ⅲ.二人目の男、半蔵
1.悪夢のような男
『逃げろ、イングヴァル。今はそれしか言えない。だが絶対に逃げ切れ』
半月振りに辿り着いた街の中を、イングヴァルは駆けていた。
走り抜ける周囲には、戦渦の折にも倒壊を逃れた歴史的建造物が建ち並んでいる。しかし目を瞠るそれらを今はじっくり見る余裕も、食欲をそそる屋台のにおいに腹を鳴らす余裕もない。
ただひたすらに人混みを縫いながら、街中を駆けていた。
「おーい、連。どうして逃げるんだー」
足を止めずに振り返れば、雑踏から頭一つ分出た男の姿がある。
歳は三十代前半、細身で長身、一見育ちがよさそうには見える。
「おーい、連。待ってくれってー」
その顔には人懐っこく魅力的な笑みが浮かんでいるが、でもどうしてか同時におぞましくも映る。
それは身体を共有する連から流れ込む感情のせいかもしれなかった。
数分前、イングヴァルは辿り着いたばかりのこの街の雑踏で、背後の男と遭遇した。
目が合った途端、相手の顔にはみるみる笑みが浮かび、それを目にした連が小さな声を上げた。
『お前……ファブリシオ……』
その震え声は、常に冷静沈着な彼女が零したものとは思えなかった。
続けて彼女は絶対逃げ切れと言い伝え、イングヴァルはその指示に即従った。理由は分からなくとも今はそうするべきだと、本能が訴えかけていた。
イングヴァルは駆ける速度を上げると、前方の角を勢いのままに曲がった。
その先は細い路地になっていた。
家々が続く周囲を素早く見渡し、傍の石塀に手をかけて一気によじ登る。更にその先にある家屋の屋根にまで上がると、レンガ造りの煙突の陰に身を隠した。
「れーん、どこ行ったんだー」
下を窺っていると、男がやって来た。
男は呑気な声を上げながら辺りをしばらく捜索していたが、じきに別の場所を捜すために去っていった。
「……連、あいつは何者だ?」
男の姿が見えなくなっても、イングヴァルは屋根から降りる気になれずにその場で訊ねた。
返事はなかなか戻らなかったが、長く続いた沈黙の終わりにこれまたらしくない惑った声が届いた。
『あいつは……ファブリシオ・ゲリアという……一年ほど前に立ち寄った街で出会った男だ……一言で形容するなら馬鹿だ。だが怖ろしい馬鹿だ』
「怖ろしい、馬鹿……?」
『あいつは私に酷く執着し、今もこうして後を追ってきている。さっきも言ったが、決して捕まるな。私は一年前、一度捕まった……奴に捉えられ、奴の悪趣味なベッドに括りつけられ、まる三日の間、二度と思い出したくない体験をさせられた……解放された四日目の朝、陽の光が目に刺さるようだった。腰はまともに立たず、体力が完全に回復するまで七日は要した。それ以降奴は裕福な家も、約束された将来も放り出して、私を追い続けている。元々旺盛な好奇心と性欲の持ち主だ。その上無駄に腕も立つから余計厄介だ。再び奴に捕まれば、もしかしたらもう二度と……』
「も、もういい 連! そ、その先は言わなくていい!」
イングヴァルはある種の恐怖を覚えながら、連の言葉を遮った。
この姿になって以降、男だった時には不必要だった危惧と何度も直面することになった。それらと出会う度、連の体術と自らの強い拒否感でやり過ごしてきたが、どう足掻いても身体の大きさや力で敵わない時もあるのは分かっている。
しかしながら今回のこれは、今までとは危機感が段違いだった。
どうやってでも回避しなければ、連と自分、どちらの精神も崩壊しかねなかった。
「わ、分かった……し、心配するな、連。何があろうと俺はあいつから絶対逃げ切る!」
『……頼む、イングヴァル、期待……してるから……』
そう呟くと連の声はまた途絶えた。
不安が残るが、彼女の身体と自らの精神を守れるのは、今身体の所有権を持つ自分しかいない。
