八尺様(3)

 車のフロントガラスから、体を二つ折りにした黒い長髪の女性がこちらを覗き込んでいた。頭には柵の向こうに見えたつばの広い白い帽子を被っていた。

 そして、初めて見た八尺様の顔は人間のものじゃなかった。生き物とも思えなかった。肌は血の気が全く無く、真っ白だった。目がある部分には黒い穴が空いていて、その奥から視線らしきものが感じ取れた。牙が乱雑に生えた口は、歯茎を剥き出しにして笑っていた。


 心臓が止まったかと思ったよ。いや、ひょっとしたら止まってたかもしれない。生きた心地がしなかった。なんで、どうして、親父がもういいって言ったのに?

 不意に、昨日の夜のことを思い出した。部屋から出てくるように言った、爺ちゃんの声。八尺様が俺を誘い出そうとしていた偽物の声。同じことをやられた。

 八尺様が窓から離れた。手にしたチェーンソーを振りかぶったのが見えた。


「伏せろぉっ!」


 誰かが叫んで、みんなそうした。

 そして、物凄い音と共に、衝撃が車を襲った。ガラスが割れる音と、金属がひしゃげる音。バラバラと、細かい何かの破片が体に当たった。


「クソッ、降りろボウズ!」


 玄武さんに体を引っ張られて、俺は顔を上げた。

 ワンボックスカーがオープンカーになってた。いや、違う。ワンボックスカーの上半分が斬り裂かれていた。

 そして、八尺様が車の前に立って、俺を見下ろしていた。本当に、名前の通りにデカい女だった。見上げるほど背の高い女なんて、その時初めて……いや……とにかく、背の高い女だった。そして、夏の雲みたいに真っ白なワンピースを着てた。

 そいつはチェーンソーを持っていた。八尺様の身長と同じぐらいの長さがある、化物チェーンソーだった。屋久島の2m超えのチェーンソーと同じぐらい、いや、それ以上の刃渡りがあった。


「ぽぽ、ぽぽぽぽぽ……」


 あの声、いや、あの音はチェーンソーから聞こえていた。聞いたことのない、独特なチェーンソーのエンジン音だった。

 俺は体を引っ張られて、車から転げ落ちるように降りた。親父たちも車を降りた。木島さんの下半身だけは助手席に残っていた。


「構えろッ!」


 親父の号令で、全員がチェーンソーを構えた。エンジン音が一斉に響き渡る。空気が震えていた。あの迫力、並みの人間なら、いや、怪異だって尻尾を巻いて逃げ出すだろう。

 だけど八尺様は全く動じず、チェーンソーを構えた。それだけで全身から汗が吹き出した。春先とはいえまだ肌寒いぐらいだったのに、真夏の太陽に照らされたかのように汗だくになってた。

 最初に動いたのは玄武さんだった。岩のような巨体と、それに見合った巨大なチェーンソーが、八尺様に向かって突進する。それに対して八尺様は、軽くチェーンソーを持ち上げ、無造作に振るった。

 2本のチェーンソーがぶつかり合う。玄武さんは八尺様の刃を防いだが、体が軽く浮いていた。小手調べのような一撃だったってのに。

 その間に、他のチェーンソー使いたちも一斉に動き出していた。親父とジャコウさんは玄武産の両側に立ち、スズさん、リンさんは八尺様の左手に、辰砂さんと石英さんは八尺様の右手に回り込んだ。


「行くわよ、リン!」

「はい、姉様!」


 スズさんがリンさんの腕を踏み台にして、高く飛び上がった。落下しながら、スズさんは八尺様の顔面へチェーンソーを振り下ろす。八尺様はチェーンソーを掲げて斬撃を防いだ。

 しかし、スズさんはチェーンソーを叩きつけた反動で再び跳躍、もう一度八尺様の頭を狙う。八尺様は続けて防ぐが、スズさんはお手玉のように跳ね回り、空中に浮かび続ける。

 そこへ、リンさんが足元から斬り込んだ。妹が上から、姉が下から攻める必殺のコンビネーションだ。

 だが、八尺様はチェーンソーを逆手に持ち、足元のリンさんの斬撃を防いだ。更にスズさんの頭上からの攻撃は、チェーンソーのエンジンブロックで防御し続けている。視野が広い。八尺様もとんでもない技量だ。

