2.ベッド上の攻防

 ただ一つの幸運は、教えられた宿が思う以上に安価であったことだった。

 ブーツの底に隠していた予備の金で宿代は賄えたが、明日からの資金はこれで皆無になってしまった。

 でも今日はもう疲れてしまった。

 今後のことはまた明日考えるしかなかった。


「疲れた……」

 イングヴァルは部屋に入ると、歩み寄ったベッドにそのまま倒れ込んだ。

  疲労困憊した身体を受け止めてくれるベッドは安宿の割に質が良く、シーツもまともなものだった。

 この街に到着してからの諸々の出来事がなければ、もっとくつろいでいられたはずだった。


「……クソ……マジで腹立たしい、自分が」

 呟きながら目を閉じるが、感じているはずの疲労や眠りを押し退けて、本日の失敗が何度も蘇ってくる。だがそれを追い出せば、今度はこのひと月半の日々が脳裏を過ぎっていた。


 ゴートを倒して以降、新たな情報は何一つ得られていない。焦りは無論感じる。でもそれを排除しても結局残るのは反省や後悔ばかりで、次に繋ぐものもない。

 ふと墓地で屠った男の姿が蘇る。

 瞼の裏に散る鮮やかな赤。

 祭壇の前に横たわる血みどろの死体と手にした空疎な感触。


 歩みは遅いが、目的は確実に叶えられている。

 だが留まる惑いも消えないままだった。

 しかし、やらなければならなかった。

 自分が捜し求める男はあと二人と、一人。 

 今憂わなければならないのは旅の資金を失い、有益な情報も得られずにいることだ。

 こんな感情で、自らを足止めしている訳にはいかなかった。


「連! こんな所にいたんだね! 随分捜したよ!」


 その時、扉が勢いよく開いた。

 同時に覚えのある声が部屋に響き渡った。


「う、嘘だろ?」


 改めて確かめなくとも、そこにいるのが誰かは分かった。

 イングヴァルは冷水を浴びせられたような恐怖を感じるも素早く身を起こし、傍らの刀を握り取って窓に向かった。

 部屋は二階だったが、迷ってなどいられなかった。

 窓枠に手をかけると、運良く真下に荷物を積んだ馬車が止まっている。

 一気に飛び降りようとするが、その前に背後の腕に身体を捉えられていた。


「あれー? 連、一体どこに行く気なんだい?」

「は、離せっ!」


 男に抱きかかえられ、身長差で踵が床から浮く。

 そのせいで力が入らず、逃れようと暴れても男の髪を掻き毟るのみだ。

 どうにか後ろを見ると、すぐ背後にあの男、ファブリシオの顔がある。その顔面に言葉を叩きつけた。


「離せって言ってるだろ! この変態野郎!」

「痛ててて。髪を引っ張らないでよ、連。だけど痛くても絶対離さない! やっと見つけたんだよ、僕の連!」


「やめろ! お前のものになった覚えは欠片もない! 早くその手を離せ! 気色悪い!」

「気色悪い……それちょっとひどいんじゃないかな? 過ぎる時間も忘れて、あんなに愛し合った仲なのに」


「そんな覚えもない!」

「覚えがないなんてあり得ないよ。僕は一年経った今でもはっきり覚えてる。一晩中僕の×××を君に××て、君の×××と僕の×××をこう、×××して……」

「うわーっ! やめろ! そんな詳細聞きたくない!」


 男が綴る無遠慮な言葉の羅列は、連の体験でしかない。

 だが現在彼女と身体を共有しているからか、まるで自らの身に起きたことのように感じる。

 そのあまりにもの恐怖に耐えられずイングヴァルは再度力任せに暴れるが、優男のくせにやたらと力加減が上手い相手の腕から逃れることができない。


「うわっ」

「やっと二人きりだね。連、さぁ、一年越しの口づけを」


 ついに傍のベッドに押し倒されていた。

 相手に素早く馬乗りになられ、また逃げ出せない。 


 イングヴァルを絶望が襲っていた。

 逃げ場もなく、おあつらえ向きに寝心地のいいベッドもある。

 これまでは邪な欲望を向けられても、全力で排除してきた。

 だがこの相手には、何も通用しない気がしていた。

 奴には力も言葉も撥ね除けるがある。

 ここでどう足掻いても、全てが無意味である気がしていた。


「連、ようやくおとなしくなったね」


 ファブリシオからは花の香りのようないい匂いがしていた。

 男のくせに唇はかさつきもなく、潤っている。

 間近で自分を見下ろす相手は、怖ろしいほどの美男子だった。

 その顔を眺めているともうどうでもいいやと、ほんの僅かだけ過ぎる。


 しかし……こんなことは何があろうとあり得なかった。

 奴と元の姿の自分が、ベッドの上でいちゃついている絵面が不意に浮かぶ。

 それにはただただ怖気が走った。

 そんなおぞましいものは欠片でも想像してはいけなかった。


「あり得ねぇんだよ!」

「うわわっ」


 イングヴァルは渾身の力で相手を突き飛ばすと、ベッドから逃れた。

 情けない声を上げた男は油断していたのか、床に転げ落ちる。


「このド変態野郎! 二度と俺を追うな!」


 イングヴァルは再度刀を握ると、窓から下の荷台に飛び降りた。

 夕闇に落ちていく街を駆け、絶対二度と、振り返らなかった。

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