イングヴァルは連に言い伝えた絶対逃げ切るという言葉を、改めて心に刻み込んだ。
屋根を降り、再び通りに出ると、周囲に注意しながらこの街の市場が集まる通りに向かった。
路上には多くの屋台が並び、たくさんの品々が並んでいる。甘い香りを漂わせる果物や、砂糖とミルクを入れて煮詰めた紅茶、初めて目にするこの土地の民芸品や名物料理。
通りをそぞろ歩く人達は街の遺物目当ての観光客もいるが、地元の買い物客も多い。
炙って香辛料をまぶした鶏肉の香りに腹が鳴ったがとりあえずは諦めて、イングヴァルは衣料品を扱う屋台で藍色のショールを見繕った。
それを頭に被り、上半身まで覆うと長い髪と着物が大方覆われ、大分印象が変わる。
イングヴァルはなるべく顔を伏せて歩き始めた。
本来ならすぐにでも情報収集に勤しみたいところだったが状況が変わった。早めに宿を取って、数時間は潜伏した方が良策であるはずだった。
「クソ……あいつのせいで予定が狂う」
市場の通りにも宿屋はあったがこんな賑やかな場所ではなく、できればもっと人目につかず、できればもっと場末にあるような安宿がよかった。
イングヴァルは再び通りを歩き始めたが、こそこそと下を向いていたのが災いしてか正面からやって来た小柄な人影とぶつかってしまった。
「痛ってぇな、気をつけな」
不機嫌そうな声に顔を上げると、そこには十一、二才くらいの少年の姿がある。
「えーと悪かったな、怪我はなかったか?」
「はあ? 怪我? 怪我なんかするかよ。柔な姉ちゃんにぶつかって怪我なんかしたら、こっちが恥ずかしいよ」
少年は勝ち気そうな表情で、こちらを見上げている。
その態度や声色には脊髄反射でつい生意気なガキだと思ってしまうが、自らの少年時代を振り返ってみれば彼の方がかなりマシであるのは間違いないと、イングヴァルは思う。
「そりゃ悪かったな。それじゃ、もののついでに柔じゃない坊主に一つ訊ねたいんだが、いいかな」
「おう、何でも訊けよ」
少年は勝ち気な表情をより際立たせて、胸を叩いてみせる。
「この辺で一番安い宿ってどこかな? できれば人目につかない宿だと、なおいいんだけど」
「安くて人目につかない宿? うーん、それならこの通りをずーっとまっすぐ行った先に灰色の屋根の小っさい宿があるんだけど、そこかな。だけど姉ちゃん、安い宿って……もしかして貧乏人か?」
「貧……少しは言葉を選んでくれよ。でもまぁ確かに裕福ではないな……」
「ふーん、可愛い顔してんのに残念だな。けど貧乏だろうが何だろうがこの先も生きていくしかないもんな。まぁ長く細くがんばれ」
「あ、ああ……」
少年はありがたい激励の言葉を放つと、手を振って去っていった。自らのガキの頃よりマシだと思っていたが多分……いい勝負であったようだった。
『イングヴァル……』
「ど、どうした連? 奴か?」
再び届いた連の声にイングヴァルは身構えたが、辺りを見回しても男の姿はない。
『今すぐ荷物を確認してみろ』
「えっ?」
言われてすぐ確かめたが、金を入れた革袋がなくなっている。革袋には旅の資金が入れてあった。
ショールを買った店では確かにあった。なくなったのはその後だ。
「もしかしてあのガキ……」
あの少年がスリであったと、今更のように悟る。
彼が去った方角を追ってみるが、もういるはずもない。
金を盗られた後も呑気に話していた自分には、残念な思いが過ぎる。
いつもならぶつかられた時に気づいていたはずだ。しかし
「まったく、なんて日だ……」
力なく呟いても、過ぎ去った失敗は取り戻せるはずもなかった。
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