3.アンネッテ
「こっちだよ連、足元には気をつけな」
ジアは瓦礫の中を慣れた足取りで進んでいく。
イングヴァルは闇に紛れそうになるその背を追いながら、これから自分に訪れるものを思っていた。
彼女が案内する場所には捜し求めた復讐相手がいる。
同時にその場所には、死んだと思っていた妹もいる。
あの晩、妹に何が起こったのか分からない。だがよくない出来事が起きたのは間違いなかった。
あの頃の妹の姿はもうどこにもないかもしれない。
深く傷つき、病み、自我すらも彼女は失っているかもしれない。
そんな妹を見て、自分は平静でいられるだろうか。
それにもう一つ問題がある。
再会を果たしても、妹には自分だとは分からない。
目の前に立ったとしても、彼女の目に映るのは見知らぬ東洋の少女でしかない。
彼女が知る兄としての姿は、とうに失われている。本来の身体は既に土の下で腐り落ちている。
兄として再会を果たすことは、望んでも決して叶わないことだった。
「ねぇ連、あんたと捜してるその人って、一体どんな関係なんだ?」
振り返ったジアが足も止めずに訊ねていた。
イングヴァルは返事に暫し迷ったが、結局答えた。
「謝らなければならない人だな」
「謝る? あんた、その人に何悪いことをしたんだ?」
「色々だな……」
「ふーん、色々かぁ……まぁ都合のいい言葉だけど、人に言いたくないことは誰にでもあるからね。こんな私にも」
雲に覆われた月の下、足場の悪い闇を進むのは困難だったが、案内人のおかげで迷うことなく目的の南西地区に到着していた。
夜の帳が完全に下りた街の様相は、一見先程の場所とあまり変わりなく見えたが瓦礫は一カ所に集められ、建物の崩壊も少ない。周辺の雰囲気からこの辺りは以前歓楽街だったと窺えた。初めて見る文字が並ぶ看板や華美な照明が、完全な破壊を免れて残っていた。
「野郎がいつもいるのは、あの建物だよ」
ジアは通りの中でも目立って大きな建物を指した。
当時の面影が残るショーの看板、大勢の人が出入りしていたであろうエントランスの硝子扉、目的の建物は元は劇場のようだった。半分壊れた扉から覗き込んだ建物内は暗く、赤い絨毯が敷き詰められたその奥は外からは窺えなかった。
「私はここで待ってるよ」
「分かった。でも危険だと思ったら何も気にせず逃げていい」
「そんなの言われなくても分かってるよ。そうなったら私はあんたを囮にしてでも逃げるから」
軽く笑うジアに笑い返し、イングヴァルは建物の中に足を踏み入れた。
寂れたロビーの先には点在する照明が灯るが、どれも今にも消えそうなほど頼りない。周囲の闇に溶け込みそうなそれを辿って長い廊下を進むと、重厚な両開きの扉がある。
軋み音を響かせて開くと、昏い広間があった。
香を焚いた匂いが妖しく漂い、変色した絨毯の上には幾人かの女達が寝そべっている。
皆、恍惚の表情を浮かべ、思考すらも剥ぎ取られているようだった。
先程見た薬物中毒の女達とは違う。
永遠にこの場所と何者かに囚われているような表情だった。
「た、すけて……」
その声に下を見れば、這い寄った一人の女性が足を掴んでいる。
イングヴァルが屈み込んで手を取ると、彼女はそのまま気を失ってしまった。
周囲を見渡すが、どの女性も同じ状態だった。
彼女達は生きているが、ただ生きているだけ。
本来の意味に当て嵌まる状態とは言えなかった。
「アンネッテ! いるのか? いたら返事をしてくれ!」
イングヴァルは声を上げた。
妹をこの場で捜すが、見つけたい思いとそうでない思いが半々だった。
こんな所になどいてほしくない。矛盾する思いが拮抗する。
だが彼女の姿を、イングヴァルは捉えてしまっていた。
何度も触れた覚えのある髪、後ろ姿だけでも彼女と分かる。
駆け寄り、床にうつ伏せて横たわる相手を抱き起こす。
しかしその直後に言葉を失っていた。
彼女の顔の半分は焼け爛れていた。それに自分が抱き起こしたせいなのか、腹部に血が滲み始めている。焦って服を捲ると、いくつもの縫い跡が残っている。どれも悪戯に切り裂かれ、後に杜撰に縫い合わせられた素人仕事だった。
