10.夜明け

「ふぁああああ。で、何かな?」

 

 扉の隙間から顔を覗かせた男がのんびりした口調で言う。

 再度その顔面に拳を叩き込んでやろうかとイングヴァルは思ったが、そんなことにかまけている状況ではなかった。


「頼む。この子を診てくれ」


 腕の中には重篤の少年。この姿を見れば、いくらこの相手でも伝わっていると思っていた。

 しかし向かい合う相手はちらりと見ただけで、再び喉の奥まで覗けそうなあくびを繰り返す。

 まともな神経の持ち主だとは思ってなかったが、ここまでとも思っていなかった。

 ニカはもう呻き声も上げていない。

 一秒も無駄にはできなかった。頭を下げるのは癪だったが、つまらない自尊心はこの場で蹴飛ばした方がよかった。


「お願いだ、彼を診てやってくれ。お前、腕のいい医者なんだろ?」

「うん。まぁ自分でもそう思ってるけど、世間の認識もそんな感じだね」

「だったら、早く……」

「ねぇ、君のお願いは何だって聞いてあげたいと思ってるよ。でも君が困ってて僕が助けられるこの現状、使馬鹿みたいだと思わない?」

「……何が言いたい?」

「君のお願いを聞く代わりに、君は僕の望みを一つ叶えてくれる。それが何であろうと絶対叶えてくれるって今約束してくれたら、その死にかけの子供は喜んで診てあげるよ」


 即答するべき場面だったが、イングヴァルはとりあえず黙った。

 まず相手が言い放った死にかけという言葉が気に入らなかった。どこまでも配慮に欠けた奴だとしか言い様がない。

 それに奴の言う『望み』が何であるかも分からない。連の身に関わることであれば、一存では決められなかった。


『イングヴァル、私の方は構わない』

「だが連……」

『私に考えがある。心配するな、要求を呑むと返事してくれ』


 連はそう言ったが、惑いは残る。でも事態は一刻を争っていた。他に方法もなく了承するしかなかった。


「分かったよ、お前の望みは叶える。だから早くやってくれ」

「んんっ? 早くヤッてくれ……? その言葉、とてつもなくいいね……ねぇ連、今度ベッドの上でも言ってくれないかな? できれば耳奥を撫でるような囁き声で」

「うるせぇな、お前の馬鹿な欲望話はもういいから早く中に入れろ!」

「んっぁ! 早く入れろ? それもすごくいいね……」


 イングヴァルはその場で脱力しかけたが、相手を押し退けて部屋の中に入った。

 この男のことは分かりかけているつもりだったが、そうでもなかった。

 性欲魔神のイカレ男。

 こちらに熱い眼差しを送る相手に舌打ちすると、イングヴァルはベッドにニカを横たわらせた。


「君って本当に、ごりごりと興を削いでくるねぇ。それじゃあ仕方がないから、早速取りかかろうか。面倒臭いことはちゃっちゃと済ませて君といちゃつきたいからね」


 そう言ってウインクしてくる相手に鳥肌が立ったが、男のその後の行動は目を瞠るものがあった。

 まず宿の人間を呼びつけると必要なものを言い伝え、かき集めさせる。

 そのような姿は一度も見たことがなかったが一応医師としての自覚はあるらしく、必要最低限の医療道具は常に持ち歩いているようだった。

 使う道具をテーブルに並べ、足りないものは、かき集めた中から手早く選別して代用する。

 最後に大量の湯とシーツを持参した宿の主人に自分用の夜食を準備するよう言い伝えると、男はこちらに振り返った。


「それじゃ始めるけど連はそこにいる? 見てて気持ちのいいものじゃないと思うけど」

「構わない、始めてくれ」

「分かった。でも気分が悪くなったらいつでも言ってね。僕が優しーく介抱してあげるから」


 男はにやつきながらベッドに歩み寄ると手元の道具を取り、治療を始めた。

 ニカは既に気を失っていた。

 でもそれでよかったのかもしれない。血まみれの大工仕事を思わせる血みどろの治療行程は、イングヴァルでも気を失ってしまいそうなものだった。

 しかし目前の光景を自分は最後まで見届けなければならないと思っていた。


『私も見届けるよ、イングヴァル』

「助かるよ、連。俺一人じゃぶっ倒れそうだ」


 治療は深夜まで続いた。

 長丁場のそれを終えた後、ニカは別室に異動したが依然眠り続けたままだった。


『体力が持てば助かるだろうって、あいつも言ってただろ?』

「そうだな」


 青ざめた顔で横たわるニカの傍らには、心配そうに見守る連の姿がある。

 その隣に立ったイングヴァルは自分も少年を見遣った。


『ファブリシオはクソ野郎だけど、腕はいいんだろ? 本当に心底クソの上にクソがつくクソ野郎だけどな』

「そうだな」


 僅かだけ緊張を解いた連が微かに笑う。

 イングヴァルは床に腰を下ろすと彼女の傍で少年を見守り続けた。

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