6.少年の悔恨
イングヴァルは物陰に潜みながら、昨晩からこんな場所にばかりいると思った。
こうなったのは全部あの男せいだと拳の痛みと共に思うが、自分がしでかしてしまったことを蘇らせると反省のようなものが過ぎった。
『イングヴァル……』
「すまなかった……奴の情報は連が知りたかったことかもしれなかったのに、俺は……」
感情のままにファブリシオを殴って、情報を得る機会を失わせた。奴に請えば聞き出すのはまだ可能かもしれないが、頭を下げる自分の姿を想像すると腹立たしさの方が上回る。でもそんな虚栄心が肥大した自分には再度の自戒が繰り返された。
『いいんだ、謝らなくていい。だが私の方は謝らなくてはならない。お前にいくつか言ってなかったことがあった……痣に関してはもっと早くに言い伝えるべきだった……』
「それこそ謝る必要なんてない、連。あの男が色々出しゃばったせいで俺は知ったけど、今だって無理に話せとは思ってない。どうせ離れられないんだ、連が話したい時に話してくれればいい。俺はいつだって聞く」
彼女の姉や姪の存在。黒い痣がいつか死に至らせるかもしれない事実。捜し求めるのはその呪いを解くことができる男。
表面には出さなかったが、その重い事実に衝撃は感じていた。痣が次第に広がっていることを踏まえれば、残された時間もそう多くはないのかもしれない。
しかしそう思ったことをイングヴァルは心で打ち消した。彼女に関して悲観的な思いを持ちたくないのもある。だが自らの復讐が途絶えてしまうと考えた自分も打ち消してしまいたかった。
イングヴァルは無言で立ち上がると、潜んだ路地から表を見遣った。
ここはこの街の娼婦街だった。どんな華やかな街でもこの場所は存在している。
ファブリシオが立ち入らない場所はどこかと考えて、ここに至った。あのような男は金を払って関係を持つより、自らの魅力で勝負したがる。この場所は今街で一番安全な場所だったが、いつまでも潜んでいる訳にもいかなかった。この街に来てから何も情報を得ていない。日が暮れれば身を隠しながら、多少は動けるはずだった。
「あれは……?」
表通りを見遣ったイングヴァルはある人物を捉えていた。その人物は通りを挟んだ反対側の路地で、自分と同じようにこそこそと身を隠している。
「あいつ、あんな所で何してるんだ……?」
そこにいたのはニカだった。
彼は通りにある一軒の娼館を真剣な眼差しで見つめている。その眼差しから伝わるのは、年頃の少年にありがちな好奇心ではなかった。
彼の瞳には強い殺意が宿っていた。
イングヴァルは身を潜めながら路地を出ると、別の路地を巡って少年の背後に回った。
声をかけようとした時に、少年が見ていた娼館の扉が開いた。
中からは男が一人出てきた。
連と同じ東洋系。
目前にある少年の背が動揺に揺れた。
だが動揺したのはイングヴァルも同じだった。
「やめろ、ニカ」
男の姿を確認した少年は一体どこで手に入れたのか自らの腕ほどもあるナイフを取り出し、今にも路地から飛び出そうとしている。
「れ、連? どうしてここに?」
彼が何をしようとしているかは明らかだった。イングヴァルはこちらを見た相手の肩を掴み取った。
「お前が敵う相手じゃない。行ってもあの場で殺されるだけだ」
「う、うるさい! 連には関係ないだろ! その手を離せよ!」
「やめろって言ってんだろ!」
「何にも知らないくせに偉そうに言うな! オレには何もできないと思ってるんだろ! ほら見ろよ、オレにはこれがある! 自分だけ得物を持ってると思うな! 引っ込んでろよ!」
手を振り切って、ニカは駆け出そうとする。
しかしイングヴァルも離さなかった。
物陰でそんな小競り合いを続ける間に男は店を出て、通りを歩いて去っていった。
男の姿が遠離り、少年は身体の力を抜くと落胆したように地面に座り込む。
握っていたナイフを傍に放ると、怒りの矛先を再度向けてきた。
「クソっ! 逃がしちまったじゃねぇか! お前のせいだからな、連! あいつがいつまたこの街に来るか分かんねぇんだからな!」
「お前が殺されるのをただ見てろってか? たまには大人の言うことを聞け、ニカ」
「聞いてるよ、いつも! でも聞いたからあいつにエレを取られたんだ! オレといるよりいい暮らしができるからって、そんな馬鹿な口車に乗ったから、エレを連れてかれた! 馬鹿なオレのせいでエレはここからいなくなったんだ!」
少年は言い終えると、地面にうずくまった。
抑えていた感情を爆発させるように、拳を地面に何度も打ちつけている。
イングヴァルは何も言わずに傍でその姿を見ていた。
今朝、ニカが目覚める前に家を出た。その時に近くの水場で洗濯していた女性達に話を聞いた。
しかし男にとって手に入れた少女は、単なる商品でしかなかった。後からそのことに気づいた少年は男と妹を必死に捜したが見つけることはできなかった。妹の方は途中で男の企みに気づき、何度か逃げだそうとしたが、結局男に殴り殺された。
イングヴァルはその話を聞いた時、話好きの女達の単なる噂話だと思いたかった。
しかし以前立ち寄った街で聞いた幼い少女を連れた東洋系の女衒の話。
ニカが妹の成り行きをどこまで知っているか、分からない。
だが相手に復讐を果たそうとしているなら、この非情な真実も知っているかもしれなかった。
「ニカ、立て」
「うるさい、放っといてくれ!」
「いいから、来るんだ、ニカ」
「うるせぇ! 離せ!」
イングヴァルはナイフを拾うと少年を無理矢理立ち上がらせた。握り取った手を引くが、相手は抵抗してくる。それはしばらく続いたが、歩き始めればじきに背後からすすり泣く声が聞こえてきた。
「れ、連……オレ……」
「泣くな、男だろ!」
イングヴァルは何を言えばいいか分からず、背後に怒鳴るしかなかった。
こんな時、連ならどんな言葉をかけるだろうと思うが彼女も沈黙したままだった。
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