 不意に、八尺様が振り返った。右手から迫っていた石英さんが、すぐそこまで来ていた。八尺様が斬撃を放つが、石英さんはチェーンソーでそれを受け流した。


「柔よく剛を制す! これが戦いというものですよ!」


 威力を瞬時に計算して、最適な角度で八尺様の斬撃を受け流したんだ。あの人はそういう事ができる、めちゃめちゃ頭のいい人だった。

 そして石英さんの影から辰砂さんが躍り出て、二刀流のチェーンソーで八尺様の手元を斬り付けた。


「號ッ!」


 一呼吸で三撃。八尺様の手が切り裂かれて、赤い血が流れる。辰砂さんは一番の年上だったけど、あの中で一番動きが早かった。

 八尺様はチェーンソーを振り回して、辰砂さんを押し返す。そしてすぐに振り返って、リンさんとスズさんのコンビネーションに対処する。デカさに見合わない俊敏さで驚いたよ。

 それでも7対1だ。親父と玄武さん、それとジャコウさんが間合いに入った。八尺様はジャコウさんへチェーンソーを斜めに振り下ろした。


「Damn it!」


 ジャコウさんは地面スレスレまで身を屈めた。そのまま逆立ちして、頭上を通過するチェーンソーの横腹を蹴り上げた。カポエイラ、とかいう武術の蹴りだったと思う。チェーンソーの軌道が乱れて、八尺様は僅かにバランスを崩した。

 そこへ親父と玄武さんが斬りかかる。入ったと思ったけど、八尺様は後ろに飛び退って避けた。

 それを見た瞬間、勝った、と思ったね。


「その動きも計算済みですよ!」


 石英さんが八尺様の逃げた先で待ち構えていたからだ。多分、八尺様がどう動いて逃げてくるかまで、読み切ってたんだろう。


 だけどな、八尺様はそんな枠に収まるような存在じゃなかった。『怪物』って言葉は、あれのためにあるんだと思う。


 飛び退った八尺様は即座に振り向いた。背中に目が合って、石英さんが見えていたかのような動きだった。そして、振り向いた勢いのままチェーンソーを振るった。

 石英さんはその動きも読んでいて、さっきのように受け流そうとした。だけどチェーンソーが当たる瞬間、八尺様のチェーンソーが寸止めされた。


「しまっ……!?」


 あのバカデカいチェーンソーで、そんな器用な動きができるなんて想像もできなかったよ。タイミングをずらされた石英さんは、すぐに動き出したチェーンソーに両断された。


「チイッ!」


 怯まず、玄武さんが突進していった。だが、八尺様はあの巨大なチェーンソーをギロチンのように振り下ろした。玄武さんは受け止めようとしたけど、チェーンソーの刃が耐えられずに折れた。そのまま、玄武さんは縦に真っ二つに斬られちまった。

 そして八尺様はリンさんとスズさんの方に向き直った。2人はまた、上下からのコンビネーションを放っていた。八尺様は上から降ってくるスズさんに向けて、チェーンソーを振り上げた。防御じゃなくて、スズさんを打ち上げるための動きだった。

 スズさんは八尺様のチェーンソーを受け止めたけど、いつもよりも高く打ち上げられちまった。それはつまり、落ちてくるまでの時間が長くなるってことで、同時に、リンさんが1人で八尺様の攻撃に晒される時間が増えるってことでもある。


「くうっ……!?」


 一撃はともかく、二撃、三撃と重なって、リンさんは膝をついた。そのまま斬られるか、と思ったけど、その背後から辰砂さんが2本のチェーンソーを構えて飛びかかった。首が狙いだった。

 すると八尺様は左手をチェーンソーから放し、辰砂さんへ突き出した。辰砂さんのチェーンソーは小型だから、八尺様の腕よりもリーチが短かった。2m40cmの身長に相応しい巨大な拳が、金槌のように辰砂さんの顔面を打ち砕いた。


