2.ジア

 朽ちた街は、山のような瓦礫と無秩序さで溢れていた。

 到達した塔の真下。

 周囲の建物は多くが瓦解し、形が残るものも同様の道を辿るのは時間の問題だった。

 見上げた塔は硝子と見たこともない素材で構成されていた。これまで通過してきたどの街にもこんな奇妙な建物はなかった。割れた数多の硝子が夕焼けの昏い橙色に反射し、より街の陰を浮き上がらせていた。


 かつて大通りだったらしき場所に立つと、無情の風が吹く。繁栄の痕跡が僅か残る事実が一層悲壮感を呼ぶ。

 物陰には潜んだ人の気配がある。

 時折視線が絡みつくが彼らは姿を現さず、こちらを密かに窺っている。

 だが状況は違えど、これはどこにでもある光景だった。

 よそ者に対する態度。過度な感情で受け取る必要はなかった。


『妹を捜すんだろう? イングヴァル』


 イングヴァルは届いた声に頷くと、瓦礫が散らばる道を歩き始めた。

 妹は生きているが、救わなければならない状況下にある。それを思えば沸々と湧き上がる感情があるが、緊張溢れるこの街では常に冷静であることが求められた。


 翳り始めた陽は、瞬く間に落ちようとしている。

 潜む視線は至る所に感じられたが、どれも深追いはしてこない。

 雨も降り始めようとしているのか、風も冷たくなっていた。

 ある一角に辿り着いたイングヴァルは周囲を見渡した。

 どこからか漂う独特な香りが辺り一帯を覆っている。


 どんな街でも身体を売る女達はいる。

 そんな彼女達の根城であるらしき崩れかけた建物の中を覗き込んだ。

 甘苦い香りと煙草の煙、澱んだドラッグのにおいが眩暈を誘発する。

 薄暗い室内では幾人かの女性が、生気をなくした表情で座り込んでいる。

 部屋の隅で壁によりかかる女がこちらを向いた。

 虚ろな瞳の彼女が妹でないことを確認して、イングヴァルは安堵する。

 だが妹はきっとこのような場所にいる。微かな望みすらも奪われるこの劣悪な環境を思えば、焦燥が心を覆った。


「あんた、何か用?」


 険のある声が背に刺さるように届いた。

 振り返れば、こちらを見咎めるように立つ一人の女の姿がある。

 身なりは他の女性達と同様にうらぶれて見えたが、背筋を伸ばして立つ相手のその目にはまだ光が感じられた。


「人を捜してる」

「人? こんな所まで落ちてきた人間を捜そうって言うのかい? そんな無駄なことをやって一体どうするつもり?」

「名前はアンネッテ、歳は二十を少し過ぎている。髪はブロンドで、背の高さは普通。顔立ちは……」

「ねぇ、私の話聞いてた? 遠回しに捜すな、って言ってんだよ!」

「顔立ちは大人びている方だが、頬の両方にえくぼがあって……」

「もう黙れって言ってんだ! このよそ者が!」


 駆け寄った女が有無を言わさず頬を撲った。

 こちらを見据える瞳は怒りに満ちている。

 痛みはそれほど感じなかったが、向けられた感情は大きかった。

 この場所で無作法なことをしているのは分かっていた。彼女の怒りの理由も承知していたが、自分は妹を捜さなければならなかった。


「もう一度訊く。彼女はここにいるか? もしいないなら他を捜す」


 再度問いかけるが返事はなかった。

 向かい合う女は返答の代わりに苛ついた表情で煙草を咥え、苛々と煙を吐き出す。

 きつい瞳で再びこちらを見据えると、怒鳴り声を上げた。

 

「他ってどこ? ここはあんたみたいな小娘の来る所じゃないんだよ、分かってんだろ?」

「ああ、そのつもりだ」

「分かってるならどうしてよ? 死んでもいいって訳? 馬鹿じゃないの?」

「心配してくれてるなら感謝するよ。でもまだ死ぬつもりはない」

「心配なんかしてないし、死ぬつもりなんかなくても死ぬ奴はたくさんいる。あんた、どうやら命知らずのどうしようもない馬鹿みたいだね。しょうがないから教えてあげるよ。あんたが捜してる娘、この辺では見たことがない。だけど南西地区にならいるかもしれない。あそこは〝王様〟が自分で集めた女を囲ってる場所だからね」 

