5.最後の地

 イングヴァルは暗い夜空を見上げた。

 足下には新たに増えた三人分の死体がある。

 倒したのは建物の前にいた男達。

 こちらに気づいた一人目の頭を撃ち、二人目は駆け寄って斬り倒した。

 慌てて銃を抜いた三人目に銃弾を浴びせた時、四人目が逃げ出した。

 背を向けて逃亡する相手を追う気はなかった。

 彼は運がよければ逃げ切るだろうが、今目の前にいる男と再び出会すことがあれば運もその時尽きるはずだった。


 イングヴァルは闇の中で対峙する相手を改めて見据えた。

 歳は三十代半ば、セルジオ・スベレフは端正な顔をした華やかな雰囲気を持った男だった。

 あれほど大規模な犯罪組織を束ねる長としては随分若い。そのためには様々な手を使ってのし上がったはずだが、それらの詳細は想像したくもなかった。

 男は闇で微かな笑みを浮かべている。

 それは先程の殺戮を感じさせない気品ある笑みだった。

 だがその内側は腐れ切っている。

 内側に隠したそのおぞましい正体には様々な感情が過ぎった。


「確認したい」

「何をだ? 娘」

「あそこにいた金色の髪の娘、半分……顔を焼かれた娘だ……彼女をあんな目に遭わせたのはお前か?」


 問いを向けると、相手の顔には意外なことを訊かれたといった表情が浮かぶ。

 返されたのは質問の答えではなく、本当に愉快そうな笑いだった。


「何がおかしい?」

「いや、本物の感情というものに久しぶりに触れた気がしたよ。よい体験だった、ありがとう、お嬢さん」

「……」

「あの娘、名はアンネッテといったな。確か殺しのついでにゴートがどこかから連れてきた娘だった。はここ最近では俺の一番のお気に入りだった。しかしどうやっても完全には〝俺のもの〟にはならなかった。あのなめらかな美しい肌を焼いてやっても、戯れに腹を切り裂いてやっても、慈愛に満ちたあの瞳を潰してやってもね」

「……なぜ、そんなことをした」

「あの娘には愛した男がいた。それを知った時、俺にはただ羨ましいという思いしかなかった。なぜ自分以外の人間にそれほど強い思いを抱けるのか。その感情は俺にとって不可解なものであり、憧れの対象でもある。同時にその二つを凌駕する嫉妬の思いもある。どうしてその強い思いを自分には向けてくれないのか。彼女が誰かに抱いたあの愛情は、最後まで俺に与えられることはなかった。その思いを欲するのは俺の我が儘か? 違うだろう? 誰かに愛し愛される権利は、全ての者に与えられるものだからだ」


 イングヴァルは届く言葉を聞きながら、質問したことを後悔していた。

 返ったのは聞く必要もなかったくだらない戯れ言。

 この男は完全に狂っている。

 本物の狂人が今目の前にいる。

 しかし耐え切れぬ憎悪を抱いてここに立つ自分も、この相手とそう変わらないのかもしれなかった。


「お喋りの時間はこれで終いだ」


 男は言い放つと手にしたショットガンを放り、足元の死体からサーベルを奪う。

 こちらを見遣ったその顔には、美しくも歪んだ笑みが刻まれていた。


「さぁ、こっちに来てくれ、お嬢さん。私を殺すんだろう?」

「言われなくてもそうする。ずっとりたくてたまらなかった」


 イングヴァルは地面を蹴って、対峙すべき相手に向かった。

 相手の頭上に刀を振り下ろすが、男の剣が弾く。

 すぐに背後に退き、次の攻撃を仕掛けるがその前に鋭く剣が突き出される。

 それを寸前で躱し、再度挑むと鍔迫り合う音が激しく響いた。

 力勝負では多少分が悪かった。しかし動きの速さでは上だった。


 機会を見計らって一旦引き、隙を突くように切り上げれば相手の肩を掠める。

 闇に血が舞うが、その光景を目で追った男の顔に笑みが滲む。

 目の端に映ったその表情に一瞬気を取られ、次の反応に遅れる。

 間合いを詰めた相手の攻撃を僅か避けられず、体勢を崩す。

 取り直す前に、剣が喉元に突きつけられた。

 後ろに下がるが、瓦礫に足を取られる。

 体勢が大きく崩れ、追い打ちをかけるように背後に強く突き倒された。


「近くで見ても、やはり美しい瞳の色だ」


 見下ろす男の声が上から落ちた。

 男が手にした剣の刃先が、瞳間際まで届いている。

 反撃の機会はまだあるが、今動けば連の瞳を失う。

 何もできず、イングヴァルは男の姿を無言で見上げていた。


「どうした? もう諦めるのか」

「お前にはそう見えるか? 随分楽天的だな」

「楽天的なのはお前だよ。もう詰みだ、娘。お前なら俺を殺せるのではないかと思っていたが、期待外れだった。所詮お前もあの女達と同じだよ。臓腑と糞尿が詰まったただの肉の塊だ」


