旅館での一夜
『番町皿屋敷』。江戸時代の怪談だ。皿を割って殺された幽霊が「1枚、2枚……1枚足りない」と泣きわめくシーンは、俺も何かで聞いたことがある。
「その怪談がねぇ! アタシに取り憑いちゃってるのよ! アッハッハッ!」
お猪口を片手にヘラヘラ笑う吉田さん。美味い料理もテーブルに並んでいてすっかりご機嫌だ。浴衣がはだけているのも気にしていない。それともわざとやってんのか。
こっちとしてはあらゆる意味で気が気でない。料理は食べてるけど味わう気にならないし、酒も中々飲めない。思うことはただひとつ。吉田さん、さっさと酔い潰れてくれ。こんなんが一緒の部屋じゃ、おちおち寝てられない。
「足りる時もあるんだけどねー。いやー、今回は運が悪かった。まさか一部屋足りないなんて事になるとは思わなかったわよ。普段はホテルが満室なんてこと無いんだけど」
「他の宿にすれば良かったんじゃないですか?」
「そーはいかないのよ! 今度社長さん家族が泊まる旅館なんだから! 下見よ下見! 『九死霊門』はブチのめしたけど、肝心の旅館に何かあったらマズいからね!」
ここまで酔っ払って下見も何もあるか。……しかし、酔ってる割には背筋がしっかりしてる。まだ余裕があるのか? 結構呑んでるはずなのに、強いなこの人。
「おっと、減ってるじゃん。ささ、どうぞもう一杯」
「あ、ああ、どうも」
吉田さんがビール瓶を持って御酌してくる。受け取るしかない。わざと前のめりになって谷間を見せつけてくるのは無視する。注がれたビールに少し口をつけて、ほう、と息を吐く。
「しかし、アンタも結構飲むねえ……雁金ちゃんもそんな感じなの?」
「いや、俺ほどじゃないです」
「ふうん? じゃあ、酔い潰してホテルに連れ込んじゃったりしたことも?」
「そういうのはしません。余裕があるうちに切り上げますから。……まあ、電車が無かったらホテルに行きますけど」
吉田さんはウヒヒと笑っている。何が楽しいんだこの野郎。
「一度はやってみるのもいいんじゃないの? 意外な一面が見れちゃったりして」
「あのなあ……」
「それに、酔って忘れてくれるなら、聞きづらいことも聞けるんじゃない?」
驚いて顔を上げる。さっきまでのヘラヘラ顔はどこへやら。吉田さんは探るような視線を俺に向けている。
いきなりマジの顔を向けられて動揺した俺は、なぜかタラの芽の天ぷらを口に運んでしまった。おいしい。咀嚼する俺に対し、吉田さんは語る。
「人に怪異が憑いてるかどうか調べるにはいろいろ方法があるけれど、本人に聞いてみるのが一番手っ取り早いのよ。憑いているなら、心当たりがあるはずなんだから。
それをねえ……ウチの九段下に占ってほしいなんて、回りくどい! 後輩の女の子の悩みくらい、ビシッと正面から受け止めてあげなさい!」
吉田さんが言っているのは、俺がこの仕事を引き受けた理由のことだ。
『雁金に怪異が取り憑いているかどうか調べてほしい』。陶を通して吉田さんに依頼したところ、金を払う代わりに仕事を手伝ってほしいと言われた。
だけど、吉田さんが言う通り、雁音に聞くのが一番手っ取り早い方法だろう。
そうできない理由がある。
「今回ばかりはアイツに聞けないんですよ」
「どーして?」
「俺、雁金の先輩じゃないみたいなんで」
「……ん?」
吉田さんは眉根を寄せた。
「この前、高校の話になって、俺と雁金は埼玉の高校に通ってたって言うんです。
でも俺は大学を卒業するまでずっと長野にいたはずなんですよ。
ですから、俺が高校の先輩っていうのはありえないんです」
「……待った。それ、おかしいでしょ。つまり、高校時代に貴方と雁金ちゃんは会ってない、ってことよね?」
「はい」
「だったら出会った時点でアンタが気付きなさいよ!? 高校時代に会ったことがあるとか無いとか、それぐらい覚えてるでしょう!?」
そうだ。普通の人間ならそういう事は覚えている。
だけど、俺は。
「大学より前の記憶が無いんです」
「……え?」
「生まれてから大学に入学する前の春休みまで、自分がどう生きてきたか思い出せないんです。寺生まれの人に聞いたら、怪異絡みでそうなったんじゃないかって言われました」
「あー、なるほど。そういうことかあ……うーん、そうか。記憶がないんじゃ、雁金ちゃんが本当に後輩かどうかはわからないわよね……ん?」
