青臭い液が飛び散る。
その中で少女だけが白い。ワンピースの裾を翻し、チェーンソーを振るう少女の背中に、少年は見惚れていた。
「よし、この先だ!」
少女が叫ぶ。切り裂かれたひまわり畑の先に森があった。藪が茂る鬱蒼とした森だ。
「この向こうが……帰り道だ。いいか、何があってもまっすぐ進め。
振り返るなよ? 振り返ったら……振り返ったら、道がわからなくなってしまうからな」
そう告げる少女の顔は、帽子の影に隠れて見えない。疲れているのか、俯いて呼吸を荒くしていた。
「うん……うん! ありがとう、お姉ちゃん! 俺、絶対強くなるから! お姉ちゃんも病気なんかに負けないで!」
「ああ……ああ! 行け、少年!」
少年は走り出す。ひまわり畑を抜け、森に飛び込む。
「達者でな! 長生きしろよ!」
少女は聞こえなくなるまで何か言い続けていたが、森の奥に行けば行くほど声は遠くなり、遂には聞こえなくなってしまった。
そして少年は、急に眠気に襲われた。それでも言われた通り、振り向かずに走り続けた。走って、走って、眠気に抗えずに転んで――。
――
気がついたら山にいた。
ぼんやりと身を起こしたが、自分がなぜ眠っていたのかわからなかった。
ただ、空がすっかり暗くなっていたから、早く家に帰らないと怒られると思った。
それからはあの不気味な青空も、延々と続くひまわり畑もすっかり忘れていた。
ただ、心のどこかに強烈な印象が残っていた。強くならなきゃいけない。寂しそうな人を放っておけない。俺より背の高いきれいな人。
それは、覚えていたというよりも、心の底に刻み込まれていた。
だから、だろう。俺が八尺様との縁を切った時、何もかも忘れてしまったのは。
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