雁金朱音(3)

 S先生のお寺は宮城県にあって、車で半日かけて行きました。山の上の方にある広いお寺なんです。小さい頃に何度か行ったことがあるんですけど、その頃と全然様子が変わってない、不思議なところでした。

 案内されて広い仏間に入ると、尼僧さんのS先生が正座して待っていました。顔はシワだらけの、凄い歳をとったお婆ちゃんなんですけど、不思議とお年寄りって感じはしませんでした。背筋がピンと伸びている、落ち着いた人でした。

 お父さんとお母さんは別の部屋に案内されて、私はS先生と広い仏間でふたりきりになりました。何から話せばいいかわからなくて迷ってると、S先生の方から口を開いてくれました。


「大変だったわねえ、朱音あかねちゃん」


 その一言を聞いた途端、涙が溢れてきました。幽霊が取り憑いてから、みんな私のことを気持ち悪がって、そう言ってくれる人はいませんでしたから。


「はい、はい……!」


 ボロボロ泣きながら頷きました。それからS先生は続けました。


「……どうしようかしらね。朱音ちゃん、怖い?」

「はい……」

「そうよね。このままって訳にはいかないわよね」

「……え?」


 言ってる意味がわからなくて聞き返すと、S先生が言った。


「ああ、いいの。こっちの話だから」


 どういう事? って思いました。それで不安になって、S先生を問い詰めました。


「あの、先生。私の幽霊はどうにかできるんですか? そもそも先生には見えますか? ここに来るまでいろんなお寺や神社に行きましたけど、マトモに取り合ってもらえなくて。わかる人もいたんですけど、その人も幽霊に負けてしまいました。

 先生は大丈夫ですか? 勝てそうですか? それとも、先生でも無理ですか?

 そもそも、どうして私に取り憑いてるんですか? 確かに、鏡の前で儀式はしましたけど、他の子もやってるし、どうして私だけ? ねえ、「どうして? どうして? どうして? どうして?」


 喋るのを止めたのに、「どうして?」って声は止まりませんでした。


「どうして? どうして? ドウシテ? ドウシテ? ドウシ、ドウシテ? ドォッシテ? ドォルルシッテ?」


 声は私の顔のすぐ横から聞こえてました。後ろに気配を感じて、"いる"ってわかりました。背中に寄りかかる重みもあった、ような気がします。幽霊が首を動かして、カサカサと髪が擦れる音がすぐ側で聞こえました。

 首が痒く、痛くって、引っ掻いてもいないのに生暖かい血が流れ出していました。私の真後ろで、チェーンソーのエンジンが細かな振動を立てていました。

 思わず振り返ろうとして。


「見てはいけません!」


 S先生の鋭い声で、動きを止めました。よぼよぼのお婆ちゃんとは思えない、ハッキリとした声でした。


「そのまま。動かないで、朱音ちゃん。怖かったら、私を見なさい」


 先生がまっすぐ私を見つめていました。その真剣な眼差しを見ていると、心が落ち着いてきて、怖い気持ちが薄れていきました。

 そのうち、幽霊の声が止まって、後ろの気配も消え去りました。すると、先生がフワッと笑いました。


「ごめんなさいね、朱音ちゃん。もう大丈夫よ」


 その一言で、幽霊がいなくなったって確信できて、ホッとしました。


「とりあえず、お茶はどう?」


 先生にそう言われて、お茶が出されていることを思い出しました。口に含むと、中身はすっかりぬるくなっていました。

 お茶を飲んでいると先生が聞いてきました。


「朱音ちゃん、聞こえた? 感じた?」

「はい。『ドウシテ?』って繰り返してて……すぐ後ろにいました」

「そうね。どうして? って聞いてたわね。なんだと思った?」

「いえ……わかりません」


 幽霊が怖くて、何を言ってるかなんて気にしてられませんでしたから。


「朱音ちゃんはさっきの、怖い?」

「怖いです」

「そう……何が怖いの?」

「だって、幽霊じゃないですか。怖いのは当たり前でしょう?」

「でも、何もされていないんじゃない?」

「いや、でも……首から血が出て、熱も出て。それに臭いも酷いし、周りで変なことが沢山起こるし……」

「直接、何かされたことは?」

「……いえ。でも、チラチラ出てきて、私のことを見てる。そんな気がします」

「……うん。なら、お菓子を食べながら、ゆっくり説明しましょう」


 お寺の人がお盆に新しいお茶と、お菓子を用意してくれました。それで少し休憩して、それから先生が話し始めました。


「まず、あなたに取り憑いているものなんだけどね。幽霊じゃないわ。神様」

「かみっ……!?」


 驚きましたよ。神様ってもっと神々しくて、ぴかーってしてるものでしょう?


「勿論、神社にいる神様とは違うけどね。でも幽霊って枠組みに収まるものでもないわ。ずっと力が強いの。

 だけど力が強すぎるから、普通の人じゃ取り憑かれただけで体調を崩してしまうみたい。首のアザや熱はそれが原因ね。アレに悪気があるわけじゃないのよ?