妹の虚ろな目がこちらを見上げていた。白濁したその瞳には何も映っていない。
数々の驚愕の事実には言葉を失うしかなかった。
茫然とするイングヴァルの耳に掠れた声が届いていた。
「……誰……? 誰なの……?」
彼女の呼びかけにどう応えていいか分からず、イングヴァルはただ抱きしめることしかできなかった。
この部屋にいるどの女達も薬漬けにされ、自我を失わされている。けれどその中でも妹だけが特に過酷な目に遭っているのは確かだった。
「もしかして……兄さん……?」
だが続けて届いた言葉にイングヴァルは目を見開いた。
兄と示すものなど何もないにも拘わらず、妹はそう呼んだ。
「兄さん……兄さんよね?」
しかし理由などどうでもよかった。
差し出された手をイングヴァルは強く握りしめた。
自分は選択を誤った。そのせいで失ったものは二度と取り戻せはしない。どう願ってもそれは叶えられないことだった。
「兄さん、兄さんなのよね? だったらお願い……私を……私を殺して……私はもう助からない……だけど兄さんになら……」
イングヴァルは再度絶句するしかなかった。
届いた言葉は朦朧とする意識の中で意思もなく零されたものではない。消え入るように届いた懇願は、何よりも深い比重を持つものだった。
もう助からない。
それはイングヴァルにも分かっていた。
彼女が声を上げる度に腹部の傷から新たな血が滲む。
死を凌駕する痛みと苦しみは確かに存在する。
もう一度彼女を強く抱きしめたイングヴァルは、何も映していないその瞳に頷いた。
最後の痛みは与えたくなかった。
これまでの苦しみが一瞬で消え去るよう、取り出したナイフで一気に喉を切り裂く。
力なく握り返していた彼女の手が床へと滑り落ちる。
彼女の温もりはまだ腕に残っているが、じきに消え失せる。
失われていく温度と反比例して、消えようのない現実が深く刻まれた。
「連! 早く逃げるんだ! 奴が……」
背後の扉が乱暴に開かれた。
駆け込んだジアの叫びが響く。
彼女は何かを伝えようとしたが、その声は銃声に遮られる。
背を撃たれた彼女の身体はイングヴァルの目前で崩れ落ちていた。
開いた扉向こうから数人の男達が姿を現す。
中央に立つ男が手にした銃からは硝煙が上がっていた。
「……連、あいつが、セルジオ・スベレフだ……」
言い伝えたジアはうつ伏せたまま動かなくなった。
男は銃をショットガンに持ち替えるとこちらを見る。
発した声は、感情を何も顕さない声だった。
「俺の部屋に鼠が入り込んでるようだ」
直後、轟音が響く。
男はただ無造作にそこにあるものに銃口を向け、引き金を引く。
アンネッテの亡骸を抱きかかえて、イングヴァルは物陰に身を隠した。
男は発砲を続け、依然その顔には何の表情もない。
轟音と共に四方八方に飛ぶ銃弾は、広間にいた女達を次々に犠牲にしていった。
「やめろ! 女達も殺す気か!」
叫びは誰にも届くことはなく、無駄でしかなかった。
イングヴァルはアンネッテの亡骸を物陰に隠すと、周囲を見回した。
広間の端に小さな扉がある。再装填の隙を見て、イングヴァルはその扉から走り出た。扉の先は狭い通路が続くが、外に繋がる窓がある。
イングヴァルは窓へと一気に駆けると突き破った。
硝子が割れ、破片が飛ぶ。
降り注ぐ破片を避けながら地面で受け身を取ると、そのまま路地の奥へと駆ける。
背後からあの場にいた男達が追ってくる気配を感じた。
追跡者は三人。
それを身確かめたイングヴァルは刀を抜き、彼らに走り寄った。
一人目は向こうが動く前に、喉を切り裂いた。
その屍を飛び越え、二人目の顔面を撃つ。
三人目は銃を抜いたが、構える前に手首ごと刎ねた。
叫び声が迸る前に銃弾を撃ち込む。
連が望む動きと自分が望む動きが身体の中で融合している。
「連、あいつの所に戻る」
『分かった、気をつけろ、イングヴァル』
「ああ、分かってる」
イングヴァルは三人目の死体も飛び越えると、対峙する運命にある相手の元へと駆けた。
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