気付いたか。
「じゃあどうしてあなたは雁金ちゃんが後輩だってわかったの? え、いや、待って、まさか……嘘でしょ?」
そうだ。吉田さんの考えている通りだ。
「あいつが、俺の事を"先輩"だって言い始めたんです」
2年くらい前。飲み屋の待合席で声をかけられたのが、雁金との一番古い記憶だ。隣の席から「ひょっとして、先輩ですか?」と声をかけてきたのを覚えてる。
その時は誰だかわからなかった。高校の後輩だって言われても、高校時代の記憶が無い。ところが、雁金があんまりに自信満々に話すもんだから、そういう後輩がいたつもりになっちまった。
「それに、上手く仲良くなれたら付き合えるかも、とか思ったり?」
「いやそれは……でも、付き合うとかじゃなくて、友人が欲しかったってのはありましたね」
ぶっちゃけて言うと寂しかった。俺の仕事は基本的に単独行動だ。内容によってはよその業者とチームを組むこともあるが、それでも親密になれるほど回数があるわけじゃない。
業者と取引先と、後はよくいく店の店員と。俺の顔を覚えている人間はそれくらいだろう。もちろん、一緒に酒を飲みに行ける仲ではない。
そんな時に、高後輩らしい雁金と出会ってしまって、寂しさを紛らわせる相手ができた、と喜んでしまったのかもしれない。
「……いやー、待った待った」
俺の話を一通り聞いた吉田さんだったが、納得行かなそうな顔で聞いてきた。
「話はわかった。でも、それ、怪異とは限らないでしょ。宗教勧誘とかセールスとか詐欺とか、そっちの方があり得るでしょ」
確かにそうだ。単なる自称先輩なら、怪異絡みじゃなくてもあり得る。
根拠があるんだ。
「実は」
「キャアアアアアッ!?」
甲高い悲鳴が響いた。驚いて箸を落としてしまった。
「なんだっ!?」
「廊下ッ!」
吉田さんが立ち上がり、警杖を持って部屋を飛び出した。
後に続いて部屋を出ると、隣の部屋の前の廊下に、女性客がふたりへたり込んでいた。泣きながらガタガタ震えている。尋常じゃない。
「どうしました!? 大丈夫ですか!?」
吉田さんが駆け寄って、宥めながら話しかける。ふたりは何も喋らない。恐怖のあまり声が出ないって感じだ。震えながら自分たちの部屋を見つめている。
「……中に何かいるの?」
吉田さんが部屋に入ろうとすると、気付いた女性客のひとりが呼び止めた。
「あ、あの、やめたほうが」
「大丈夫よ。大鋸クン、その人たちをよろしく」
「ああ」
吉田さんはドアを開けて中に入った。部屋の中央から辺りを見回している。
ところが何もなかったようで、吉田さんは眉根を寄せながら俺たちの方に振り返った。すると、押し入れを見て目を丸くした。それから廊下に向かって飛び出してきた。
「どうしました?」
「押し入れに何かいるねえ」
女性客たちも必死に頷いている。当たっているらしい。
「大鋸クン、チェーンソー持ってきなさい」
吉田さんが言った。
「それは……大げさじゃないですか? 流石に」
「いいのよ。何が出てきても、チェーンソーがあったら安心でしょう?」
確かに。
部屋に戻ってチェーンソーを持ち出す。女性客たちはビビってたけど、吉田さんが宥めてくれた。
「すいませーん、どうしたんですか?」
さっきの悲鳴を聞きつけたんだろう。他の部屋の客も部屋から出てきて、俺たちの方にやってきた。中にはチェーンソーを持ってる俺を見てギョッとしてる人もいる。やめろ、濡れ衣だ。
「すみません、ちょっとトラブルがあって……ああ、そこのアナタ、彼女たちの側にいてあげてください。それと、そっちのあなた、部屋に戻ってフロントに電話して、部屋の中でトラブルがあったから来てほしいって伝えてください。
他の方は部屋に戻ってください。特にご家族がいる方は、決して外に出ないように!」
吉田さんがテキパキと指示を出すと、客たちは不思議がりながらも従ってくれた。うーん、リーダーシップ。
「さて。それじゃあ行くよ、大鋸クン」
「わかりました」
俺は吉田さんと共に部屋に踏み込んだ。誰もいない。おかしいところも何もない。だが、入口の横の押入れからズズズ、ズズズとなにかを引きずる音がした。
押入れの前でエンジンの掛かっていないチェーンソーを構えると、中に呼びかけた。
「おい、出てこい」
これで出てくるようなヤツじゃないだろうけどな。
ドン! ドンッ!
