邪視 後編

 歌声がもうすぐそこまで来ている。あの、死にたくなる気分にさせる怪物がすぐ側にまでやってきている。

 いよいよ邪視の怪物が近付いてきて、俺は死ぬほどビビッてた。恐怖で頭がどうにかなりそうだった。声を聞いただけで、世の中の何もかもが嫌になってくる。必死に耐えて、固く目を瞑る。


「グワーッ!」


 唐突に歌が途切れて、悲鳴が上がった。罠にかかった! 俺はチェーンソーのエンジンを掛け、目を瞑ったまま茂みから飛び出した。

 奴は全裸、つまり裸足。鉄製のエグいマキビシを踏んだら、そりゃあ悲鳴を上げるぐらい痛いだろう。

 俺はマキビシを踏まないように、すり足で奴に近寄り、呻き声に向かってチェーンソーを振り下ろした。


「イヤーッ!」


 チェーンソーから伝わってきたのは、土を抉る感触。外れた。悲鳴が移動している。避けやがったか!


「イヤーッ!」


 今度は敷戸の掛け声。目を閉じながら戦うから、怖いのは同士討ちだ。それを避けるために、俺たちは攻撃前に掛け声を出すよう示し合わせている。

 敷戸の攻撃は当たったか? と思ったけど、ガサガサ地面を這う音がした。本当にすばしっこい奴だ。

 不意に、奴の音が聞こえなくなった。足音も、チェーンソーの音も、気持ち悪い声もしない。逃げた? いや、それなら足音がするはずだ。目を閉じているからどうなってるかわからない。

 開けるべきか、閉じるべきか。見えないってのはとにかく怖い。何が起こるかわからないからな。で、俺は迷った末に目を開けちまった。


 奴がすぐそこに立っていた。

 真っ白でシワだらけの顔。人間のものじゃない、顔の真ん中に縦に開いた目。歯が1本もない穴のような口を大きく開けて笑っている。


「アイエエエエ!?」


 昼間と同じ死にたい感情が襲ってきて、俺は訳のわからない悲鳴を上げていた。冗談じゃない! こんな顔を見るくらいなら死んだ方がマシだっ! って感じだった。


「グワーッ! 罪悪感グワーッ!」


 後ろで敷戸も悲鳴を上げていた。あいつはちょっと余裕がありそうだったけど、俺は必死だった。

 奴は意味の分からないおぞましい歌を歌いながら、四つんばいで、生まれたての子馬のような動きで近づいてくる。右手には錆びたチェーンソー。怖すぎる。嫌すぎる。よっぽど舌でも噛んで死のうか、と思ったその時、場違いな電子音が鳴り響いた。

 敷戸の携帯が鳴っていた。のたうち回っていた敷戸は、何故か放心状態のようになり、携帯を取り出して画面を見つめた。

 こんな時に何してんだ……もうすぐ死ぬのに……と思いながら、俺は呆然と敷戸を見つめていた。棒立ちで動かない。白い奴は俺の方に来た。俺は恐怖のあまりしめやかに失禁していた。死ぬ。


 その時である!


「Wasshoi!」


 敷戸が勇ましい咆哮をあげて、素早く忍者装束を脱いだ! 全裸である! サラリーマンとは思えない縄めいた筋肉と、敷戸の不浄が奴の眼前に晒される!


「グワーッ!」


 白い奴は嫌悪の表情を浮かべて顔を背けた。一瞬だけ死にたい気分が軽くなった。だけど奴はすぐに顔を戻して、俺たちを睨み殺そうとした。


「イヤーッ!」

「アバーッ!」


 大きな一つ目に敷戸の投げたものが突き刺さった。手のひらぐらいの大きさの、金属製の星。鋭く尖った先端が奴の目を貫いている。マンガでしか見たことのないそれを見て、俺は思わず叫んだ。


