11.決闘、口づけ、別離

「別に連を助けようと思ってしたことじゃない。オレはオレのやることを果たしたまでだ」


 それは今朝、目覚めたニカが言った言葉だった。

 顔色は依然悪く、声も小さなものだったが言いたいことは伝わっていた。

 ニカが来なければ死んでいた。

 伝えた言葉の返事はそれだった。

 オレはオレのやることを果たした。

 その言葉が全てなのだろうと思った。


「僕の一流の腕で傷は完全に修復したよ。でもこれ以降は僕の範疇じゃない。今後どうなるかは彼の気力次第だね」


 男は昨夜の疲労など全く垣間見せず、そう言った。

 優雅に朝食を摂りながら、既に少年を街の医師の所へ移す手はずを整えたと語った。

 その手際のよさには感心と感謝を向けるべきなのは分かっていたが、数々の言動を思い返せば引っかかりも残る。過度な賛辞もなく、簡素な礼だけを述べたが男はそれで満足したようだった。


「だけどね、傷は修復できたけど右腕は以前と同じようには動かせなくなると思うよ。僕の腕を以てしてもそこまでは治せなかった」


 続いた言葉には、無言で頷くしかなかった。

 少年は自らの意思で、妹の命を奪った相手に復讐を果たした。

 失うものがあったとしても、それが彼の望みだった。 

 彼がこれからどんな人生を歩んでいくのか、分からない。

 それを見届ける権利も思う権利もないが、彼のこの先の人生が自分とは重ならないものであることを望むしかなかった。


 太陽は真上に昇っていた。

 イングヴァルは街外れの小高い丘の上に立って、この数日の出来事を思い返していた。

 思い残すことはなかった。

 目的を果たした流れ者の自分は、また新たな場所に向かうだけだ。

 どう転ぶか何も分からなかった旅の終着点が、僅か見えた気がしていた。

 丘を下った先で自分を待ち受けているものは何だろうと思う。

 しかし、それが血と汚れた感情に染まったものであることだけは間違いなかった。


『イングヴァル、は扱えるんだろう』

「ああ、一応な」

『この先きっと必要になる。あの男もそう思ったからそれを手にした』

 

 見下ろした右手には半蔵の銃がある。

 殺し屋の最後の一人、エイデン・タウンゼント。

 半蔵の言葉が間違ってないなら、タウンゼントは単なる殺し屋ではなく、雇い主の直接の部下であるらしい。この男に接触すれば、正体不明の雇い主の詳細も明らかになるかもしれない。

 イングヴァル自身、連の刀の扱いには慣れてきたと感じているが、その持ち主である彼女自身がいずれ『必要になる』と言った。弾の補充はしなければならないが、使った経験はある。扱うのには困らないはずだった。


「おーい、れーんー」


 聞き覚えのある声が響いていた。

 目を向ければ、丘を駆け上ってくる男の姿ある。

 気づかれる前に街を出るつもりだったが、間に合わなかったようだ。今更慌てて逃げても、結局不毛な追いかけっこの始まりでしかない。仕方なくその場に留まって、イングヴァルは男の到着を待った。


「ねぇちょっと連。君、大事なことを忘れてない?」

「そうだったか?」

「そうだったかじゃないよ。あんな約束、僕は何があろうと絶対忘れないからね。こんないい機会は滅多にないんだから」


 息も切らさず駆け寄った男が、早速約束の履行を催促してくる。

 知らぬ存ぜぬで万が一に期待してみたが、無理だった。

〝それが何であろうと絶対望みを叶えなくてはならない〟

 あの時、男はそう言った。

 その望みが何であるか現時点では分からないが、どう考えても嫌な予感しかしない。いつでもどこでも発情する男の要求など碌なものではない。こんな遮るものも何もない草っ原だろうが、全く気にせず襲われかねない。ものによっては全力で避けなければならない可能性もあるが、とりあえず訊ねることから始めてみた。


「分かったよ。で、お前の望みって何なんだ?」

「あのね、連の方から僕にキスしてよ。僕からじゃなくて君からってところがミソだよね。今晩眠れなくなるくらいの濃厚なのを希望するよ。僕の×××がビンビンでギンギンになっちゃうようなキス。ほらほら連、こんな場所だけどいつでもどうぞ」

 

 ファブリシオはにこやかに告げると目を閉じる。

 想像よりマシな要求だったが、それも本当に微々たる差でしかない。

 目を閉じた相手は目前で間抜け面を晒して、完全に無防備だった。またぶん殴って逃げる案も過ぎるが、そうするよりここでケリをつけた方がいい気もしていた。眠れないどころか当分忘れられない出来事になりそうだったが、頑張れば一瞬で済む。そう思えばやれないこともなさそうだった。


