温泉街の事件
やっちまった。
朝食の白米を頬張りながら、俺は心底後悔していた。酒は呑んでも呑まれるな、言うのは簡単だが……あー、頭痛い。
「おっ、翡翠クンはご飯派かい?」
俺の隣に、黒髪をポニーテールにした浴衣姿の女性がやってくる。吉田千菊。アカツキセキュリティ『四課四班』のリーダーだ。
手にしたお盆にはパンを中心に洋食系のメニューが乗っている。ここの朝食はバイキングだ。
「アタシはパン派だけど、ご飯もいいよねぇ。将来一緒になった人にさ、アツアツのご飯としじみの味噌汁と目玉焼きを用意されて、布団から起こされるとか素敵じゃない?」
「そうかもしれないけど……」
お前じゃ無理だろ、と吉田に言うのはやめておいた。事実だとしても。
「ところで帰りの運転お願いしてもいい? ちょっと痛くてね……」
「あー、はいはい。わかりましたよ……」
朝食を終えた俺たちは朝風呂を浴び、着替えて帰り支度を始めた。『九死霊門』は倒したし、隣の部屋の怪奇現象も結局アレっきりだったし、これ以上長居する理由はない。
荷物をまとめ、部屋を出ようとした、その時だった。
「うわああああっ!?」
廊下から絶叫が聞こえてきた。なんだ一体、と思いながらドアを開けて廊下を覗き込もうとする。
そこに誰かがぶつかってきた。
「うおっ!?」
「ぎゃあっ!?」
お互い廊下をゴロゴロ転がる。素早く起き上がって相手を見ると、それはホテルのフロントマンだった。昨日、隣の部屋の様子を見に来た奴だ。
「なんの真似だ、オイ?」
「ヒッ、ヒィィッ!」
フロントマンは腰が抜けているようで、這いつくばりながら俺から離れようとする。……いや、ちょっと凄んだけど、そこまでビビられると傷つくぞ?
そんな風に思っていると、後ろからエンジン音が聞こえてきた。驚いて振り返る。
「……オイ、マジかよ」
女がいた。小汚い灰色のコートを着て、サングラスとマスクをした、顔のわからない女だ。だけど絶対にヤバい奴だってことは一目でわかる。何しろ、手にエンジンの掛かったチェーンソーを持ってるからだ。
まさか同業かオイ、と思っていると、その女が叫んだ。
「お前かぁ! 私の似顔絵を描いたのはお前かぁーっ!」
「違うぅぅぅっ! 俺じゃない! 俺は何も見てなぁぁぁい!」
フロントマンが酷い声で叫んだ。お前か!
女が走り出す。チェーンソーをめちゃくちゃに振り回しながら、真っ直ぐに突っ込んでくる。
その動きを見て思った。こりゃ同業じゃねえ。ド素人だ。
振り下ろされたチェーンソーを避けて、すれ違いざまに顔面に拳を叩き込んだ。女は床に倒れる。勝負あったろ、と思ったけど、女は平然と立ち上がってチェーンソーを振り回してきた。
「うがあああっ!」
鼻が曲がって血が出てるのに、女はまるで怯まない。ヤクでもキメてんのか? それとも……まさか妖怪か!?
そうなるとこっちも武器が欲しいが、あいにく荷物は部屋の中だ。取りに行く余裕はない。
「翡翠クン!」
部屋の中から吉田の声が聞こえた。見ると、棒が飛んできた。キャッチする。吉田が使ってる金属製の警杖だ。
「使って!」
「助かる!」
返事と同時に警杖を掲げてチェーンソーを防いだ。ギャリギャリと耳障りな音がして火花が散る。そのまま、力任せにチェーンソーを押し返す。
女はふらつきながら後ろに下がったが、すぐにチェーンソーで斬りかかってきた。
「しゃらくせえっ!」
それより速く、女の腹に蹴りを入れた。骨が折れる鈍い感触とともに、女の体が隣の部屋の前まで吹き飛んだ。
油断なく警杖を構える。そのまま倒れればいい。まだ立ち上がるなら、警杖で頭を殴る。こいつは金棒みたいなものだ。頭蓋骨くらいなら砕けるだろう。人間だろうが妖怪だろうが、頭を砕けば殺せる。
そこまで算段したけど、全部無駄になった。
「ひっ……!?」
女は引きつった表情を浮かべた。その視線は、女の横にあるドアに向いていた。いや、ドアじゃない。ドアは開いている。ドアの向こう、部屋の中を見ている。
どうした、と思った瞬間、部屋の中から何かが飛び出して、女の胴体に突き刺さった。
「あっ、嫌ッ、ギャアアアアッ!?」
女がチェーンソーを放り出してのたうち回る。血飛沫が吹き上がって、廊下が赤く染まる。なんだ、何が起こってる。
見えた。女の腹に噛み付いているのは、子供くらいの大きさの肉塊だ。見覚えがある。昨日、窓から出てこようとした奴だ。そいつはコートを引き裂き、肉を食いちぎって、内臓に顔を埋めている。
「やめっ、離れ、きたなっ、いぎいっ!?」