「……王様?」

「ああ、クソみたいに胸クソ悪いクソ男さ。どっかの大物ギャングらしいが、ある日突然やって来て、この街を勝手に支配し始めた。ここに住んでる全員をカスだと思ってから、扱いも酷い。一昨日は試し撃ちだって言って、シーラの弟を撃ち殺しやがった。あの子、まだ十五だったんだよ? こんな最低なことってある? どうにか報復してやりたいけど、奴は銃持ちの手下を何人も従えてるから、誰も手出しができない。ズベレフ、あいつはセルジオ・ズベレフって名だ。この世のクソの中でも最低のクソ野郎だよ!」


 彼女は言い捨てると、落とした煙草を忌々しげに踏み消した。

 イングヴァルは無言でその姿を見ながら、微かに笑みを浮かべた。 

 この朽ちた街を銃と理不尽さで支配する〝王様〟。

 その男で間違いないと思った。

 教会の男の主であり、自分の多くを失わせた男。

 ようやく捜し続けた相手の元に辿り着いていた。


「ところであんた、金はいくらか持ってる?」

「金?」

 

 突然女が放った質問にイングヴァルは顔を上げた。

 彼女は不敵な笑みを浮かべると言葉を続けた。


「金をくれたら、私が南西地区まで案内してあげるよ」

「案内が必要なのか?」

「一人で行こうとしたって無理だ。よそ者じゃ到底辿り着けないよ」


 彼女の言い分は恐らく間違ってないのだろうとイングヴァルは思った。

 複雑に入り組んだこの街は、一旦迷い込んでしまえば絡め取られたように行き場を見失う。

 しかし手持ちの金はもうなかった。だが目的の場所に行くには案内役が必要だった。


「金は……ない」

「ない? だったら、あそこで立ちんぼでもして稼いできなよ。本来よそ者になんか商売させないんだから、特別だよ。これであんたは目的の場所に行けるし、私は儲かる。ほら、早く行ってきなよ。あんた器量もいいし、見た目の珍しさもあるから男供がどんどん寄ってくるよ。客取りには困らないはずだ」

「……あんたはどうなんだ」

「はぁ? 私がどうなんだって、どういう意味さ。ごちゃごちゃ言ってないでとっとと……」


 イングヴァルは彼女が続きを言う前に、その唇を奪っていた。

 女は驚き、咄嗟に身を引こうとするが、既に主導権はこちらにあるようだった。

 強く握った拳が下ろされ、身体の力が抜けていく。

 イングヴァルは相手の唇を柔らかく噛み、舌をゆっくりと絡ませる。それを彼女は抵抗もなく受け入れる。

 長い口づけの後、彼女はふらついた足取りで後退った。

 潤んだ瞳で、そこにいる少女を見上げていた。


「あ、あんた……何するのよ……」

「男は好きじゃないんだ。けどあんたのことなら悦ばせられる。持ち金はないから身体で支払う。終わったら案内を頼む」

「わ、私がそれを引き受けるとでも?」

「断るか? それなら他の人に頼む」

「こ、断るなんて言ってないでしょ! 畜生! こんな小娘に!」


 女は声を荒らげるが手を強く握り取ると、引き立てるようにして建物に入っていく。

 自室に案内すると焦ったように服を脱ぎ、乱れたベッドに寝転がる。イングヴァルも追うようにベッドに乗って、その足元から這い寄った。


「すまない、連。でも多分これが最後だ」

『気にするな、イングヴァル。必要な手順だ』

「必要な手順か……いつまでも甘いな、連」

『それは全てを理解した上での褒め言葉だと思っておく』

「何……? 何一人で喋ってんの? いいから早く来てよ……」


 伸びてきた女の手に身体を引き寄せられる。

 漂うのは煙草のにおいと甘苦い香り。


「ねぇあんたの名前は……?」

「連」

「連か……いい名前だね。私はジア」

「ジア」

「連、あんた優しい声だね。もっと呼んで……」

「ジア」

「……連」


 甘く綻んだジアの唇に再び口づけた。

 案内役を獲得するため、イングヴァルは彼女の首元へと顔を埋めた。

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