 それに運気もゴッソリ吸い取られているわね。ここに来るまで、大変だったでしょう。この霊が憑いてるから、致命的な事にはならなかったと思うけど」

「でも、どうして私に? 儀式のせいですか?」

「儀式?」


 それで私は、学校で噂になってた『鏡の前でお辞儀をして右を見ると幽霊が見える』って儀式を説明しました。それをやってから幽霊が見えるようになったから、儀式が原因だと思ってたんです。

 ところが、説明を聞いた先生は首を横に振りました。


「それじゃないわね。いえ、全く関係ないとは言えないけど、その儀式だけじゃこの霊は呼べないわ」

「関係ないんですか!?」

「多分、朱音ちゃんがやった時に、たまたま条件が揃ってしまったのかも。時間とか、方角とか、あるいは他の何かとか……」


 じゃあ、運が悪かっただけで、こんな目に? そう思うと、目の前が真っ暗になりました。どうすればいいかわからなくて、涙がボロボロこぼれてきました。もうどうしようもならないかも、って。

 でも、先生は言ってくれました。


「さて、それじゃあ今度はなんとかしないといけないわね。朱音ちゃん、時間はかかるけど、きっとなんとかしてあげるからね」


 この一言には本当に救われました。どうにもならない訳じゃない。何とかできるんだって。


 S先生の提案で、私に取り憑いた幽霊を浄化するための日々が始まりました。ええ、1日で終わるものじゃありません。学校はしばらくお休みして、先生に紹介された霊場で生活することになりました。

 そこは物凄い山奥なんですけど、私のように幽霊に取り憑かれた人が沢山住んでいました。その人たちと一緒に修行したんです。本当にお坊さんになるための修行じゃないんですけど、自分の徳を高めて、幽霊を清浄な気に晒すことで少しでも早く浄化させてあげる、っていう話でした。


 そこで暮らしていると、気持ちが大分楽になりました。幽霊は相変わらず見えるんですけど、酷い時よりは出てくる頻度が少なくなりました。

 でも、それよりも、私と同じような目に、いえ、私より酷い目に遭っている人もいたのが、印象的でしたね。

 40年以上ずっと蛇の怨霊に苦しめられている人や、逆恨みで呪われて家族を失ってしまった人、サメの幽霊に襲われて片腕を無くしてしまった人……。その人たちも、特別悪いことをしたわけじゃなくて、私のようにふとしたことから取り憑かれてしまった人たちがほとんどでした。

 なんていうか、こう、私だけじゃない。仲間がいる、っていうのが心の支えになってました。


 そうして霊場で暮らしているうちに、怖いっていう気持ちは大分薄れてきました。それに幽霊を見ることもほとんどなくなりました。

 それで、1ヶ月ですね。先生が霊場にいらっしゃって、お話しました。


「あらあら、随分良くなったみたいね」

「えぇ、先生のおかげです」

「あれから、視えたりした?」

「いえ、最近は見てません。ひょっとして、もう浄化されちゃったりして?」

「そんな事ないわよ?」


 サラッと言われて顔が引き攣りました。


「あら、ごめんなさい。また怖くなっちゃうわよね。でも、朱音ちゃんの頑張りは、あの霊も受け取っていると思う。だから、もう少しここにいて、勉強していきなさい?」


 もちろん、言われた通り、一生懸命頑張りました。修行だけじゃなくて、学校の勉強も、教科書を届けてもらって進めました。戻った時に遅れてたんじゃ仕方ないですからね。

 そんな風に、未来のことを考えられるようになるまで回復したんです。その時点で3ヶ月ぐらい経ってました。

 その頃にもう一度先生に会ったら、いつもと変わらない笑顔で言われました。


「うん。そろそろ大丈夫かしらね」

「ってことは……」

「ええ。霊の気配は無くなってるわ。もう外に出ても大丈夫よ」


 その時の嬉しさは……言葉にできません。あの霊がやっと浄化されたっていうのと、やっと家に帰れるっていうので嬉し涙が出ました。

 それで下山の準備をしたんですけど、最後に先生からお言葉をいただきました。


「いい、朱音ちゃん。確かに今回、朱音ちゃんはあの霊のせいで怖い思いをした。だけど、あの霊も悪気があってやったわけじゃないの。

 力が強すぎて寂しい思いをしていた時、朱音ちゃんに出会ってしまって、すがりついてしまったの。それが朱音ちゃんを傷つけることだとわからずにね。

 だから、怖がらないであげて。全部の霊がそうだという訳じゃないけど、あの霊は"怖い"って気持ちに敏感だから。あまり怖い気持ちを思い出しすぎると、また縁が繋がって呼び寄せてしまうかもしれない」


 先生の言葉に、私は素直に頷きました。長い修業の中で、なんていうかこう、あの霊の事を赦す気になれたんです。それに、いいものとは思えないけど、直接手を出されたわけじゃないから、怖さも薄れていました。


 最後に、念の為月に一度会いに行く約束をして、先生と、霊場の皆さんとお別れしました。山を降りると、先生から連絡を受けたお母さんとお父さんが車で待っていました。

 お母さんとお父さんに会うのは本当に久しぶりで、私は2人に抱きついてわんわん泣いちゃいました。


 それから私は普通の生活に戻りました。とはいっても、月一で先生に会いに宮城まで行くから、ちょっと普通じゃなかったですけど。あと、休んでいる間に進級してしまって、高校3年生になってました。大学受験ですよ、大学受験。大忙しです。

 それに先輩も卒業してしまって、連絡が取れなくなってしまいました。初めての失恋、でしたね。しょうがないですよ。幽霊に取り憑かれた彼女なんて、気持ち悪いですし。


 下山してから1年半、幽霊に取り憑かれてから2年経ちました。大学受験は何とか上手くいって、大学生活にも慣れた頃でした。いつものように先生に会いに行くと、こう言われたんです。


「もう心配いらなそうね。朱音ちゃん、これからはたまに顔出せばいいわよ。でも、変な事はしちゃだめよ」


 それで、本当に終わったんだな、って思いました。その時は。

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