 男の刃は身体をなぞるように移動し、首筋、胸の間を通って、足の間に辿り着く。


「懇願するか? その身体で俺を愉しませてくれるなら、一晩くらい命を延ばしてやってもいい」

「ああ、待ってたよ」

「待ってた? やはりお前もその程度か。どうせなら見苦しくても……」

「違う、お前には言ってない。やれ、ジア」


 瓦礫の闇に銃声が響いた。

 ふらつきながらも確実に銃を構えたジアが、男の背に銃弾を放っていた。

 しかし彼女はその場で力尽きたように倒れ、二度と動くことはなかった。 


「地面に寝るのが好きみたいだな。せっかくのお洋服が台無しだ」  

「殺せ……早く……」


 立ち上がったイングヴァルは、地面に伏して呻く男を見下ろしていた。

 男の息は荒く、動けないようだが、致命傷までには至っていない。

 それでも何も取り繕わず痛みに顔を歪める相手の表情を見確かめると、イングヴァルは周囲の闇を見回して問いかけた。


「どんな死に方がいい?」

「……首を刎ねろ……ひと思いに……」


 男は呻きながらも半身を起こし、そう告げる。

 だがイングヴァルはその言葉がまるで聞こえなかったように闇の向こうを見据えると、大きく頷いた。


「分かった……〝願い〟は叶える」


 言い様イングヴァルは男の右手を掴み取った。

 そのまま力任せに地面に引き倒し、右の五指全て斬り落とす。

 間を置かず、闇を震わす絶叫が響き渡った。

 男は再び地面で呻きながら、こちらを見上げる。

 その顔には驚愕と悲壮が浮かび上がっていた。

 それはこの男が初めて顕した本物の感情だった。


「なぜ……こんなことを……」

「どう死にたいかなんてお前に訊く訳がない。首を刎ねろ? そんな楽な道を選ぶ権利があるとでも? 俺はを訊いただけだ」


 イングヴァルの目には、この場で漂う殺された女達の姿が映っていた。

 彼女達の姿は薄くなり濃くなり、迷うようにその場に漂っている。

 なぜ突然、彼女達の姿が見えるようになったのか。

 その理由はイングヴァルには分かっていた。

 自分は〝そちら側〟に近づいている。

 彼岸と此岸があるというのなら、これまで自分はその狭間を彷徨っていた。

 でももうその狭間にある川を自分は渡ってしまったのかもしれなかった。

 

「……ま、まだ、何をするつもり……だ……?」


 彼女達には死より苦しいものを与えたが、自らは耐えられない。

 そんな身勝手な理屈がこの昏い地で許されるはずはなかった。


 イングヴァルは女達が伝える要望に耳を傾けながら、次々に制裁を与えていった。

 痛みは男から気品も華やかさも奪い去り、屈辱と永遠の責め苦を与え続けている。

 しかし届く絶叫も次第に小さくなっていった。

 瓦礫の闇が静寂を取り戻す頃、彼女達の姿も消え去っていた。


 イングヴァルは暗い夜空を再度見上げた。

 足元には以前この地の支配者だった男の臓腑と糞尿と肉塊だけが転がっている。

 ここを去った彼女達はどこに行くのだろうと、イングヴァルは思う。

 彼女達の向かう先に安寧があることを心から願うが、自らの行く先が地獄であるのは間違いようのない事実だった。


「どこに行くんだ、イングヴァル!」

『……連』


 ふらふらと当てもなく歩き出した両足を止めたのはその声だった。

 振り返れば、そこには連の姿がある。

 自らを見下ろせば、見慣れた本来の姿があった。


「イングヴァル……」


 自分を見つめる連の姿をイングヴァルは捉えていた。

 彼女の黒い瞳は、これからここで起こるであろう出来事を悟っている。

 彼女の姿を最後に見られてよかったと、イングヴァルは思う。

 そして一緒の場所には行けないが、アンネッテのことを心の奥で思う。


 目を閉じれば、一筋の光が見える。

 手を伸ばしてその光を掴もうとしたが、手にしたと思ったそれは掌の中で消えてしまった。

 握った掌を開けば、そこには闇だけがある。

 永遠の終わりも、永遠の安らぎも、そこにはない。

 因果応報。

 イングヴァルは自らが最期に手にした底のないそれに嗤いを零した。

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