3.夜空と少年
通りの食堂からは食欲をそそるにおいが漂っている。
だが空腹を覚えても、金がない。
行くあてもないイングヴァルは疲れた足取りで、夜道を歩いていた。
あれからかなり時間は経ったが、奴がまだいるかもしれない宿には戻れなかった。
虎の子の資金をつぎ込んだのに、そのつぎ込んだ宿に戻れない。全てあの男のせいと思えば腹立たしさがが蘇るが、それをいつまでも引き摺っても何も始まらなかった。
イングヴァルはひと気のない裏通りに入ると、軒下の木箱に腰を下ろした。
運良く天候には恵まれていた。これで雨でも降っていたら惨めさが増す。
夜空にはいくつもの星が瞬いていた。外である以外に不備のないこの場所で夜を明かすことぐらい慣れたものだった。
『……イングヴァル』
微かな連の声が届いた。声色には今日の一連の出来事に責任を感じているらしき気配がある。
執拗で厄介なあの男の存在。この街で偶然出会したのは確かに不運だったが、その後金を盗られ、今こうして寒空の下にいるのは追跡を結局振り切れず、周囲の警戒を怠っていた自分のせいだった。
「連、すまない……」
『いいや、原因は全て私にある。奴の情報収集能力を甘く見ていた。それと資金力もな。人たらしとも言うべき奴の人心掌握術は最大の武器だ。それを十二分に駆使して居場所を突き止めたんだろう。やはり……奴から完全に逃げ切るのは無理なのか……』
連の声は小さくなりながら途絶えた。
イングヴァルは賑やかな表通りに目を遣ると、軽く溜息をついた。
このうら寂しい状況を思えば、ふと虚しさのようなものが過ぎる。自分はただ久し振りに辿り着いたこの街で、少量の温かいスープと乾いた寝床が欲しかっただけだ。
でもそれすらも与えられる権利などないと言われてしまえばどうしようもないが、裏通りで腹を空かせるこの状況と女の尻を追いかけまくりながらも、潤沢な資金を持つあの男とを比べれば、違う方向性の腹立たしさが蘇りそうになる。
どうせならいっそのこと奴の息の根を止めてその金を奪ってやろうか……といった短絡的で浅はかな考えも脳裏を過ぎる。
『なぁイングヴァル……』
再び届いたその声は、今夜もその時が来たと知らせるものだった。
まばたき一つの間にそれは行われ、目を開ければ隣には今ほどまで自分の姿だった連の姿がある。
未だ肩を落とすその姿に、イングヴァルは再度の溜息をついた。
自分も連も、よくない思考をぐるぐると繰り返しているだけで、先を見ていない。
少しでも状況を変えようとイングヴァルは立ち上がって辺りを見回すが、その時、通りから喧噪を破る女性の悲鳴が響き渡った。
「誰か! 捕まえて! スリよ!」
賑やかだった通りが不穏にざわつき、悲鳴に怒号も混じる。
同時に誰かが路地に駆け込んできた。
逃げるように目の前を通り過ぎようとしたその『誰か』の腕を、立ち上がった連が捉えていた。
「クソっ、離せよっ!」
連に足止めされ、叫ぶ相手の顔をイングヴァルは覗き込んだ。
その少年の顔には覚えがある。本日は本当に不運ばかりだったが、ひとつだけ取り戻せそうだった。
「また会ったな少年、さっそくだが私の金を返してもらおうか」
「か、金? い、一体何のことだよ?」
「この状況でとぼけるか? いい度胸だな」
「分からないから分からないって言ってるんだよ! い、いいからその手を離せよ!」
「もう一度言う。今すぐ私の金を返せ、少年。今返せば、そうだな。お前の顔の両側についているそれを削がないでおこう。できれば明日の朝も鳥のさえずりを聞きたいだろう?」
抑揚もなく、感情も見えないその声は路地裏に冷たく響いた。
間接的だが現実味を感じさせるその脅しは、少年を震え上がらせるには充分だった。
彼は連を見上げながら、無言で何度もこくこくと頷く。
そのやり取りを傍で見ていたイングヴァルは、自分に言われたのではなくてよかったと心から思った。
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