4.ニカとエレ

 こちらが名を告げると、少年は小さな声でニカと名乗った。

 歳は十二。両親を三年前流行病で亡くし、それからは二つ下の妹、エレと二人暮らしをしているという。

 住んでいるのは両親が唯一残してくれた古びた家。それを聞きつけたイングヴァルは、今晩は連と共にニカの家に転がり込むことにした。


「ほらよ、中身は使ってない。可哀想なくらいシケた額だったからな」


 家に着くとニカは盗った革袋を放って寄越した。それを受け取り、連は中身を確かめることなく元の場所に仕舞った。


「あのさ、オレが言うのもなんだけど、それ、中を見ないのかよ」

「必要ない。嘘をつけばどうなるか分からないほど馬鹿とは思ってない」

「ま、まぁ確かにそうだけど……」


 少年は言葉に詰まりながらも「そこに座っていいよ」と声をかけると、調理場の方に移動した。慣れた手つきで火を起こし、竈にかけた鍋の中身を掻き回しながら肩越しに話しかけてきた。


「あんたと昼間会った時、どうにも間の抜けた奴だと思ったけど、今はちょっと違うな。別人みたいだ」

「目に見えるものだけが、本当のこととは限らないからな」

「ほら、そう言って難しい言葉を使ってくるその感じ、どっか違うんだよなぁ。口調も違うし、いちいちすげぇ怖いし……昼間はさ、もっとこう、呑気で脳天気っていうか……でもまぁ、本質はやっぱ同じか。ほら、これでも食えよ、連。腹減ってんだろ? さっきから腹がぐぅぐぅ鳴ってるぜ」


 少年は振り返ると口元に笑みを浮かべながら、椀を差し出した。

 腕の中身は温かな湯気を上げるスープだった。


「味気なくてシケた食いもんだけどな」

「いいやそんなことはない。ありがとう、いただくよ」


 イングヴァルは連の隣に立つと、腕の中身を覗き込んだ。ほぼ透明色な液体の中に、玉葱と人参の残骸らしきものが浮かんでいる。その味が少年の言葉通りであるのは口にする前から大方想像できた。しかしイングヴァルにとっても連にとっても、それが充分望みを叶えてくれる食べ物であるのは間違いなかった。


「ごちそうさま、おいしかった」

 

 じっくり時間をかけてスープを飲み干した連は少年に礼を言った。隣に座って時折こちらの様子を窺っていた少年は苦笑を浮かべた。


「無理してありがたらなくてもいいよ。もしかして気、使ってる?」

「無理はしていない。本当にありがたいと思っている」

「そんな残飯みたいな飯が?」

「残飯ではない。ニカが私に譲ってくれた貴重な晩飯だ」

「なっ、何言ってんだよ! れ、連になんか譲ってねぇよ! オ、オレは腹が減ってなかっただけだ!」


 少年は顔を赤らめながら声を荒らげると、食器と鍋を手に裏口から出ていってしまった。じきに外からは井戸の水を汲み上げる音が聞こえてきた。


 イングヴァルは先程から暖炉の前で胡座をかいて、彼らの様子を見ていた。連が誰かと話すのを見るのは初めてだったが、単にいつもの自分の立ち位置にニカがいるだけとも言える。


「なぁイングヴァル」

『どうした? 連』

「この家、私達以外の気配がないと思わないか?」


 不意な問いだったが、イングヴァルもそのことは感じていた。

 少年の家には暖炉と竈、食器棚、テーブルと四脚の椅子、必要最低限のものしかない。生活に余裕がないのを鑑みれば雑然としたこの雰囲気にも説明がつく。

 けれどもう一人の住人であるニカの妹は、二つ違いなら十才だ。

 生活に余裕はなくとも、そのような歳頃の少女がいれば、もう少し家の中に華やかさがあるように思う。妹のアンネッテはいつも家のあちこちに摘んだ花を飾っていた。この家には花の一つもなければ、年頃の少女がいる気配も感じ取れなかった。


