ⅳ.三人目の男、エイデン・タウンゼント
1.乖離
イングヴァルは水面に浮上すると、肌に張りついた長い髪を掻き上げた。
連の漆黒の髪は濡れると一層艶を増す。そのなめらかな手触りにはこれまで幾度も心奪われたが、今は何も感じなかった。
再度水に浸かり、身体を浮かせて夕刻近い空を見上げる。
森の奥深く、ひっそりと翠の水面を湛える泉は冷たかったが心地よくもある。
右手を挙げれば、連の張りのある肌を水滴が伝っていった。
彼女の右肩から腕を覆う黒い痣。不安をかき立てるその色が肌を覆い尽くそうとしているのを実感しても、その所以も彼女がどう感じているかもイングヴァルには分からなかった。
『……イングヴァル』
連の呼びかけが届いたがイングヴァルは応えずに、頭まで泉に浸かった。
彼女が自らの意思で身体を入れ替えられると知って以降、無視することが多くなっていた。
よくないことだとは分かっていた。けれどどうしようもなくその事実から目を背けていたかった。
暗い水中に沈むと、くたばり損なったあの日が蘇る。
本当は死ぬはずだった自らに与えられたこの二度目の生。
その決断を下したのはこの世を掌る大きな何かだと、連が言っていたことをイングヴァルは思い出す。
その何者かによって新たな身体を与えられ、生き延びることができた。しかしまたその何者かの気まぐれによってこの身体も、果たせていない目的も奪われる。
弄ばれているとしか思えなかった。
理不尽でしかないと思った。
でも自分など遙かに凌駕する理不尽さに巻き込まれた人物が傍にいる。
連は何もしてない。彼女は元犯罪者でもなければ、自らの間違った判断で家族を死に追いやったりもしていない。ただ死にかけの男を哀れに思って、親切心で近づいただけだ。
イングヴァルは思った。
結局連を思いやっているようで、本当はただの『容れもの』としか見ていないのかもしれない。
ここにいるのは復讐を絶対の盾にして、生にいつまでも執着する醜い男なのかもしれなかった。
「なぁ連、一体いつから身体を自由に取り戻せるようになってたんだ?」
再度浮上し、呼びかけた問いかけに返事はすぐには戻らなかった。暫しの後にいつもと変わらぬ声が届いた。
『いつから、というのは少し正しくないかもしれない。不確なものだったが戻れる感覚を徐々に感じるようになっていた。実行したのはあの時が初めてだった。但し長くは戻れないし、恒久的でもない。それに代わる時は「戻る」という私の意思が必要だ。だからイングヴァル……』
「だからイングヴァル、〝復讐を果たすまで私はお前に身体を貸す〟ってか?」
『ああ、そうだ。何か不満があるか?』
予測したままの言葉が返り、イングヴァルは苛立ちを感じていた。
絶対言わないと分かっているが、本当はもっと違う言葉が聞きたかった。
お前には二度と身体の主導権を握らせない。
こちらの未練を完全に断ち切るような決定的な言葉が欲しかった。
「連、どうしてジーラに行こうと言わなかった? やっと掴んだ貴重な情報だったはずだ。俺の目的地のサルマは逆方向だ。そんな回り道をしてたら相手を取り逃がす。なぁ連、俺の存在は障害でしかない。利点なんか何一つない。身体を奪われ、目的を果たす機会さえも他人に譲ろうとするお前は一体何なんだ? 馬鹿以外の何者でもないよ」
思いの丈を綴ったが、返事は戻らなかった。
イングヴァルは溜息を一つ落とすと、岸に向かって泳ぎ始めた。
だがそこに人影があるのに気づく。脱いだ着物や荷物を漁っていたらしき人影は最後に連の刀を手に取る。そのまま立ち去ろうとした相手にイングヴァルは怒鳴り声を上げた。
「おい、お前、何してる!」
その声に相手が驚いて顔を上げる。遠目に見てもまだ十代の少女と分かった。
彼女は刀を手放さず、森の方へと逃げていく。
イングヴァルは急いで水から上がると裸のまま相手を追いかけた。
「待て!」
声を上げるが相手は止まるはずもなく、だが怪我をしているのか左足を引き摺るその背を捉えるのは簡単だった。
肩を掴み、草の上に引き倒す。
刀を取り上げ、身体を返した。
上から両手首を押さえ込み、身体を跨いで間近で見下ろす。
身体から滴る水が下にいる相手の胸元にポタポタと落ちた。
「どうして盗んだ?」
問いかけても相手はただ怯えている。こちらの視線から逃れるために目を逸らすが今度は連の下半身が目に入り、顔を赤らめる。
困惑と怯え、それらが混じり合った表情をイングヴァルは久しく見たことがなかった。非力な仕草やその表情に、嗜虐の欲望が徐々に煽られるのを感じていた。
「どうした? 俺が怖いか?」
少女の頬に指を添えると、イングヴァルは強引に正面を向かせた。
童顔のせいで幼く見えたが、恐らく連よりも年上の少女だった。
顔を近づけると、怯えの中に恥じらいが浮かぶ。
イングヴァルは舌を出して相手の唇を舐め取った。
子供のような甘い香りが鼻腔をくすぐり、一瞬後悔が過ぎる。
これまで蔑んでいたはずの行為を自ら行おうとしている。そのことに気づいたが、もう止められなかった。
服の上から胸のふくらみを掴み取ると、意外なほどのその豊かさに下半身が反応する。次の行動に移ろうとしたが、これまで黙していた声が届いた。
『やめるんだ、イングヴァル』
「は? どうしてやめる必要がある? こんなのはいつもやってることと大差ない。それとも今日は相手がガキだからか? 心配するなよ、連。こんな顔をしてたって身体までガキとは限らない。とっくに処女でも童貞でもなかったお前と同じだよ」
『やめろと言ってるんだ』
「しつこいな、いつもみたいに黙ってろよ」
『心にもないことを言うなと言ってるんだ、イングヴァル』
「知ったような口を利くな、お前に俺の何が分かる?」
『身体を共有していれば口にしなくても分かる。お前にも私の思いは伝わっているはずだ。現実から目を逸らす代わりに他人や自分を傷つけるのはやめろ』
イングヴァルは返す言葉もなく黙った。
連に制止されなければ、死んでも後悔しきれない愚行を行っていた。
自らの愚かさを改めて思い知れば、少女の手首を掴んでいた力が弛む。
力なく顔を上げるが、その時ようやく傍に誰かが立っていることに気づいた。
「その手をリリーから離せ! この化け物!」
突然のことで何も反応できなかった。
声を上げた相手が振り翳した何かが側頭部に衝撃を与える。
意識が遠離り、瞼を閉じたイングヴァルが最後に目にしたのは木の棒を握り締め、怒りに身を震わせた長身の少女の姿だった。
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