8.罪の行方
イングヴァルは泉の畔に辿り着いていた。
翠の水は月の光に照らされ、見下ろした水面には少女の姿が映っている。
不意に流れた風に水面は波立ち、映る姿を酷く歪めた。
「イングヴァル……」
その声を辿れば、隣に連の姿がある。
イングヴァルは実体をなくした自分の姿を見下ろした。
彼女は自分が犯した過去の罪を知っただろうか。いや、恐らく彼女は感じ取っているとイングヴァルは思う。身体を共有する彼女には、全てが伝わっているはずだった。
妹との誰にも言えない関係。
決して許されるべきものではない。
糾弾される覚悟で隣をもう一度見るが、彼女は何も語らなかった。
『連、俺は……』
イングヴァルは手を伸ばして、隣の相手の髪に触れようとした。しかし伸ばした指は何にも触れることもできず通り過ぎていくだけだ。
落胆し、引き戻すしかない手を追うように連の白い手が動いた。無論捉えられるはずもなかったが、一瞬触れたようにも感じたその行為には、この身体が僅かの間実体を持った気がした。
「イングヴァル、迷うな。思うままに行動しろ。復讐に躊躇いがあるなら、立ち止まれ。この旅を続ける思いがあるなら、進め。お前にはそれしかない」
見上げた月の光は変わらず、そこにあるものを照らし続けている。
イングヴァルは無言のまま、隣にいる相手の存在を感じていた。
******
陽は傾き、夕暮れが迫っていた。
歩み寄る町の教会にも、夕闇の影が落ちる。
扉を開いた先には、一人の男の姿がある。
長椅子が整然と並ぶその向こうで、男は背を向けて何かの作業をしていた。
イングヴァルは足音を忍ばせると、その背後に歩み寄った。
何も言わず、男の後頭部に銃口を突きつける。
開けた窓からは夕方の陽の光が漏れ入り、遠くでは子供達の声が響いていた。
こんな状況に陥っても、男は動揺も驚愕も顕さなかった。
作業の手を止めると、淡々とした声を発した。
「どうした、撃たないのか」
町の人々に語りかけたものと変わらぬ声で男は問う。
イングヴァルは微かに笑みを浮かべると、長身の男の背に言葉を放った。
「随分余裕だな。俺が撃たないとでも思ってるのか」
「いいや、お前からは溢れる殺気が伝わってくる。だからなぜすぐに引き金を引かないのかと訊いたんだ」
男はゆっくりとこちらを向く。
向けた銃口は変わらず相手を捉えているが、男の表情は依然変わらず、感情の見えないその目は対峙する見知らぬ東洋の少女を捉えている。
しかしふと、無表情の顔が僅か弛む。笑みにも見えるものを零した。
「お前がここに来た理由は、墓守の男の復讐か?」
エイデン・タウンゼントは再度表情を消し去って、こちらを見ていた。
目的を的確に言い当てた相手にイングヴァルは微か動揺を覚えたが、問い返した。
「これがあの時の復讐だと、なぜそう思う?」
「私は逃げた墓守を追ったが、彼は街外れで息絶えていた。その傍には意識のないお前の姿があった。私は男の死を確認し、死体とお前を放置して、あの場を去った」
「娘はどうして殺さなかった?」
「少女の殺しは依頼されていない。請け負った殺しは男と男の家族だけだ。少女は殺す必要がなかった。それだけだ」
目前にある初老の男の瞳には、何も見えない。
その奥には昏い虚無が広がる。
イングヴァルはもう何度目か分からない躊躇いを覚えていた。
だがやめる訳にはいかなかった。
立ち止まってしまえば、もう動けなかった。
「どうした、娘。お喋りの時間はもう終わったろう? 私を撃たないのか、それともそっちの得物で首を刎ねるか?」
「お前は……この復讐を甘んじて受け入れるつもりか?」
「その銃は久蔵の銃だな。ゴートは……あの男はいつ死んでもおかしくない男だった。私は流れるように生きるだけだ。今日この時が私が死ぬ時だというなら、私は受け入れるまでだ」
「抗いをやめればそこには死しかない。町の人間に言っていたのとは随分違うんだな」
「生きていかねばならない彼らには希望が必要だ。私はそれを彼らに与えるが、私には必要ない」
「他の人間には嘘を言ってるってことか」
「くだらないな。こんなやり取りは単なる時間稼ぎに過ぎない。お前には分かってるはずだ。私の言葉の意味が」
「お前らが殺した男や家族もあの日あの時、死ぬ運命だったと?」
「それもくだらない。その意味は死を享受した本人が決めることでしかない。さぁ、やるなら早くやれ、娘」
暫し無音の時が流れたが、イングヴァルは結局銃を下ろした。
そのまま何も言わず男に背を向け、出口へと向かう。
男はその場から動かなかったが、冷静な声が背を追っていた。
「娘、私が背後から撃つとは思わないのか」
「あんたは隠し持ってた銃に最初から触れようともしなかった。今だってそうだ。それに俺には殺気がなかった。何もかも最初から分かってたんだろ」
扉を開け放ったイングヴァルは空を見上げた。
連の言葉を思い出す。
『思うままに行動しろ』
自分は迷い続け、悔恨し続けるだろう。でも自分はこの足を止めない。真実から目を逸らさず、ただ前に進む。
この復讐の旅の終わり。もしその時彼女に身体を返すことが、可能なら迷わずそうする。そして自分は消え去るのみ――。
「待て、娘、お前に一つ言っておくことがある……」
しかし去ろうとした背に、その声が届いていた。
歩み寄った男は夕暮れに染まる町を見渡しながら静かに言い伝えた。
「あの墓守の男の妹は生きている」
「……え?」
「お前とあの男がどんな関係かは知らない。だが復讐を果たそうとしていたならただの間柄ではないのだろう。ならば彼女のことも救ってやれ。運命からも、置かれている状況からも。あの山向こうに見える塔が分かるか? 彼女は今もあの塔がそびえる街にいる。私の主もな」
隣に立った男は遠くの景色に霞む塔を指さす。その言葉を終えると背を向けて去っていった。
妹が、アンネッテが生きている。
その驚愕の事実にイングヴァルは再び感情を混乱させた。
塔がそびえるあの街の名はレガシィ。
五十年前の大戦で滅んだ都市の残骸だけが残る街。
「彼女を……救ってやれ……?」
死んだと思っていた妹が生きていた。でも救わなければならない状況にある。そのことを思えば心臓を握り潰されるような胸苦しさと怒りと、焦りを覚える。
だが自分は真実から目を逸らさずただ前に進む。そう決めたばかりだ。
イングヴァルは男が指し示した方角を再度見据えた。
自分が向かうべき最後の行き先が決まった。
この復讐の旅がどんな形で終わろうとも、そこが最後の目的地だった。
「連、あの街に向かう」
『分かった、イングヴァル』
語りかければ力強い声が戻る。
イングヴァルは遠くで佇むいくつもの塔に向かって歩き始めた。
〈ⅳ.三人目の男、エイデン・タウンゼント 了〉
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