 イングヴァルは意を決すると相手に顔を近づけた。

 何やってんだと、やっぱりやめとけが交互に来るが、どうにか正気を保つ。

 間近の唇を目にすると再度決心が揺らぐが、自分で決めたことだと意思を固める。

 息がかかるほど互いの唇が近づいた。

 その時、不意にファブリシオが目を開けた。


「あ、やっぱやめた」

「え?」

「なんかさぁ、どうにも君は気がするんだよねぇ。ずーっとその違和感はあったんだけど、今確信した。だからキスはやめておくよ」

「そ、そうか……」

「だから代わりに僕と戦ってよ。もちろん真剣勝負でね。もし君が勝てば、僕はもう君を追うことはしない。でも僕が勝ったらその時は……分かってるよね?」

 

 キスの取り下げは願ってもなかったが、新たな要求を出される。

 気づいていたが、今日のファブリシオはサーベルを携えている。

 最初からそのつもりだったと今思うが、連が〝腕が立つ〟と言った相手と、身体が動くままにこの刀を使う自分とが果たしてまともに戦えるか、分からなかった。

 でも勝てば、連がこの男に追われることはもうなくなる。

 確率は不確定でも、挑まなくてはならない勝負だった。


『イングヴァル、代わる』

「えっ?」


 だがその声が間近に届き、次の瞬間イングヴァルは正面に立つ連の姿を見ていた。

 驚きは隠せなかった。

 昼日中に彼女と身体が入れ替わるのは初めてのことだった。 


「勝負を受けるんだね、連」

「ああ、ファブリシオ」

「うん、今の君は僕の知ってる君だね。これで心置きなく戦える」


 ファブリシオの顔から笑みが掻き消えた。

 場に重苦しい空気が瞬く間に舞い降りた。

 男は間合いを取り、連の動向を窺っている。

 連は刀に手を添え、静かに息を吐くと風の流れさえ見逃さない緊迫感で全身を覆う。

 

 ファブリシオが動いた。

 剣を抜き、迅速な動きで連の身体を貫こうとする。

 だがそれよりも速く連が刀を抜いていた。

 勝負は一瞬だった。

 連の刃はファブリシオの喉元に突きつけられている。

 その状況にもかかわらず、男の顔には再度の笑みが浮かんだ。


「やっぱり連には敵わないね」

「ファブリシオ、今のは本気だったか?」

「ふふ。この僕が本気じゃなかったと?」


 刀を収めた連が相手を見返すが、突然その胸元を掴み取った。

 そのまま引き寄せ、唇を重ねる。

 全てを奪い去るようなその口づけは、傍で見ているイングヴァルの身体をも熱くさせた。

 そう感じたのは唇を重ねる男の方も同じであるようだった。

 唇が離れ、互いの唾液が透明な橋を作る。

 淫靡に伝い落ちるそれを男はまるで乙女のような切ない瞳で見つめていた。


「ファブリシオ、お前の望みは叶えた。これで貸しも借りもなしだ。約束どおり二度と私を追ってくるな。もし追ってくれば殺す」

「うん……君に殺されるのも悪くないけど、こんな僕だって一応命は惜しい。仕方がないね、約束したもの……それじゃあ最後に旅立つ君に僕からの餞」

「餞?」

「君が捜してるミカエル・グレイは、ここから北に向かった街、ジーラにいる。でもこの情報も半月前のものだから今もそこにいるかは分からない。けど今すぐ向かえば見つけられる可能性はある」

「……」

「じゃあこれでさよならだね、連。君を二度と抱けなくなるのは寂しいけど、この先今の口づけとあの熱い一夜を思い出しながら僕は自分を慰さめる行為に日々勤しむとするよ」


 口さがなく、人格に瑕疵の多い男は期待を裏切らない最低の別れの言葉を残して去っていった。

 遠くなる男の背中を見送り、イングヴァルは目前の少女の姿を眺めながら思っていた。


 心に密かに留めていた危惧。

 この日々は一体いつまで続くのか。それは自分が目的を果たすまで続くのか。

 それともある日ぷっつりと非情にも途絶えてしまうものなのか。

 漠然としていたその怖れはいつしか自分のすぐ傍まで迫っていた。


 連が完全に身体を取り戻してしまえば、自分の存在など邪魔なものでしかない。

 死の猶予期間にしがみつく存在である自分。

 でも目的を果たせぬまま旅が終わりを迎えるより、この世から完全に消え去ってしまうことの方が怖ろしかった。

 気づかぬ間にこんなにも生に固執していた自分。

 そんな自分が他の何よりも怖ろしいと、イングヴァルは思った。



〈ⅲ 二人目の男、半蔵 了〉

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