「スリケンだー!」


 ……うん、手裏剣って言いたかったんだ。ビビってたのとビックリしてたので舌が回らなかったんだよ。勘弁してくれ。

 とにかく奴の目が潰れた瞬間、さっきまでのしかかっていた死にたい気分が嘘みたいに消えた。

 そしてその時すでに、敷戸はチェーンソーを振りかぶって、白い奴に飛びかかっていた。全裸で。


「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」


 1分、2分ぐらいめった切りにしてたかな。敷戸が手を止めると、白いやつは動かなくなっていた。

 いやもう酷い、全身めった切りだったよ。そのまま畑の肥料にできるんじゃないかってぐらい細切れにされてた。

 恐怖感も何もないただの肉塊を見て、俺たちは言葉を交わした。


「死んだよな?」

「恐らくな」

「……戻るか」

「うむ」


 それからマキビシを片付け、ロッジに戻った。敷戸はいつの間にか忍者装束を着ていた。

 ロッジに入ると、俺は全てのドアの戸締りを確認し、コーヒーを入れた。敷戸にも出してやった。飲みながら、気になっていたことを質問してみる。


「お前……あいつの事、知ってたのか?」


 対処が妙に的確だった。目を瞑って戦うぐらいは思いつくけど、全裸で戦うってことは知らなきゃ思いつかない。

 案の定、敷戸は頷いた。


「うむ。以前、北欧で同じジツを見たことがある」


 そう言って敷戸は語り出した。

 その昔、旅行代理店の営業で北欧を訪れた敷戸は、宿泊先のホテルである日本人と意気投合した。

 そいつは70代ぐらいの男で、夜でも室内でもサングラスをしている奇妙な男だった。何十年も旅を続けていて日本には帰っていないらしく、敷戸から日本の話を聞かされて懐かしんでいたらしい。親子以上に歳が離れていたけど、すぐに友人になったそうだ。

 敷戸の商談がまとまって、帰る日が近づいた時、その男がホテルの部屋に敷戸を呼んだ。敷戸が行くと、男は神妙な面持ちで話し出した。


 男は『邪視』を使えたらしい。

 邪視っていうのは、世界中にある民間伝承、迷信の一つで、悪意を持って相手を睨みつける事で呪いを掛ける事ができるそうだ。

 周りには秘密にしていたのだが、こんな異国の地で仲良くなった敷戸に運命を感じて、教えることにしたそうだ。

 敷戸は当然信じなかった。男も承知していたようで、少しだけ力を体験させよう、と敷戸を部屋に呼んだそうだ。


「今から貴方を縛りあげる。おかしな事をするつもりはない。ただ、貴方が暴れ回るだろうから、それを抑えるためだ。

 私はほんの一瞬だけ、貴方を見つめる。やる事は、ただそれだけだ」


 敷戸は提案を受け入れ、椅子に縛られた。邪視の話は信じていなかったけど、その男の友情は信じられたし、いざとなったら懐に手裏剣を忍ばせていたからそれで戦えたそうだ。税関仕事しろって思ったけど、敷戸の話を聞いてる時は黙っておいた。

 で、縛られた敷戸に対面して、男がサングラスを外した。


「……確かに、今日の奴を見た時と同じようになった」


 コーヒーをテーブルに置いて、敷戸は呟いた。


「見た瞬間、罪悪感が襲ってきた。死にたくなった。瞳が醜いとか、異様だとか、そういうものではない。とにかく世の中の全てが嫌になる。見られたのはほんの1~2秒だったのだがな」


 さっきの俺と同じようになったらしい。

 そして男は敷戸に邪視への対処法を教えた。まず、間近で直接見れば死ぬ。一度邪眼に目をつけられたら、どこにいようと見つかるから逃げても無駄だ。殺すか興味を逸らさせるしかない。

 そして邪視は不浄なものを嫌う。自分が与える汚さを上回られると、罪悪感がそのまま自分に跳ね返ってくるそうだ。だから邪視に睨まれたら、逃げるのではなく汚いものを見せつけて、目を背けさせればいい、と教えられた。


