4.悪夢と墓標
男の甲高い笑い声が、遠くから響いている。
耳障りなそれにやめろと怒鳴り声を上げても、男は笑うことをやめない。
男は妹の首を絞め上げると、力の抜けた彼女の身体を陵辱し、またあの笑いを響かせる。
耐えられないその光景から目を逸らそうとしても、逃れられず、視界を閉ざすこともできない。
目前の惨劇は近くなり、遠くなり、しかし消えることは決してない。
妹の死は、変わりようのない現実でしかない。
再びの嘆きは漏れることもなく、自分の奥深くに沈んでいった。
******
イングヴァルは何かに追われるように、目を覚ました。
ひび割れた窓の向こうは、とっくに陽が昇っている。
酷く汗をかいていることに気づいて、昨晩の連の行為を無にしたことにも気づく。
何かに急かされるようにベッドを降り、着物を纏う。無言でブーツを履き、立ち上がって傍らの刀を掴み取るが、その時連の声が届いた。
『……どうした、イングヴァル?』
彼女の声には、怪訝がある。
イングヴァルはその時ようやく自分がまだ追われていると感じていたことに気づき、首を横に振った。手にした刀を戻し、ベッドに腰を下ろしながら彼女に答えた。
「なんでもない、ただ……悪い夢を見ただけだ」
『夢?』
「妹が殺される夢だ……俺は彼女が殺されるところは見ていないのに、時々こうやって夢に見る……でも今日のは少し……酷かった……」
笑い声をいつまでも響かせる頬に疵のある男。同じ笑い声はあの夜、逃げ惑う自分の背にも幾度も届いた。
妹を殺したのがこの男だとは、断定できていない。
しかし妹の夢に現れるのは、いつも顔に疵を持つこの男だった。
『誰かがお前に何かを伝えようとしているのかもな』
「え?」
『いや……』
「誰か? 誰かって、それってもしかして連が前に言ってた何かを掌る大きな存在? って奴か?」
『いや、そうじゃなく……すまない……今の言葉は忘れてくれ、イングヴァル』
連は言葉を淀ませると、それ以後何も言わなくなった。
頬に疵のある男。
妹を殺した男が三人の誰かは分からない。でもこうやって繰り返し夢に出ることには意味があるのかもしれない。
連が告げようとしたのは、そんなことだったのかもしれなかった。
その後イングヴァルは改めて身支度を整えると宿を出て、街で男達の情報を集めて回った。
酒場や馬車の乗り合い所など、流れ者が立ち寄りそうな場所を順に巡ってみたが、結局夕刻までに得られた情報はどれも曖昧だったり随分と過去のものであったり、有益なものは何一つ手元に残せそうもなかった。
「そういや、前に嬢ちゃんみたいな東洋人なら見かけたことがあるよ」
その言葉を聞けたのは、今後の物資補給のために立ち寄った雑貨屋の店主からだった。本日の実りのなさを思えば期待感は薄かったが、一抹の希望を託してイングヴァルは彼に問いかけた。
「東洋人? 親爺さん、それっていつの話?」
「そうだなぁ、もうひと月も前になるかねぇ……ここの前を通ったのを見ただけだが、多分あれは人買いだったんだろうよ。年端もいかない女の子を一人連れててね、逃げ出そうとしたのか、その子の顔には殴られた痕がいくつもあったよ……儂はこの場所で長い間商売しているから珍しい光景でもないが、さすがにあの姿は不憫だった……」
店主は語りながら、表情を曇らせた。
少女の売買。国の中心から離れた寒村に行けば行くほど、そんな話は腐るほどある。親は口減らしのために娘を売って、娘は自分を売った家族のために身を粉にして働く。
店主が見た男は女衒だろう。でも残念ながらその後に聞いた男の相貌や見かけの記憶は、少し曖昧だった。しかしこの国で東洋人の存在は些か目立つ。今は不確かな情報でも、今後に繋がる可能性を秘めているかもしれなかった。
「親爺さん、もう一つ訊くけど、この辺りでミカエル・グレイという名を聞いたことはない?」
「ミカエル・グレイ? うーん、そうだなぁ……いや、そんな名はちょっと聞いたことがないねぇ、すまないねぇ」
「いや、いいんだ。色々どうもありがとう」
イングヴァルは彼から保存食用のパンと水を買うと、もう一度礼を言ってその場を離れた。
最後に訊ねたのは、連が捜し続ける男の名だった。
ミカエル・グレイという正体不明の男を連は捜している。
この半年、その男に関する情報は皆無に等しかった。未だ何も得られないことに連の表情に不安が過ぎる時もあるが、彼女が諦めを垣間見せたことは一度もなく、それはこれからも変わらないはずだった。
ここでの二度目の日暮れが近づき、イングヴァルは街外れの道を歩いていた。
賑やかな盛り場とは違い、辺りには農場や畑が広がっている。
その光景は心穏やかにもしてくれるが、秋の訪れも漂う今では心寂しいものもある。
じきに冬が訪れれば、街から街へ移動することも困難になる。雪が降り積もれば、男達の痕跡も消えてしまう気がしていた。
『墓地だな』
「そうだな」
道を進むと農場も畑も見えなくなり、ひっそり佇む墓地だけがある。
街の大きさと比例して、死者を弔う場所も広く、敷地を囲む鉄製の柵がどこまでも続いている。
覗き込んだ門の向こうには、苔生した道が伸びている。
湿り気を帯びたその気配を懐かしくも感じるが、真逆の思いも呼ぶ。
蘇った重い感情を引き摺って、イングヴァルは墓地に足を踏み入れていた。
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