「うー、夜の水はやっぱ冷たいな」


 ニカが外から戻り、会話は中断された。

 少年は鍋と食器を戻すと水仕事で冷えた手を少しでも温めようとズボンで擦っている。その傍に連が歩み寄った。


「ほら、手を貸してみろ」

「貸してみろって、一体何をする気だよ」


 訝しい声を上げながらも、少年は手を差し出した。

 連はその手をいたわるように握ると、優しく包み込む。彼女の手のひらの熱で少年の手は次第に人肌の温度を取り戻していった。しかしそれ以上に彼の顔の方が赤く、熱くなっているのが見て取れた。


「多少は暖まったか?」

「あ、ああ……さっきより少しはマシになったよ……」

「そうか、よかった」


 連が告げながら微かに笑む。

 元々の美しさが倍増しになって、イングヴァルさえも心を揺さぶられる。

 年端もいかない少年にとっては、それ以上の破壊力があったようだった。


「クソ……全くなんだよ……冷たいんだか、優しいんだか……調子狂う……」


 ニカは様々な感情が入り交じった表情で手を引き離すと、傍の椅子に腰かけた。

 しばらくの間、気まずそうな顔で黙り込んでいたが、ふと険しい表情で連に向き直った。


「あのさ、ちょっと訊くけど、連はずっと東の方の国から来たんだよな……?」

「ああ」

「連の国の人って、みんな子供を殴るのか……? みんな子供を殴って、自分の言うことを利かせるのか……?」

「殴る奴は確かにいる。でも殴らない人もいる。それはどこの国も変わらないんじゃないのか」

「……それはそうだけど……」


 少年は何か言いたげだったが、そのままうつむく。

 暫しの沈黙の後に連が口を開いた。

 

「ニカ、もしかして傍に殴るような輩がいるのか? もしそうなら……」

「違う! そんなんじゃない! ただオレは東の連中は野蛮だって聞いたことがあったから、連もそうなのかなって思っただけだよ!」

「私が野蛮かを訊きたかったのか? それは時と場合による。状況次第だな」

「なんだよ、否定しないのか? それじゃ連も『奴』と同じってことか? いい奴かと思ったのにやっぱりクソ野郎ってことなのか? でもこれではっきりしたよ! やっぱり東の奴は信用ならない! そんな奴にはすぐにでも家から出てってほしいけど、一応泊めるって約束したからな! だけど明日の朝、オレが起きる前までにはいなくなっててくれよ!」


 ニカは立ち上がると言葉を叩きつけて、部屋を出ていった。

 踏み鳴らすように階段を上っていく音も追って聞こえてくる。


 イングヴァルは閉じた扉を見ながら、今のやり取りを思い返していた。

 連にはもう少し答えようがあったのではと思うが、あの場所にいたのが自分でも、いずれ似たような展開になったかもしれない。

 しかし所詮行きずりの街の行きずりの相手。その相手にどのように思われようと気にしても仕方がなかった。


「イングヴァル」

『何だ、連』

「この家を探って彼の妹が本当にいるのか、確かめてきてくれないか?」

『それ、俺にコソ泥みたいな真似しろって言ってんのか?』


「嫌か?」

『なぁ連、なぜあの子供をそんなに気にかける? もうとっくに嫌われてる』

「妹がいるのならそれでいい。それだけだ」


 告げると連は暖炉の前に移動し、横になって目を閉じてしまった。


 イングヴァルはその背後に立ち尽くしたまま、深い溜息をついた。

 そんなことを知ってどうなるという思いもある。

 でも妹と二人きりの家族。嫌でも自分の境遇も思い出させる。


 イングヴァルは再度の溜息をつくと、壁や扉をすり抜けながら家の中をぐるりと巡った。

 不貞腐れた末に自室で寝息を立てる少年はいたが、妹の姿も、彼女がここに住んでいる気配もどこにも見つけることはできなかった。

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