「その話を聞いて、1つ気になって聞いてみたのだ」


 敷戸がぽつりと呟いた。


「相手に背を向けながらムーンウォークで接近し、後ろ手にスリケンを投げて目を潰せば良いのではないかと」


 やめろよそんな訳のわからないこと聞くの。邪視のお爺さんが可哀想だろ。

 心の中ではそう思ったけど、表面上は敷戸に合わせて続きを促した。


「……その人は、なんて言ったんだ?」

「目を潰すのは有効だが、背中越しは難しいだろうと言われた」


 真面目に答えてくれた邪視のお爺さん、数十年ぶりに会った日本人がこんな奴で本当にごめんなさい。

 ちなみに、銃で狙えばいいだろという話もあった。しかし強力な武器を持っていると、邪視に睨まれた時にASAP(As soon as possible, 『迅速に』の意)で自殺してしまうからおすすめできないそうだ。

 事実、男は以前、日本のとある抗争に雇われて参加したが、男に銃を向けた人間は、全員自分の頭を撃ち抜いたそうだ。一度だけヤバかったのは、雇われた組織に裏切られて、泊まっていたホテルに火をつけられた時だけだとか。

 何とかその場を逃げ延びた男は海外に高跳びして、各地を転々とする今の生活を続けているらしい。


「彼は最後に、世界には同じようなジャシ・ジツの使い手が大勢いると言っていた。人間だけでなく動物や、人知を超えた存在たちにもジャシ・ジツを備えた者がいるそうだ」

「つまり……さっきの白い奴も?」


 俺の問いに敷戸が頷く。


「うむ。奴が本当に化け物だったのか、それともあのように育てられた人間なのかは分からない。だが、最初に見た時のあの罪悪感。あれは北欧の男と同じものだったから、同じジャシ・ジツの使い手だと確信したのだ」


 そんな奴が泊まってるロッジのすぐ近くに潜んでいたなんて。俺は震え上がった。初見殺しにも程があるだろうよ。見ただけでこっちが死にたくなるなんて、俺ひとりじゃどうしようもない。

 そこまで考えて、はたと気付いた。


「……そういやお前、服を脱ぐ前に、邪視、食らってたよな? どうして正気に戻ったんだ?」


 すると敷戸は照れくさそうに笑った。


「……妻からLINEが来た」

「LINE?」

「うむ。今週末、家に帰る約束をしていてな。どこに行こうかというメッセージだった。それを見たら死んではいられないと思ったのだ」


 ビックリだ。『愛が邪悪に勝つ』なんてのを目の前で見るとは思わなかったよ。



――



「あの、先輩」


 話し終わると、珍しく雁金が質問してきた。


「なんだ?」

「途中で出てきたのはなんですか?」

「途中?」

「白いワンピースの、チェーンソーを持った子供です」


 うーん。


「知らん」

「え。おかしなものじゃないんですか?」

「いやだって……夢だし」


 起きたらどこにもいなかったしなあ。


「あれか。『邪視』の怪物がそんな格好に見えた、とか?」

「いやそれはないでしょう。私の知ってる話だと、そこで出てくるのは弟さんでしたよ?」

「弟……いや、それはないな。ハッキリ女の子だった」


 それに俺に弟はいない。いや、忘れてるのかもしれないけど……いや、ないな。あったら、アルバムの写真のどっかに写ってたはずだ。


「……先輩。確認しておきたいんですけど」


 妙に深刻な顔で、雁金が訊いてくる。


「なんだよ」

「チェーンソーの『ぽぽぽぽぽ』って音、本当に音でしたか?」

「うん?」


 どういう意味だ?


「ひょっとして、声じゃありませんでしたか?」

「いや、音だったと思うぞ? っていうか、怪物が持ってた錆びたチェーンソーの音だったし」

「……そうですか。それなら、いいです。ハイ」


 そう言うと雁金は黙りこくって、チューハイを飲み始めてしまった。なんだ珍しい……変なことでもあったんだろうか。

 小さいガソリンエンジンだったら、ぽぽぽってエンジン音になるのは全然普通のことなんだけどなあ。

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