女は肉塊を必死に引き剥がそうとするけど、肉塊は凄い力でしがみついて離れない。そうしているうちに、どんどん血と脂が溢れて取り返しがつかなくなっていく。
急に女が動かなくなった。死んだ、と理解するまで少し時間がかかった。
腹は原型を留めないくらいズタズタに食い荒らされていて、それをしでかした肉塊は綺麗サッパリ消えていた。
――
「やっぱクソだったわ、あの旅館。泊まらせられないわー」
帰りの車に乗り込むなり、吉田はボヤき始めた。
「殺しがあった上にそれを隠すだなんて……そりゃあ化けて出るってモンよ」
事の真相はこうだ。
今朝襲いかかってきた女は、1年前にあの旅館で誘拐殺人を引き起こした犯罪者だった。どこからか赤ん坊をさらってきて、ペットケースに隠して持ち込み、あの部屋で殺したらしい。
昨日、窓ガラスに映っていた光景を思い出す。多分あれは、その時の部屋の様子だったのだろう。
ほどなく、旅館の前を流れる川の下流で赤ん坊の死体が見つかった。あの部屋で殺して窓から投げ捨てたのだろう。殺し方は残虐かつ執拗なもので、怨恨じゃないかって話だった。
容疑者は当然、その部屋に泊まっていた女だということになった。警察はすぐに捜査を始めたが、旅館はなかなか協力しようとしなかった。
「風評被害を嫌ったんでしょうね。殺しがあったって噂が流れたら商売にならないとでも思ったのかしら?」
「でも警察が調べ始めたら、大体漏れるものですよね」
「そうそう。実際、全国指名手配されてるんだし。だからアイツらが黙ってたのは無駄だったのよ。ちゃんと喋ればすぐに捕まったかもしれないのに、ったく」
ただ、旅館の中でひとりだけ警察に協力した人間がいた。あのフロントマンだ。事件当時、女を応対したのも彼らしい。オーナーや女将には内緒で警察に会い、似顔絵の作成に協力したそうだ。良心があったんだろうか。それともいくらか包まれたのか。
どちらにしろ、1年経っても女は捕まらなかった。事件のあった部屋は徹底的に模様替えされた。
そんな部屋で起きた昨日の幽霊騒ぎ。旅館側がヤケにムキになっていたのは当然だ。いわくつきの部屋だったんだから。
「しかしあの幽霊ちゃんはわかってたのかねえ? 犯人の女がすぐ近くまで来てたなんて」
「……どうだろ」
わかってたんじゃないかな、とは思う。俺たちが幽霊を窓に押し込んでいる時、あの女が旅館のすぐ側に来ていたことを。
指名手配された女は当然逃げ回った。寝泊まりにすら不自由する生活を1年。そのうちに似顔絵を描いた人間を逆恨みするようになったんだろう。
女はどこからかチェーンソーを盗み出し、旅館にやってきた。そしてフロントマンを見つけるなりこう言ったそうだ。
『私の似顔絵を描いたのはお前か?』
フロントマンは女の顔を覚えていたから、真っ青になって逃げ出した。当然女は追いかけた。後はまあ、俺が見た通りだ。例の部屋から出てきた幽霊に女が食われた。1年ぶりの復讐を果たしたんだろう。
ひとまずは一件落着だったが、生きてる人間たちにとってはそこからが事件だった。何しろ白昼堂々、指名手配犯が化物に食い殺されたんだ。化物は消えたけど死体は残っている。警察の事情聴取で全員が夕方まで旅館に閉じ込められた。
俺は正直に起こったことを話したんだけど、クスリをキメてると疑われた。フロントマンも同じだったと思う。吉田が庇ってくれなかったら、いろいろ面倒なことになっていた。
「この事件の始末、どうなるんですかね」
「さあ……。怪異絡みの事件は物証が残りづらいから、そもそも事件にならないパターンが普通なんだけど……今回は死体が残ってるからねえ」
迷宮入りになるか、無かったことにされるか、誤認逮捕が起こるか。……いや、誤認逮捕は無理か。死体に歯型が残ってる。野生動物に襲われて事故死、辺りの筋が一番無理がないだろう。
いずれにせよ、旅館はただじゃすまないだろう。昨日の女性客がツイッターに書き込んだのがバズった上で、この事件だ。風評以外は免れないだろう。
「まあ、こっから先はアタシらには関係のない話よ。翡翠クンが気にすることはないワケで。
……うん、その、巻き込んじゃったね。ごめんねえ、ホントに。嫌なもの見せちゃって」
「いいですよ、別に。こんなの事故みたいなもんです」
それにああいうものは見慣れてる。ビビリはするけど、今更ウジウジ考えるものじゃない。
ただ、まあ。子供があんな目に遭って、化けて出なきゃ復讐を果たせなかったっていうのは、やりきれないなとは思った。
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