「姉様ぁぁぁっ!」


 そこにリンさんが落ちてきた。いつもより落下速度が増した分、破壊力が期待できる一発だった。八尺様がチェーンソーを掲げて受ける構えを見せたから、リンさんは渾身の一撃を振り下ろした。

 ズラされた。掲げたチェーンソーはそのままに、八尺様は膝を曲げてインパクトの瞬間をズラした。何しろ八尺の長身だ。膝を曲げただけで、チェーンソー一振り分の間合いができちまう。

 攻撃が空振ったリンさんは、そのまま八尺様のチェーンソーに落ちていき、胴体から両断された。その血が地面に飛び散る前に、八尺様はチェーンソーで足元のスズさんをバラバラにした。


「冗談だろ!?」


 驚くジャコウさんに対して八尺様が襲いかかった。ジャコウさんはカポエイラの動きで次々とチェーンソーを避けていった。当たらないんじゃないか、そう思った時、八尺様が恐ろしい動きを見せた。

 ジャコウさんが逆立ちで避けた横薙ぎ、その勢いを利用して高速で回転、更に速くなった二撃目をジャコウさんの胴体へ放った。……後から考えると、そういう動きだったんだと思う。だけど、その時の俺には見えなかった。八尺様の体が一瞬ブレたと思ったら、ジャコウさんがバラバラになってた。そんな感じだった。


 残りは親父だけだった。自分の間合いに持ち込んで、一歩も退かずに必死に八尺様に食らいついていた。

 親父は一族の誰よりも強いチェーンソー使いだ。技量だけなら八尺様と互角だっただろう。だけど、パワーが違う。2m超えの怪物との斬り合いは、例えるならチェーンソーを手にしたヒグマと戦うようなものだ。

 斬撃が肌を掠める度に、親父の防刃作業服が紙切れのように裂かれて、血飛沫が舞った。避けそこなった一撃をチェーンソーで防御する度に、親父の腕は痺れてチェーンソーを取り落しそうになった。

 そして決定的な一撃が入った。親父の決死の一手、振り上げから変化し、鳩尾を狙う突き。八尺様は上体を捻って避けた。そして、伸び切った親父の肘へチェーンソーを振り上げた。


 親父の左腕が、血飛沫を上げながら吹っ飛んだ。


 それでも親父は倒れなかった。……後ろに俺がいたからだ。だってのに、俺は見てることしかできなくてな。身内がズタズタにされたってのに、チェーンソーを握ることすらできなかった。


 その時、真横を巨大なものが通り抜けていった。

 爺ちゃんのワゴン車だった。ワゴン車は猛スピードで八尺様に突っ込み、凄まじい音と共に衝突した。流石の八尺様もアクセルベタ踏みの車のパワーには敵わなかったらしい。大きく吹っ飛ばされて地面に転がった。

 運転席からチェーンソーを握った爺ちゃんが降りてきた。


「親父……ッ!」

「爺ちゃん!」

「曜! 晴斗を乗せて逃げろ!」


 爺ちゃんがチェーンソーのエンジンを掛けながら叫んだ。

 その向こうで八尺様が起き上がった。車で轢かれたのに平然としていた。


「お地蔵様はすぐそこだ! 行け!」

「だけど、親父……ッ!」

「片腕じゃ足手まといだ! とっとと行け!」


 八尺様が爺ちゃんに突っ込んだ。爺ちゃんは耐えるのに精一杯だ。反撃できない。斬りかかられているのに、八尺様のチェーンソーが長すぎて、自分のチェーンソーが届かない。

 親父は凄まじい表情でその戦いを睨みつけていたが、いきなり振り返ると、俺の方に近寄ってきた。そして腰を抜かしている俺の腕を引っ張って、立たせた。


「運転できるか!?」

「あ、ああ……」

「……行くぞ!」


 片腕だってのに物凄い力で俺は引っ張られて、ワゴン車に乗せられた。ワゴン車のフロントはひしゃげていたけど、まだ動いた。

 俺は呆然としていて、言われるがまま車を運転して、フルスピードで八尺様から逃げた。最後、お地蔵さんを越える時に、斬られる爺ちゃんの姿がバックミラーに映っていた。

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