床を叩く音がした。そして、引きずる音と共に少しずつ襖が開き始めた。
え、出てくんの? いや、そんな素直に出てこられても困るんだけど……。
開いた襖の隙間から手が出てきた。
……いや、手じゃない。黒い肉だ。それに指が生えているが、つき方がデタラメだ。折れてるとかそういう問題じゃないし、5本以上ある。
すると吉田さんは思いっきり襖を閉めて、相手の手を挟んだ。しかし、手の主は何も言わない。それどころか、更に手を伸ばそうとしてくる。
出てこいって言っといて勝手な話だけど、気味が悪いのでチェーンソーの先で手を押し入れの中に押し込んだ。力はそんなに無いらしく、手はあっさりと引っ込んだ。
「どうしますかこれ」
「どうしようか?」
俺と吉田さんが顔を見合わせていると、ガンガン、ガンガンと後ろの窓が叩かれた。更に、声まで聞こえてきた。
「ああぁあぉっああ……」
声というか音というか。舌のない人間が喉から空気を絞り出している、そんな感じだった。
振り返ると部屋の窓があった。外が夜だから窓ガラスが光を反射して、部屋の中を鏡のように映していた。
ただ、映っている部屋の様子が変だ。俺と吉田さんがいるその後ろ。たった今閉めた押し入れが開いている。そして押し入れの上段に、人間の赤ん坊をぐちゃぐちゃに潰したかのような肉塊が、ベッタリと這いつくばって俺たちを見ていた。
「ッ!?」
俺たちは同時に振り返る。閉めたはずの襖が開いていた。……だけどそこには何もいなかった。あれっと思って振り返ると、窓の中の押し入れも空になっていた。
どういうことだ? 吉田さんも同じ気持ちらしく、ふたりして首をかしげる。
すると、ホテルの従業員が部屋に入ってきた。さっきフロントで会った男だ。後ろにはこわごわといった様子で、この部屋の女性客たちがついてきている。
「どうしました?」
「いや、どうしたっていうか……なんだろう、あれ」
「なんかねえ、気味の悪いバケモノが押し入れの中にいたのよ」
吉田さんがそう言うと、フロントマンは顔を強張らせた。
「幽霊ですか? そんな事あるわけありません。今までそんなことは一度もありませんでしたから」
「いやでも確かに、押し入れの中にいたんだよな」
「そうよ! そこの窓ガラスに映ってたんだから! もう嫌ァ! 帰る! もう帰る!」
女性客のひとりが泣きながら叫んでいる。あれがいきなり出てきたら怖いよなあ、確かに。
「この旅館でそのようなことはありません! 失礼じゃないですか!?」
フロントマンはムキになって、俺たちを押しのけて押し入れを覗き込んだ。何もないのを確かめたらしい。
「ほら、誰もいないじゃないですか。ただの見間違いです」
威圧的な態度で言ったフロントマンは、押し入れから顔を出して俺たちの方に振り返った。
その顔が青ざめた。
「ヒッ!?」
驚きの声を出し、フロントマンは尻をつく。
「おい、どうし……」
「ヒィィィィッ!!」
声を掛ける前に、フロントマンは這いつくばって廊下へ逃げ出してしまった。
「大鋸クン! 後ろ!」
吉田さんが切羽詰まった声で叫んだ。言われた通りに振り返る。
窓。部屋が映っている。俺。吉田さん。女性客2人。廊下のフロントマン。人の様子は変わらない。
だけど部屋の様子が一変していた。畳には血の足跡がついていて、血塗れの何かを引きずった後がそこら中に残っていた。壁や柱には、血塗れの何かを叩きつけた跡がある。机の上は割れた食器やひっくり返された料理でぐちゃぐちゃになっていた。
だけど、それよりも違和感の大きいもの。押し入れの中にいる、ぐちゃぐちゃの肉塊。
「ッ!?」
振り返る。押し入れには何もいない。だけど、窓にはあの奇形の肉塊が映っている。ズズズ、ズズズと引きずる音を立てながら、押し入れの中からから這い出してくるように見える。すぐ側にいる俺に手を伸ばしている。
「クソがっ!」
手にしていたチェーンソーを振り下ろした。窓の中の俺も、それに合わせて肉塊にチェーンソーを振り下ろす。ところが窓の中のチェーンソーはするりと肉塊をすり抜けてしまった。当然、現実の俺にも手応えはない。
「あれっ?」
困惑していると、吉田さんが叫んだ。
「違う! 押し入れじゃない! 窓から出ようとしてる!」
言われて気付いた。窓に写った俺のチェーンソーは、肉塊の頭の所で途切れている。水面から顔を出すように、肉塊は窓の中から、あるいは鏡の世界からこちら側に這い出ようとしていた。
「つぇいっ!」
吉田さんはそう叫ぶと、窓に向かって警杖を突き出した。警杖の先端が肉塊を捉え、ぐちゃりと湿った水音が響く。押さえられている。やっぱり、力はそれほどでもないのか。
俺もチェーンソーの先端で、肉塊の頭を押した。ぶよぶよしている。押し込むと、ズズズ、と音を立てて肉塊が窓の向こう側に沈み始めた。
「あっ、押し返せるぞこれ」
「いいじゃん! 押して押して!」
「せーのっ!」
2人同時に力いっぱい押し込む。肉塊が窓の向こうに完全に沈んだ。
そして、ぱりん、と音がした。
「あっ」
窓ガラスが割れた。……大人2人で押したらそうなるよな、うん。
割れた窓から、寒々しい冬の空気が吹き込んでくる。外は崖と川になっていて、肉塊が転がっているような気配はない。一応振り返って押し入れを見てみるが、そこにもいなかった。
何かがいたのは間違いない。しかし、それがなんなのか知る手がかりは、ガラスと共に砕け散ってしまった。
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